「野口英世、人類のために生き、人類のために死せり」
今日、当直をしながらNHKの「その時、歴史は動いた」を観ていた。
n もともと観ようと思っていたわけじゃなくて、巨人日本一の瞬間なんて観たくもなかったし
「天才柳沢教授の生活」は録画してあるので、あとでゆっくり見られる。
というわけで、野口英世の業績について描かれたこの番組を。
この番組の特徴は、いままで「母シカとの愛」とか「医学のためにアフリカに渡って黄熱病にかかって客死した悲劇の研究者」であった野口英世の研究実績を客観的に評価しているということだろう。
はっきりいって、彼の功績は、日本ではあまり評価されていない。
まあ、彼がいわゆる学閥出身者でないこともあるし、実際の研究はアメリカで行っていたということもある。「梅毒スピロヘータはともかく、黄熱病の原因菌は間違っていたじゃないか」ということもいわれる。
でも、この番組では、野口英世というひとりの医学者は、南米では非常に尊敬されているということが紹介されていた。
「確かに、彼の黄熱病についての研究結果は間違っていた。でも、彼は研究のやり方の基盤をここ(エクアドル)に築いてくれたし、何より、危険をかえりみずに医学のために献身する姿で、われわれに勇気を与えてくれたんだ」と彼を尊敬する医師が語っていた。
確かに、野口英世は女好きで浪費家だったらしい。「食卓にまで顕微鏡を持ち込んでいた」というのは、研究者としては美談だが、家族からすれば「ごはんのときくらいちゃんと食べてよ」と言いたくもなるだろう。
ただ、その動機が彼自身の野心であれ人類愛であれ、野口英世のやったことは、たくさんの人々に勇気を与えたのは間違いないのだ。
実際、病理という仕事をやっていると「英世は、他の学者よりも数多くの標本をつくり、他の研究者が見ないようなところまで観察した」というようなフレーズに、妙に感応してしまう。
前回「超人的な標本を診るスピードだった」と書いたのだが、標本というのは、診るのにももちろん時間がかかるのだが、それ以前に「それだけたくさんの標本を作る」ということ自体がかなり大変なことなのだ。
僕なんか、いつも標本作りをしていると「とりあえずこのくらい作っとけばいいよなあ。最低限ってことで。診るの大変だし、必要なら追加すればいいや。なるべくプレパラートは少なく…」とか思っちゃうもんなあ。
彼にとっての最後の仕事となった黄熱病の原因は、英世の時代の顕微鏡では見ることが不可能なほど小さく、30年後に電子顕微鏡でようやく発見された「ウイルス」だったということだ。
どんなに優秀な研究者でも、見えないものを追っては、答えは得られない。
きちんと追試をしないで発表したことに否がないとはいえないが、たぶん、歴史の中には、その時代では答えを得ることが不可能なことに一生を捧げた人は、たくさんいたのだろうと思う。
ある意味、歴史は無情だ。
どんな優秀な明治時代の医者の診察でも、現代の研修医の胃カメラやCTスキャンほどの情報を得ることは不可能だ。
きっと、僕らが今やっていることも、将来の人類からすれば「原始的で、野蛮な医療行為」と思われる日がくる。それは未来の必然。
人間はいつか死ぬし、どんな斬新な研究もいつかは古くなる。最新の技術も、あっという間にローテクだ。
でも、きっと志だけは、生きかただけは、いつの世の中でも本質的には変わらない。
それは、別に偉人と呼ばれるひとに限ったことではないはず。
「野口英世は浪費家で女好きだったし…」なんてことばっかり、言い訳にしちゃいけないよな、やっぱり。