緑の墓標
「もう、あれから10年になるんだね」
と、僕は優梨子に語りかけた。
まわりは、一面の深緑の世界。
10年前の夏、彼女の乗った飛行機は、この山深い場所に墜落した。
僕らが、その現場にたどり着いたのは、翌日の午後のこと。
一面の緑のはずだった世界は焼けただれ、黒々とした煙が、まだ燻っていた。
僕はそこで、変わり果ててしまった、優梨子だった物体に逢った。
それから、10年になる。
毎年この日になると、僕はこの山奥に上り、彼女に語りかけてきた。
最初の何年かは、痛ましい事故の記憶があちこちに散らばっていたけれど、今はもう、事故の事実を記した碑だけが、ここがその現場であったことをかろうじて伝えている。
毎年のように会っていた他の犠牲者の家族も、子供は大人になり、大人はみな年を重ねていき、その数も少しずつ減ってきた。
「今年も、暑いですね」1年ぶりの再会。あのとき、ただ茫然と感情を置き忘れたように佇んでいた女の子は、もう、立派な女性としての笑顔を僕に向けてきた。
「11月に結婚するんです。父に、ちゃんと話しておかなきゃと思って。
ほんとは、ウエディングドレス姿を見せてあげたいんだけど、
ここは、そんな格好で来られるようなところじゃないですものね」
「いや、わざわざここに来なくても、きっとお父さん、見てると思うよ」
僕は彼女にそう応えながら、それなら自分はどうして毎年、ここに来ているんだろうな、と自分に問いかけてみた。
その日の夕方、灯された数千本の蝋燭を見つめていると、僕の前に優梨子がやってきた。
「1年ぶりだね」と僕が話しかけると、優梨子は、こっくりとうなづいた。
「実は、君に話さないといけないことがあるんだ」
「わかってるわよ、麻衣さんのことでしょ。あなたは一年ぶりって言ってるけど、
私、ずっとあなたのそばに居たんだから」
「彼女と…結婚しようと思う。君のことを忘れたわけじゃない。でも、でも…」
「ううん、いいのよ。私のことは心配しないで。ほんとは、ちょっとだけ安心したの。
ず〜っと独りでいたら、どうしようかと思ってた。責任感じちゃうわよ」
「いいのかい、ほんとうに?」
「あなたは、私が死んでしまったって思ってるんでしょ?
でも、そんなことはないのよ。
私はね、今でもちゃ〜んと生きてるんだから。
あなたは意識していなくても、ご飯を食べた後に「ごちそうさま」って言うようになったのも、映画館でスタッフロールの最後まで観るようになったのも、みんな私の影響。
私の体はなくなってしまったけれど、私は、あなたやみんなの中に少しずつ散らばって、
これからも生きていくの。
その破片は、海の水がどこの川からやってきたのか判らないように、
私のものかは、見た目ではわからなくなってしまうかもしれないけどね。
ちょうど、この森の木たちが、1本1本、少しずつ枯れたり育ったりして入れ替わってても、
見た目は同じような森でいるのと一緒よ。
1本の木は枯れたようにみえても、栄養になって、森の一部として行き続けていくの。
私も、あなたを通じて、麻衣さん、あなたの子供、その子供、友達…
そんなふうに、永遠に生き続けていくのよ。だから、全然、心配しなくていいの」
僕は、ただ、彼女の言葉に黙って頷くことしかできなかった。
彼女が「認めてくれた」ことへの感謝と後ろめたさが入り交じって、
自分が涙を流していることにさえ気がつかなかった。
「…そろそろ、下山しませんか?もう、だいぶ暗くなってきましたし」
さっきの女の子に話しかけられて、僕は、現実に引き戻された。
そして、どこに行ったかわからなくなってしまった彼女の姿をもう一度だけ探したが、
もう、深い緑に覆われて、どこにも見つけることはできなかった。
「ねえ、そのコーヒーをかき混ぜてからミルクを入れるの、どこで覚えたの?
私、女子高の作法の時間で1度だけ習ったような気がするんだけど」
麻衣の質問に、僕は答えた。
「前の彼女に、教えてもらった。いや、僕が彼女の癖を面白がって真似してたら、癖になっちゃったんだよ」と。
「そうか…あなたが私に前の彼女のこと話してくれたの、はじめてだね。
その人、いま、どうしているの?」
「うん、8年前、事故で死んでしまったんだ…」
そう話しはじめながら、僕は心の中で呟いていた。