ガム島

昭和20年3月24日、硫黄島の西海岸からガム島に送られることになった。大きな船に乗せられた。米国軍人が機関銃を持って我等を警備している。船は出た。何日も走ってガム島に着いた。ヤシの大木が全部中央部から折れている。満足に立っている木はただの一本もない。草葺きの土民の小屋に沢山の捕虜と共に入れられた。手のない者足のない者色々だ。我等の仲間も沢山居る。恥ずかしいことはない。毎日日本語のわかる将校が調べる。私は何を聞かれても知らん存ぜんで通した。私は完全に死ぬのを米軍が助けてくれたのだからありがたいと思っている。

 

ハワイへ

傷はだんだん良くなっていく。ガム島で10日間も過ぎた。我等は大きな汽車ほどあるバスに乗せられた。港まで運ばれた。大きな輸送船団が着いている。米国に帰る看護婦が大勢乗っている。看護婦は皆少尉である。みんな美人に見える。長い間女を見てないので、美人に見えたのかもしれない。10隻くらいの船団である。我等は一つの船に乗せられた。船は出た。どこに行くか言わんのでわからない。船は毎日走る。日本の捕虜が一名死んだ。水葬にすると言う。布を巻いて海中に投げ込む。それで終わりである。船はその付近を3回まわって葬式終了した。我等は黙祷した。

 

海軍病院へ

私の傷も化膿した。大熱が出た。米国の看護兵が体温計を見て驚いた。水銀が上にあがり計れないようになっている。45度以上である。私も自分がわからんようになった。夢に米軍の兵隊が話している。日本の捕虜は米国に連れて行って殺すと言っている。翌朝目が覚めてみると、

米兵が日本語で話す訳がないから、私の聞いたのは熱のためそんな夢だったことがわかる。船は10日でハワイに着いた。元気な奴は歩いて上陸する。私はタンカでおろされた。2階のあるバスに乗せられる。黒ん坊の運転手だ。鍋の底よりまだ黒い。笑って歯の見えるほうが顔である。海軍病院に着いた。昭和20年4月24日である。長い船旅は終わる。傷は痛い。ハワイ真珠湾の見える丘の上の病院で養生することになった。昭和16年12月8日に日本が空襲したところなのだ。敵さんにとっては恨みの深い土地である。海が浅いので日本の沈めた船が半分以上水から出ている。焼けたままになっている。

 

病院

手術せず毎日傷口に薬をつける。膿はとまらぬ。傷口から大きな骨片が出てきた。2ヶ月入院した。今日まで海軍(マリン)の病院だったが、陸軍(アミ)の病院に引き渡される事になった。大きなトレーラーバスに乗せられてハワイを走る。しばらくして、陸軍の収容所に入れられた。ドイツ、イタリヤの捕虜も沢山居り、我等とは別のキャンプに入れられている。朝鮮人の捕虜は日本人と別にして入れられていた。

 

使役

毎日草引きや掃除をさせられる。運動のためらしい。夕方になると、ドイツの捕虜とイタリヤの捕虜が鉄条網のそばに来て国歌を歌う。我等はドイツやイタリヤの国歌を歌う。共に万歳を叫んで別れる事になっている。私も君が代を歌った。異国の空で捕われの身で歌う君が代は自然に涙が出てとまらない。不思議なものである。

 

朝鮮人

朝鮮は日本の領土であり朝鮮人は日本人であった。兵隊にも軍属にも朝鮮人は沢山いた。ハワイで彼らは日本上陸の訓練をしていた。釜山に上陸し祖国朝鮮を日本から取り戻すと言っていた。(朝鮮人の捕虜)

 

米国へ

昭和20年6月、ハワイで2ヶ月養生して、米国に送られる事になった。6月21日、ハワイから米国輸送船に乗せられる。東に東に進む。10隻くらいの船団で行く。10日目に山が見えてきた。富士山そっくりの山がある。半分雪をかぶり美しい。海中にはオットセイみたいな動物が沢山顔を出して泳いでいる。変な声で鳴いていた。遂に私は見たこともない米国本土に送られたのだ。両側に陸のある入り江の海を北に進んでいる。しばらくして港に入る。物すごく船の多い港だ。シヤトルというところだと知らされた。

 

上陸す

昭和20年7月1日、船から桟橋に下りる。街の中を歩かんと検疫に行けん。500メートル位歩かされた。10メートルおきに米軍の歩哨が銃を持って立っている。街の中は見物人でいっぱいだ。男も女も沢山見ている。話し合っているが英語だから我等にわからん。日本の捕虜だと言っているのであろう。いくら悪口を言われても全然わからない。

検疫所に入れられ丸裸にされる。頭から白い水をかけられる。消毒薬だ。終わって汽車に乗せられた。人間の運命とは全くわからないものだ。又私はどこに行くのかわからず汽車で行くのだ。

 

汽車

汽車は走る。野を超え山を越え走る走る。2日間走り続けた。サンフランシスコに着く。この日は7月3日であった。汽車を降りて小舟に乗せられてエンゼル島というところに着いた。ここに収容所があり、入れられた。各人にタバコが配給された。自分の寝台に置いて用件をすませ帰ってみると、タバコは盗まれていた。探してみると、われらより先に来ていた海軍の捕虜が盗んだことがわかった。我等は後から来て仲間に入れてもらうので文句は言えない。私は盗まれたことは言わなかった。言えば我等陸軍のものは海軍の奴等にいじめられるのだ。自分等が盗んでおいて、騒げばリンチを加えるのだ。彼らは実に同じ日本軍の捕虜なのにリンチを加える。私はこの目で見た。

 

リンチ

ある陸軍の下士官が食堂に行った。炊事係は海軍の捕虜がやっている。それに対して文句を言ったらしい。その日の夕方彼等海軍の炊事係等に呼び出された。米兵の居らん所でリンチを加える。大勢の捕虜の見ている前で顔を殴る腹をけるげんこつで突きまくる、すみませんと謝るのを殴りまくる。見る見る間に殴られる下士官は顔がむらさき色になった。はれ上がっていく。後難を恐れて誰もとめる者がいない。同じ日本人であり同じ軍人である。捕虜となり心細い生活をしているのに同胞を異国の土地で殴るなんて、彼等は軍人でない暴力団のような奴等だ、腹がたつが誰も口を出さない。捕虜の内部では、こんな事も行われていたのだ。或いは殺して便所の中に捨てたと言う話もあった。米国の便所は口が小さく中が広いので、落とし込んだら人間の一人位はわからないように出来ている。

 

移転

わずか4、5日、この島を去らねばならぬ時が来た。小さな舟で大河を登っていく。このエンゼル島と陸地をつなぐ鉄の大橋がある。上は車道下は人道で2階で造ってある。米国の兵が、あれほど大きな橋が日本にあるかと言うので、日本にはまだ大きいのがあると言うと、彼は驚いていた。私はウソを言ってやった。あんな大きな橋は日本にはなかった。ふねはずんずん登って行く。5キロ位行った頃岸についた。新しい収容所があった。我等は入れられた。全員に注射をせられた。風邪の予防注射だそうなが、物すごい痛い注射だった。ここでは仕事はなくて毎日歌ったり踊ったりで暮らしていた。

 

汽車に乗る

ここで今度は汽車に乗せられた。内地のような黒い汽車でない。赤や黄色の美しい汽車だ。我等は汽車は黒いものと思っていたが、美しい色があることを知った。大陸を横断するらしい。食事は缶詰ばかりだ。ああ日本の米と味噌汁が欲しいなあと思った。缶詰はうまくないが喰わねば死ぬから喰うのみだ。毎日毎日汽車は走る。汽車の窓から見た米国の状況をそのまま書いてみる。

 

畑の中の汽車

毎日走る、畑が続く。畑の中に鉄道の線が引き込んである。水道も大鉄管で縦横に引き込んでいる。この水は各所に分かれて畑に分布し、くるくるまわる道具をつけてあり、雨の降らぬこの地方に雨を降らせるようになっている。雨が何ヶ月も降らんので人口で雨を降らせて農作物を作るのだ。又、鉄道は出来た農作物を運搬するものであり、貨車を突っ込んできてそれに農作物を積み込み機関車が引き出して行くのだ。日本はこんな所はない。こんな広い畑もない。ケタが違うのだ。

 

作物

大根やにんじんの多いこと、何日走っても山がない。野菜畑ばかり、支那大陸と同じである。日本の北海道など問題にならぬ。アメリカがこれほど広いとは私は知らなかった。汽車の窓から製材所が見えた。大きな材木を挽き割る片方がベルトコンベヤーになっていて、それに挽き割ったものが倒れる。向こうに行ってがけ下に落ちる。下は火の海であり燃えてしまう。中味のよい所だけとって木材として使用し、後は捨ててしまうのだ。贅沢なものだ。日本人には考えられない。恐れ入った次第なり。持てる国と持てない国とのちがいである。

こんな大国を相手に戦争をして勝てる訳がないではないか。日本魂も軍人精神も神風も打ちてしやまんも、物量と機械文明の前には何の役にも立たず、我が国はだんだん戦争は不利になっていくのであるが、今の私は捕虜としてアメリカ大陸を横断しているのである。勝つのか負けるのか全く知る由もないが汽車は大陸を横断しつつあるのだ。

 

山林

汽車は山林に入る。山と言っても平地に木が生えているのだ。日本のように高い山でない。平野が山林だ。直径1メートルもある大木が乱立しているのだ。行けども行けども同じ山林が続いている。木材は機械のこで切り倒し、クレーンで貨車に積み込み機関車が引き出していく。平地だから、鉄道を山の中に引き込んである。世話ない。日本のように高い山から出したり谷底の木を出すのでないから仕事がはかどる。木材はいくらでもあるのだから、自由自在に切り出してよい所をとり、あとは捨てるのだ。何と豊かな国であることよ。何時間走っても同じような大森林の中からぬけない。その広いこと無尽蔵だ。汽車は日本人捕虜を乗せて行方も知れず走り続けるのである。

 

横断

昭和20年7月28日、この汽車は米大陸を横断してテキサス州に着いた。ケネデーという所だ。ここに収容所がある。我等はここに入れられた。下士官と将校は同じところ、兵と軍属は同じところに入れられた。沢山の先輩が来ていた。主として海軍の捕虜だ。大佐から兵までずいぶん居る。小さな家が沢山あって、その中に5名位ずつ入れられる。私は下士官だから、下士官ばかり4名一緒に入れられた。寝台も4つある。自由に一戸を使ってよい。内地の村くらい広いところに家がいくらでもある。みんなそれぞれ4、5名ずつ入った。家具など一切なし。

 

軍神に会う

真珠湾攻撃の軍神は9人であるが、本当は10人行ったのである。一人生きて捕まったのである。それで九軍神とさわがれたのである。人間魚雷に乗って我が身諸共敵艦に突進するのだから必ず死ぬのだ。ただ一人岸に突き当たり動けなくなり捕まったのが、捕虜第1号の海軍の酒巻少尉である。この少尉にこの収容所で会うことが出来た。高知県の越知町の人だと本人は言っていたがウソか本当かわからん。人間こんな時はよくウソを言うものであるから。毎日仕事なし、遊んで暮らす。

草をひいたりして我が家の付近をきれいにするくらいが仕事である。食事は1日3回食堂に行けば喰える。毎日手当として10セントくれる。店もあるのでその10セントで何でも買える、安い。1里四方くらいのところに金網が張られてある。逃亡は出来ない。四隅にはヤグラがあって高いところから歩哨が見張っている。逃亡すれば機関銃でなでられるように出来ている。気のくるった海軍の将校が一人居った。只一人毎日柳の下でグルグル回って何かぶつぶつ言っていた。捕虜になり気がくるったのだと海軍の兵は言っていた。

 

化膿する

私は毎日のんきに遊んでいたが、傷が化膿して食事も出来んようになった。係に言うと軍医に診てもらえと言う。診てもらった。切り開いてくれと頼んだ。ウンと言って切り開いて膿を出してくれた。軍医が切り口から指を入れて探って骨の片を沢山出した。肩まで穴がぬけていると言った。骨のかけらは全部出せんと言った。弾丸傷が中から膿んでいた。ガーゼを口から詰め込んだ。痛いこと死ぬ思いである。叫ばず居れん。叫んでも泣いても外国である、知る者はない。戦争だから止むを得ん。病室に入れられた。

 

入院

入院してみると日本人患者ばかり沢山居った。歩いて行けるようになった。楽になった。点呼にも出られるようになった。点呼に遅れると、ヘイ、カマワンといって連れて行かれる。営舎に入れられる。パンと水だけで3日間過ごさなければならぬ。これが点呼に遅れた処罰である。国が変われば何から何まで変わるものだ。

 

病死

私が入院中、別の捕虜が一人死んだ。米国まで来て死んだのだ。全員集合させられ自動車で墓地に行くのを見送った。いつ自分がこうなるかわからんのだ。又いつ日本に帰れるのか、或いはこのまま日本に帰る事はないのか、それがわからんのである。米国で殺されるかもしれないと思うと心細いこと甚だしい限りだ。

 

この地方の状況

この地方はメキシコとの国境に近い。冬でも寒くないのだ。大西洋の岸だ。地下資源が多く鉄パイプを地下に打ち込みガスを出す。炊事もストーブもそのガスでやる。燃料は只である。私は7月に来て12月になったが、まだ雨は1回も降らない。不思議な国である。内地ならこんなに日照りが続いたら草も木も枯れてしまうが、ここは草も木も成長している。

 

黒人

この地方は住民がすべて黒人である。女は髪がちぢれて長くならない。内地の金仏の頭のようだ。色は真っ黒であり鍋の底よりまだ黒い本当の黒人である。元の奴隷が住んでいる所なのだ。金の網の間からこの地方の部落がよく見える。我等の小屋の周りに青い草が生えた。ずんずん大きくなり、直ぐに木になる。草か木かわからんようになる。又、ヒマの木があった。ハシゴをかけんと実が取れんほど大きくなり、草でなく大木になっている。家の中にも外にもサソリが沢山居る。人間にかみ付いた事はないが、私は見つけ次第に殺した。南方の毒サソリではないと米国人は言っていた。こんなことばかりして我等は毎日を過ごしていた。

 

汽車に乗る

昭和20年12月8日、この日は我が海軍が真珠湾を攻撃した日であり、米国にとっては忘れられない日である。この日我等捕虜は全員汽車に乗るのだと言われた。さあ大変だ、殺されるかもしれんが汽車に乗らん訳にはいかんから、仕方なくぞろぞろ汽車に乗る。内地に帰ると言う者あり、殺されると言う者あり、デマは飛ぶ汽車は走り出す。私の考えでは我等は船に乗せられて、実弾訓練をする目標にするのだと思った。撃ち沈められるのだと思った。どうせられても止むを得んと思う。汽車は我等の思いを乗せて、野を越え山越え走り続ける。トンネルを抜けて雪の山を見て走る。何日も何日も走って大平原の駅に着いた。大陸を横断して太平洋岸のシヤトルに着いた。真っ白な雪の街になっていた。昭和20年12月13日、再びシヤトルに着いたのである。

 

乗船

大きな船に乗れと言う。何百人も居る日本の捕虜を乗せる。太平洋の真ん中で撃ち沈めるのか内地に帰すのか、我等には全くわからない。1週間走った。大時化となった。船は波の下をくぐる、その都度ドーンという音が物すごい。船はミシミシ鳴る。割れて沈むのではないかと思うほどだ。食事も出来ぬほどゆれる。しかし食事も沢山くれるし傷の手当も毎日してくれるのだ。殺すつもりなれば傷の手当はせんだろうから、或いは我等は生きて日本に帰れるのではないかと思うようになる。

 

日本見ゆ

21日間走り続けた。遂に日本の島が見え出した。ああ日本だ。伊豆の大島だ、見える。戦争に行く時見たあの島が、2年後の今日また見えた。何たる幸運ぞ。船は東京湾に入る。米国の艦が沢山居る。夢に見続けた我が日本だ、祖国日本に帰ったぞ。妻や子供に生きて帰ると言ったあの言葉は今こそ本当になったぞ、父は帰ったぞと心で叫んだ。昭和21年1月4日浦賀に着いた。

昭和19年2月27日同じ東京湾を出てから満2年だ。あのときの気持ちは忘れん、命はないと思っていた。その東京湾に今帰った。米国の船で米国の服を着て今帰った。傷を受けながらも今帰った。硫黄島で死を覚悟したこと幾度ぞ。過ぎし戦争を思い出す。涙が出る。日本は焼け野原だ。東京湾の中も米国の軍艦がいっぱいだ。日本は負けたのだ。早く日本の土を踏みたい。上陸したい。

 

上陸す

浦賀の港に船は着いた。我等病人は車で上陸、元気な奴は歩いて上陸する。私は元日本の海軍病院に入院する。国立病院となっていた。軍医も看護婦もそのまま居る。

戦陣訓に、生きて虜囚の辱めを受くるなかれ、散るべきときは清く散れとある。我等は散るべきときに散らず虜囚の辱めを受けたのだ。島流しか死刑になると思ったりしたが、心配無用であった。我が軍はすでになく、軍法会議もなくなっていた。我等は復員軍人として扱われるのである。ありがたい。病院では日本の看護婦の世話になることになった。昭和21年1月4日であった。

私の背中の傷口はまだ膿が出ている。船の中でもずっと手当を受けてきた。今度は日本の病院で世話になるのだ。生きて帰ると誓って国を出た。この東京湾から船出した。あれから2年遂に帰った。今度こそ妻と子供と共に暮らせるぞ、戦争は終わったのだ。母にも妻にも兄弟にも生きて帰ったことを知らせたが返事はない。そのうち傷がまた化膿した。軍医に手術してくれと頼んだが、麻酔薬がないので手術は出来んと言う。私は生のままでよいから切って膿を出してくれと頼んだ。軍医は生のまま切り開いてくれた。上半身裸でいすにすわる。軍医はメスで切る。血は飛ぶ看護婦は向こうに顔をそむける。軍医は切り開いた、痛い、泣いても叫んでも致し方ない。自分が頼んだのだ。しんぼうするより致し方がない。長い間かかって軍医はよしすんだと言った。軍医は、わしもしんぼう強いがお前もよく我慢したなあ、痛いと一口も言わなかったなあと驚いていた。私は脇の下は汗でびっしょりだ。痛いとは言わなかったが、死ぬよりましだから切ってもらったのだ。泣いたり叫んだりする訳にいかんのだ。その夜大熱が出た。手術の熱である。私は何にもわからなくなった。

 

妻の夢

大熱でうなされながら眠った。不思議な夢を見た。妻が髪振り乱して上半身裸で濁流の中に立っている。左足がちんばになっている。100メートルも幅のある大河の真ん中に居る。私に来いと招く。2年間忘れたことのない妻だが、濁流の中には行けぬ。それでも河にはいり歩いて近づく。背があわん、深い、もう行けん、私は泳ぎが出来ん。引き返して陸に上った。目が覚めた。夢だった。妻の身に異常があったのだ。私の戦死の報で再婚したのか或いは死んでいるのではないかと思う。そこへ、産春兄から手紙来る。思ったとおり妻は昭和20年6月14日、子供2人を近親者に頼み、自分は夫のもとに行くと言って病死したと言う。防空壕を掘る奉仕作業に出ていて左足に古釘を刺して傷を受けていたのが、遂に破傷風となって、髪振り乱して手を突っ張ったり反り返って苦しがり死んだという。

私は困った。今度こそ戦争は終わったので親子仲良く暮らせると思うたのに妻は死亡、子供は2人残り我が身は傷ついて今大熱に苦しんでいる。世の中は物資がない喰う米もない。4回も召集され最後に生きて帰ったというのに神は助け給わぬのか。妻に死なれ二人の子供を養って生きていかねばならぬ運命になった。ままならぬものである。さあ大変だ、私はいつ退院できるかわからん。昨夜の夢は正夢であった。私の傷が重くとても助からんと思った妻は、私を呼んだのだ。川の中へ行ったら私は死んでいただろう。引き返して岸に上ったので助かったのかもしれん。1日も早く帰って、子供を引き取り養わねばならぬ。重大責任が出来た。

 

私の戦死

私は昭和20年3月17日硫黄島に於いて戦死となり、町葬もすんで忠魂墓地に墓標が出来ている。死ぬべき私は生きて帰る。生きているはずの妻が死んでいる。運命は私をまだ苦しめるのだ。2年前善通寺の兵舎へ面会に来てくれた妻、あれが永久の別れとなったのである。私も出発の時、妻とは別れになるような予感がしたが本当となった。

 

習志野へ

昭和21年1月8日、日赤のマークをつけた汽車で我等は千葉県の津田沼駅に着く。習志野元陸軍病院に入院。看護婦も軍医も昔のまま。寝台には、陸軍伍長高橋利春と書いてくれた。自由に外出も出来る。闇市でいわしや団子など買うて来てストーブで焼いて喰うたりする。またケンカする奴も出る。手も足もないのが居る、色々だ。町の婦人会が慰問演芸会を開いて招待してくれる。私は一日も早く土佐に帰り2人の子供の世話をせねばならぬが、傷はまだ治らない。

 

世話課へ

ある日患者がそろって白衣のままで汽車に乗り、足のないのや手のないのが松葉杖をついて千葉の津田沼から東京に向かった。街は一面焼け野原である。元の司令部が今は県世話課となっている。そこに我等は押しかけた。県は驚いた。かたわ者ばかり押しかけたからたまらん。軍服と靴をくれと申し込んだのだ。県では米軍の服と靴を取り上げて日本の服と靴をくれた。こんなことは病院に言わずみんな黙っていた。言ったら叱られる。東京の焼け野原に、米軍人と日本の女が手をつないで歩いていた。笑って楽しそうである。負けても我等は日本の軍人である。日本の女は馬鹿だなあとみんなで腹を立てたが、女もそうしないと喰えなかったのであろう。止むを得んことだったであろうが、当時私達はそんなの見て腹を立てたものだった。大和なでしこと言われた日本の女性が敵と手をつないで身を売るのか、なさけない奴だと思った。夕方千葉に帰った。

 

岡山へ

昭和21年2月2日、汽車で岡山の国立病院に送られた。背中の膿が止まらぬ。毎日診てくれる。治らん。歯も一本抜かれた。軍医は、傷の付近の肉がくさっている。モモの肉を切って植えると言う。私は病院を無断でぬけ出して岡山の街を歩いてみた。焼野原の岡山を歩くと、戦争の激しさがわかる。病院の裏の山にも登った。四国が見える。あの向こうに土佐がある。早く帰りたいと思いながら山を下る。病院にこっそり入る。命ないものと思っていたが、命があるとなると身内のところに早く帰りたい。妻は死んでも子供は居るのだ。今頃どうしているだろうと思うと飛んで帰りたいが、まだ傷は治らぬ。

 

高知へ

私はモモの肉を植えなければ治らぬと書いた書類を持って、只一人岡山から高知に行くことになった。白衣のまま汽車に乗ったが立ち通しだ。誰も席を譲ってくれるものなし。汽車は満員である。朝倉に着いて兵舎の病院に行ってみれば米軍の歩哨が立っている。聞いてみた。国立病院は高知駅の裏に日赤の間借りをしていると言う。また高知に引き返さなければならぬ。朝倉駅に行けば、切符の割り当てがないから売らんと言う。市電で行けと言う。市電を利用して高知に着いた。焼野原である。ようやくたずねあて入院した。書類も渡した。やれやれ、これで飯にありついた。早く入院せねば夕食に困る。金はないし宿屋もない焼野原だ。

 

高知病院

高知の病院は食器なし。竹の節を切って茶碗にしている。水筒も竹製、何にも竹だ。金の茶碗に金の箸は軍隊なれど、ここでは竹ばかりなり。高知から中村へ手紙出す。高知まで帰ったことを知らせる。

妻の父と繁兄が来た。話を聞いた。妻は死に、子供二人は繁兄が見ていると言う。私は早く帰りたい。帰らねばならぬのだ。面会人は中村へ帰った。私は軍医に頼んだ。退院させてもらうよう頼んだ。傷は痛いが、帰ってから治せるだろうと考えた。軍医は、お前は恩給診断をしてからにせよと言ったが、そのような事は眼中になく、子供に会いたさに帰してもらった。軍医は治癒と書いてくれた。治った、退院だ、許可が出た。しかし、この無理な退院が後日物すごい不利になるのであるが、この時は考えていなかった。後日法改正になり恩給が復活した。私も請求するが、治癒となっているため傷害恩給が却下されてしまった。先目の見えぬ人間である。かしこい奴は治っても治らんと言って恩給にありついたのが多いのだ。

 

帰る

昭和21年2月29日、私は只一人退院した。背中にホータイをして病院を出た。久礼からバスで中村に帰る。母も子供も喜んでくれた。勝幸は私を覚えていた。勝は数え年7歳になっていた。智恵子は5歳になっていた。両親が死に、伯父にあたる繁春兄に養われていた。私が引き取って養うことになったが、妻のない男が子供2人抱いて養うのは容易な事ではない。当時金はなく米はなく、マッチに至るまで配給制度であり、喰うものがないのだ。朝早く起きて飯を炊き子供に喰わせ、掃除洗濯後始末、忙しいこと話にならん。大変なことになった。智恵子は繁兄にしばらくあずけて、私は勝幸の世話をすることになった。

 

戦争も終わったのだ。私は永久に軍隊に行く事はない。これから人間なみの生活が出来るのだ。その時に、神は何故私から妻を奪ったのか、なさけなくなった。妻さえ生きていてくれたら、どんなに幸福であったかわからん。どんな苦労もいとわぬものを、世はままならぬものである。

自分の墓は自分で取り去り、戸籍も復活した。子供も入籍した。

 

昭和21年3月までの日記である。後日の参考とせられたい。

終戦後からは毎日の日記に書いてある。

 

昭和21年3月までの従軍記を終わる

元陸軍工兵伍長  勲八等  高橋利春



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