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1981年
◆ 4月某日、**大学文学部で、HAYASHI 、OHNO 、AIKOH 、出会う
◆ HAYASHI・・・
大学に入学してまもなくのこと、学部のオリエンテーションで箱根に行った。そのとき同室だったのが AIKOH、OHNO の二人だった。初対面の者同士が共通の趣味を持っていたら・・・話しが盛り上がらないはずがない。リー・リトナーのカッティングがカッコいいとか、カシオペアのドラムは凄いとか、そんな話で三人はあっという間に意気投合してしまった。そして、三人ともバンドを組みたくて、どこかに適当な音楽サークル(決してテキトーな人間の集うという意味ではなかったはずだが)がないだろうかと思っていたのだった。話の中で「そういえば、この前、良さそうなサークルがあったよ!」と AIKOH が言ったように思う。運命への第一歩だった。
それからしばらくして、キャンパスをふらふらと物色しながら歩いていると、"サウンド・アスレチック"という、ネーミングからして何やら体育会系だかバンド・サークルだか不明の集団が、「出店」と称する溜り場にたまって盛んに勧誘活動を行っていた。その時、一番先に私の目に飛び込んできたのは ISHITANI さんのサテンのスタジャンだった。彼が私を見て声をかけて来たのだったが、あの時出店にいたのは、ISHITANI さんの他にグリコさんや NAGOSHI さんといった、いわば"あんまり音楽やってなさそうな"または"おしゃれなスポーツサークル系"の人達だったように思う。それで、「ああ、AIKOH が言っていたのはこのサークルだな」とピンときたのだった。
◆ KITAGAWA・・・
AIKOH 君は、音楽サークルと同時に、軟派系スポーツ・サークルにも所属し、音楽一筋でファッションにはこだわらない硬派とは、一味違っていたのだ。東京に来たばかりなのに、渋谷のオシャレな店の名前を妙に知っていたが、新入生歓迎コンパで、酔っぱらって崩れてしまった。ギターを買いに皆で行こう、と言っていたにもかかわらず、結局、1人で行ってしまった。「AIKOH のスタンド・プレイだ!」ということで、バンド名は、”スタンド・プレイ”に・・・(違った?)。
◆ HAYASHI・・・
実は、サウンド・アスレチックの出店に来る前に、ジャズ研の事もいろいろと調べていた。知り合いにジャズ研のドラマーがいて、話を聞くと、ビッグ・バンド中心でコンボはないということだったので、あきらめていた。でも、「ジャズ・ピアノの基礎から教えてもらえるよ」という話で、今にして思えば、ジャズ研に入っていたら、その後の音楽人生に少なからず影響を与えていただろうな、と思ってしまう。それはさておき、サウンド・アスレチックの出店の前で私はまず最初の質問をした。「フージョン系のバンドはありますか?」。すると、「ああ、結構あるよ」とのことだったので、気を良くした私は、「キーボードの機材は何がありますか?」と質問したのだった。すると、それまで私に背を向けて座っていた、おかっぱ頭で丸い眼鏡をかけた黒いコートの男がいきなりクルッと振り向き、「機材はなぁ、ローズに、ボコーダーに、コルグのデルタに、あとエレピとか、ストリングスとか、結構そろってるよ」と矢継ぎ早に言った。それで、軽率でモノに弱い私は、思わず「入りたいんですけど・・・」と言ってしまった。後に、その男からそのローズを売りつけられるとは、当時はまったく夢にも思っていなかったのだった。
◆ 4月某日、MARUYAMA と KITAGAWA 、某音楽サークルで、出会う
KITAGAWA・・・
私も勿論、音楽サークル加入を希望していた。まあ、適当に探していたのだが、めぼしいサークルが3−4ツはあったろうか。その中で、何となく雰囲気の良かった"M"というサークルに当たりをつけてみた。新入生歓迎コンサートというのがあり、その後セッションを行うので、希望してギターを借りたところ、隣でベースを持った、何となく迫力のある男がいた。それが MARUYAMA であった。
その後、ある出来事があった。"M"の先輩2人から呼ばれて、近くの公園の芝生の上に座ったところ、「君は他に行った方が伸びるから、うちは遠慮してくれ」とおっしゃるのだ。こう書くと深刻そうだが、当時は「あ、そう・・・しかし何なんだ?」と、狐につままれたとは、まさにこういう気分か?その後"M"のコンサートを見たりしたが、新入生選別の基準が、いまだに理解できない。サウンド・アスレチックの同期の一人も、同じ経験をしたらしい。それではと、サウンド・アスレチックの定例会におもむいた。
◆ スタンドプレイ結成
◆ HAYASHI・・・
さて、何日かたったある日、サウンド・アスレチックの定例会があるので新入生は全員集まるように、とのことなので行ってみると、30人位が集まってワイワイやっていた。皆の前で順に自己紹介をして担当楽器を言うと、幹事長の TAKAYAMA さんからバンドの振り分けの発表があった。私の属するバンドは初めから”フュージョン・バンド”という分類の中に入っていたようだった。で、メンバーはギターのAIKOH、ボーカルのOHNO、キーボードの HAYASHI の他に、もう一人ギターを弾く男、KITAGAWA がいた。一見マジメな理系タイプのこの男は、「あ、よろしく!それからもう一人、ベースがいるんだけど、今日はバイトの都合で来れないんだ」と言った。そうそう、ドラムなのだが、IIという人物がいたのを覚えているだろうか?初代ドラマーは彼、II 君だった。彼は一年目の夏合宿の途中で田舎に帰ってしまい、その後はサークルにも来ずに消息が途絶えてしまった。そんな訳でとにかく私達のバンドはスタートした。
◆ 全てはここから始まった、初代メンバー
OHONO:VO / KITAGAWA:G / AIKOH:G / HAYASHI:KEY / MARUYAMA:B,VO / II:DS
最初の練習をどこでやったかは忘れてしまったが、その時はじめてベースの MARUYAMA に会った。最初に彼と会った時の第一印象はというと、やたらと声の通る快活なヤツだなあとは思ったが、デブなヤツだなあとは思わなかった。まだ、痩せていたんだよね。曲は、ボズ・スキャッグスの曲とか、その他に何曲か練習したと思う。すぐに新入生お披露目コンサートがあるので、そのための練習でもあった。大学に入る前から既に曲を書き溜めていたこともあり、バンドではオリジナル曲を中心に演奏したかったのだが、最初はコピーの曲でお手並拝見ということにした。だから、本格的な活動は夏合宿以降からとなった。
ところで"スタンドプレイ"の名前の由来だが、メンバーがいろいろと忙しくてなかなか集まれず、勝手なこと、つまりスタンドプレイばかりしている、という意味から名付けられた。当時はまだ若かったこともあり、「かじゃ」とか「青梅国際カルテット」といった、おしゃれなネーミングなど付けるセンスはなかったようだ。
一年生の夏合宿の途中でドラムの II 君が抜けてしまい、結成早々大ピンチかと思われたスタンドプレイ(以下スタプレ)だったが、実は OHNO が器用な男で、ドラムも叩けてしまうのだった(結構うまい)。そんな訳で、しばらくは OHNO が唄いながらドラムを叩く、つのだひろ状態でバンドをやっていた。
◆ 合宿(最終日)のメンバー
OHNO:VO,DS / KITAGAWA:G / AIKOH:G / HAYASHI:KEY / MARUYAMA:B,VO
◆ KITAGAWA・・・
その後、学園祭前に、ドラムのサポートに、同学年の KOMURO を迎えた。彼は極めて真面目な男で、非常に練習熱心。だが、妙に体が硬かった。
◆ 学園祭のメンバー
OHNO:VO / KITAGAWA:G / AIKOH:G / HAYASHI:KEY / MARUYAMA:B,VO / KOMURO:DS
◆ HAYASHI・・・
学園祭が終わってから、スタジオでオリジナル曲を2曲程レコーディングしたのだが、そのときも OHNO がドラムを叩いた。レコーディングというと大それた事のように聞こえるが、自費でデモ・テープをしかもいい音で作るようなものと思ってよく、HAYASHI は既に学外のバンド(そのバンドはコンテストで優勝して、後にメンバーは音楽業界に転出していくのだが)で経験しいていたし、MARUYAMA は当時はスタジオ・ミュージシャンで(本当よ!)、レコーディングなんか日常茶飯事だったから、スタプレでもレコーディングをしようという発想は、二人にとってはごく自然なことだった。
◆ KITAGAWA・・・
池袋にあった、中川楽器スタジオで、よく練習していた。レコーディングもそこで行なった。エレベーターの扉の開閉が、手動で、やたらと重かったな・・・。
1982年
◆ スタンドプレイ、メンバーチェンジ
◆ HAYASHI・・・
なかなか順調な活動を続けていたように見えたスタプレだが、1回目の転機がやってくる。それは、HAYASHI の天才的な(天災的な、が正しい)思いつきによるところなのだが、「女性ボーカルのバンドがやりたい」という発想が頭の中で一人歩きしはじめた。それで、MARUYAMA だけに相談して(つまり他のメンバー、特に折りしも田舎へ帰っていた OHNO には何の断りもなく)、YUKIE を OHNO の後任ボーカリストとしてメンバーに入れてしまった。「HAYASHI はなんてひどい奴だ」(HAYASHI 本人いわく)。この事態を知って、他のメンバーや、サークル内の人間までもが HAYASHI を非難した。OHNO 君、本当にごめんなさい。しかし当の本人の OHNO は、意外なほど静かだった。その後、彼は1年あまりサークルから離れた。
◆ 4月。スタプレにとって最大の懸案事項は、学外のボーカリストのいるバンドが果たしてサークル内で存在できるのか、ということだった。結論は「NO」。当時**短大の MARIKO をサークルに入れるかどうかで、すったもんだしていた幹部の先輩は、ケジメを付けるという意味で、「MARIKO もスタプレも認めない」という見解を出した。我々のショックは大きかった。特に私にとってスタプレの消滅は重大だった。他のメンバーはみんな順調に違うバンドから声がかかり、独立していったのに比べ、私(HAYASHI)を拾ってくれるバンドなど無く、ようやくボーカリストなら、と声のかかったバンドでサザンオールスターズの歌を振り付きで熱唱したところ、物笑いのタネとなり、以降どんなバンドにいても事あるごとに「HAYASHI ーっ、唄えーっ」と、ヤジられてしまう始末だった。
◆ ところで、サウンド・アスレチックを追い出されてしまったスタプレだが、すぐに学外バンドとして活動を始めた。ところが音楽性の不一致から、まず二人いたギターのひとりの KITAGAWA が脱退を表明。まもなくして KOMURO も抜けた。早くメンバーを探してライブをやりたかった私は、ドラムとギターにもう一つ学外でやっていたバンドのメンバーを助っ人として入れて、ライブの前に MARUYAMA の作った我々の間では有名な曲、"Time Recorder" をスタジオ・レコーディングした。この曲でのギター・ソロは、見学に来ていた HOSHIZAKI 君が「ブッ飛んだ」ほどカッコ良く、フュージョン風のソロの最後に1回転して右手を上げるという演出もあり、現在では伝説となっている。そして2年生の夏に、第1回 LIVE を、渋谷の"TAKE OFF 7"というライブ・ハウスで行った。
◆ 7月29日 スタンドプレイ 対 バルーン LIVE 渋谷 "TAKE OFF 7"
メンバー
YUKIE:VO / TOHRU YAMAGUCHI:G / AIKOH:G / HAYASHI:KEY / MARUYAMA:B,VO / MOTOMI KUDOH:DS
◆ KITAGAWA・・・
渋谷の "TAKE OFF 7" は、当時は、もっと立地条件の良い場所にあった。スタプレ第1回 LIVEの共演バンドは、何と私(KITAGAWA)の所属していた、"BALOON" であった(3月から参加)。もう、腐れ縁だな。バンド・リーダーでベーシストの SUGAWARA さんは、確固たるサウンドに対するポリシーを持っていて、それに則ってバンド・サウンドを構築していった。リハーサルも、学生としては、かなり効率的だった。当時、一部で根強い人気があったフュージョン・バンド、"パラシュート"のサウンドを、追求していた。それにしても、今からは信じられないくらいによく練習してたな。
メンバー
HOSHIZAKI:G,VO / KITAGAWA:G / ATSUKO:KEY / SUGAWARA:B / KOMURO:DS
HAYASHI の話によると、この日のスタプレは最悪の出来で、途中でやめたくなったそうだ・・・。でもまあ、若気の至りというやつで、やる気の空回りだったのではないか?失敗のようで、成功だったのかも。考えてみれば、最初の LIVE としては、かなりヤッていたと思う。バルーン(昔、アリババ)は、1年半近く活動していた。
1983年
◆ 更にスタンドプレイは・・・
◆ HAYASHI ・・・
その後も、渋谷の"LA MAMA"というライブ・ハウスを中心に定期的にライブを行っていったが、メンバー・チェンジは頻繁に繰り返された。リード・ギターとドラムは助っ人だったので、この二人は"TAKE OFF 7"のライブ(1982年)が終わるとすぐに
抜けた。ギターは AIKOH ひとりになったので、音を厚くするために、MAKI という、もう一人のキーボード奏者を入れた。そしてドラムには1学年下の FUTAGAMI を入れた。結局このメンバーで学生時代は最後まで活動した。最後までといっても、YUKIE が私達より1学年上だったので、3年生の終わりのころには、バンド活動は自然消滅してしまった。
◆ この頃のメンバー
YUKIE:VO / AIKOH:G / HAYASHI:P / MAKI:KEY / MARUYAMA:B,VO / FUTAGAMI:DS
◆ KITAGAWA ・・・
私は、観客として、暖かく見守っていた(微笑)。その頃は・・・。
◆ OHNO けやきとガット・ぼーいず・・・
音楽サークル”サウンド・アスレチック”内で、
"OHNO けやきとガット・ぼーいずが、結成された。メンバーは、以下の通り。
OHNO:VO / KITAGAWA:G / AOKOH:G / SUMIKO:KEY / MARUYAMA:B / TANAKA:DS
スタプレに全く参加経験がないのは、SUMIKO だけ。TANAKAは、卒業後のスタプレ再結成時に加入する事に。この頃はまさかそんな事になるとは、考えもしなかったが。私(KITAGAWA)は、結成最初は関係していなかったが、合宿中に譜面作成に付き合わされ、そのまま居ついた。バンド名は、春の合宿中にテレビで見ていた"日本昔ばなし"での、キャラクターの発したセリフに由来する。先輩のバンド"孫悟空"の影響によるのか、山下達郎の曲や、OHNO が中心になって選んだ渋い選曲が特徴。約15分にも及ぶ"山下達郎メドレー"という、必殺技を持っていた。HAYASHI は、学園祭では、なぜか司会でいい味を出していたな。
(記2000/1/12)
1984年
◆ リゾット・フンギ、結成
メンバー
OHNO:VO / KITAGAWA:G / HAYASHI:KEY / MARUYAMA:B / TANAKA:DS
先輩達のバンド、"孫悟空"の影響が、ここでも見られる。過去3年間のバンド活動の経験による演奏技術の向上により、以前よりも安定したバンド・アンサンブルを聞かせることができた(気がする)。バンド名は、下車駅の近所にかつて存在した喫茶店"TOPSY"の、メニュー(勿論パスタ)に由来する。マスターはジャズ・ファンで、店名"TOPSY"も、かのスタンダード・ナンバーから来ている。KITAGAWA は、毎月ここで、スイング・ジャーナルを読んでいた。TANAKA 他、サウンド・アスレの連中はここでバイトをしていた。我々は、ここで昼間から学生特有のタムロをしていた。現在は、同じ場所で、別の経営者が喫茶店をしている(ハズ?)。
◆ また、HAYASHI は当時、"ケティ・ライド"という、"ハイテク"フュージョン・バンドをやっていた。こちらも、STANDPLAY 経験者を加えていた。なかなか鋭いサウンドだった(テープで聞いた限りは)。
ちなみに、ハイテクとは・・・
ハ・・・ハヤシの
イ・・・イブクロは
テ・・・テッテイ的に
ク・・・クイモノで詰まってる
寄稿 "KATY LIED" について by HAYASHI
◆ KATY LIED(嘘つきケティー)とは、STEELY DAN の4作目のアルバムタイトルから命名したバンド名。当時、スタプレが氷河期にあったこともあり、私のソロ活動的な位置づけとしてバンドを組みライブを行った。当初は私がキーボードを弾きながら自ら唄うという、冷静に考えてみるとあまりにも無謀な酔狂を企てていたが一回目の練習で見事に玉砕され、インストバンドとあいなった。メンバーは、ドラムに、当時としては最良の人選であった MOTOMI KUDOH 。ベースは MOTOMI が連れてきたD大学の先輩で KAWADA。もうひとりのキーボーディストは MAKI 。私が唄うという企画だったので、メンバー構成の際に手薄になった鍵盤系を補う目的で彼女に参加してもらったのだが、結果的にはインスト・バンドになってしまい、Rhodes 対 CP80 and ダブルPOLY61というブ厚い鍵盤隊になってしまった。そしてギターだが、第1回目のスタジオ練習では YAMAGUCHI が参加していたが、その根っからの気まぐれないい加減さから、以降突然音信不通になってしまい、仕方なく急遽代役として後輩の NISHIDA を呼んだ。これが結果的には良好なチームワークをもたらし、サウンドもひとつの方向へとまとまっていった。LIVE は渋谷の"DO IN"で、1984年5月10日に行われた。当日の写真を見ると、全員が同じオレンジ色のTシャツに白いジーンズ姿という、どういう意図でこのような井手達になってしまったのかは不明だが(私が考えたんですけど)、とにかく"NHK 健康体操の時間"または"地方都市のデパート屋上的イベントの垢抜けないスタッフ"、はたまた「**********」に見る謎のバンド(CP使ってましたし)的要素を持つ怪しい一団となっていた。なおライブ録音にしては、今聴き返しても実に画期的な音質、バランスで、エンジニアの高い技術力がうかがえる。演奏も珍しくミストーンがあまり目立たず、安定している(私のソロは相変わらずつまらんが・・・)。私のMCは、あまりにも長く退屈でくだらない。当時「司会屋ハヤシ」などと持ち上げられていい気になっていた自分の愚かしさを、今は身にしみて恥ずかしく思っている。
◆ 曲目紹介
● BATON ROUGE(君はたそがれ時 インストバージョン)
この曲はアンコールで演奏された。冒頭からチョッパーベースでリズムを作っていったため、「君たそ」史上、一番お気に入りのリズムテンポがキープされている。この曲をインスト化するにあたり、メロディーパートを MAKI ちゃんに作曲してもらったわけだが、さすがはヤマハ・エレクトーン教室!見事なリメイクが出来上がった。実はこのメロディーは改訂版となっている。最初にスタジオでメロディーを弾いてもらった時、Aメロ部分で多少の改善の余地があったため手直ししてもらったのだが、彼女はいい出来であったサビ部分まで改定してしまった。私個人としてはボツになったサビの方が気に入っていたのに。なお、改定前のメロディーは現存する練習テープで聴くことが出来る。
オリジナル曲と違って、後半にいかにもインストライブといった間奏があるが、私の得意とする構成アレンジである。それに続くベースソロは、本人の力量にも関係してくるが、リズム感が不安定で心もとない。しかし、最後に突然(本当に突然、何の打合せもなくもちろん練習の時にも考えてもいなかった)ドラムとの掛け合いになるところは出色の出来である。なにがすごいって(すごいよ〜)MOTOMIのドラムである。いきなり回されて面食らうが、すぐに立ち直りあのオカズをアドリブでたたき出せるところなどはさすが!エンディング付近で、MAKI ちゃんのヒステリック気味なアドリブが大き目の音量で鳴っているのを聴いて、ニヤッとしてしまうのは私だけではないはず。
● COUNT DOWN
もっとマシなタイトルを付けられないものかとあきれてしまうほど、なーんも考えていない曲名である。ライブのオープニング用として作ったが、聴いてわかる通りイントロにコパカバーナである。なお、キメの部分に変な拍子割りが出てくるが、本来の狙いとはかけ離れてしまっている。実はワムの曲(何という曲かは知らない)のパクりである。どこかのカフェバー(今や死語だね)で流れていて、「このパターンいただきッ」となったのだか、まったく違う感じになってしまった。
● PARALEL LINES
THE PLAYERS の曲でタイヤのCMにも使われた曲なのだが、ドラムのリムショットから始まる曲がある。そんな雰囲気の曲を作りたくて作曲してみた。POLY61 のコードメモリー(ワンキーで記憶されたコードが鳴るという、アナログシンセらしい機能)を使った曲で、メロディーの解決の仕方がジョー・ザビヌル的なジャズ風に仕上がっている。この曲は、キーボーディストにとっては極めて簡単な曲なのだが(なんせ指一本でコードが押さえられるんだからね)、ギターやベースのパートはコードの構成音を単音でメロディーに割り振ったので、不可解極まりない譜割りになり、練習では二人とも間違いまくっていた。
● SO FINE SO YOUNG
STEELY DAN のガウチョというアルバムの中に「バビロン・シスター」という曲があり、歌詞に「SO FINE SO YOUNG」が出てくる。別に特別な意味合いがあるわけでもないが、語感として気に入ったのでタイトルに付けた。曲調は「日本人が作る典型的なフュージョンの曲」(ベースの KAWADA 君談)で、昔よく聴いたプリズムというバンドの曲っぽく聞こえなくもない。しかし、ギターソロが秀逸なのとは打って変わってピアノソロは恐ろしくつまらない。
● MISSING YOU
この曲は本来、私が唄うという意図のもとに作曲された。だからもちろん歌詞はある。で、最初の練習時にいきなり唄い始め、唄い終わってみんなの沈黙を招いた。そして思った。「ああ、なんて馬鹿げたことをやろうとしているんだろう」と。だからインストバンドに徹することにした。MAKI ちゃんの冷たい視線を浴びる前に。曲の方はというと、クルセイダーズである。MOTOMIもスティックス・フーパーを意識している。この曲では唯一、私が Rhodes を弾いている。ギターソロのコード進行は当時発明(発見?)したパターンで、気に入って、以降他の曲にもよく出てくる。
● WHAT`S NEW ?
その後スタプレで歌詞をつけて演奏したが、本来のテンポはこれぐらいである。このバンドをやっていた頃は、ちょうど STEPS の LIVE AT PITT IN を聴きまくって感激し、神業だけどあんな雰囲気の演奏に近づけたいと思っていた。そのレコードの中にウェザーリポートの曲らしいが"YOUNG AND FINE"という曲があった。この曲のシナリオというか、細かな仕掛けの面でずいぶん参考にした。例えば、各パートのソロは、前半はコードトーンを感じさせずにスケールアウト気味に組み立て、バッキングは誰もしないが、印象的なブリッジ部のコード進行によるバッキングが入ってくると(しかもバッキングをする楽器はひとりだけで、順次交代している)、ソロもメジャー調の唄うフレーズに変わって行く。このような細かな決まりごとを作っていたのだが、私のソロだけはなぜかワンパターンのマイナー調一点張りで、面白くない。後半はやっぱりメジャー調になっていった方がずーっと良いと思う。
● GO
最後の曲は LIVE でもアンコール前の「いちおう最後の曲」として演奏した。この曲のモチーフはというと、そうです、CASIOPEA の SPACE ROAD!でも、コード進行が前述した"ジョー・ザビヌル風ジャズ的解決"なので THE PLAYERS にも少し似ている。ギターソロのコード進行がテーマ部と同じなため、NISHIDA がしきりに「難しい、難しい」と言っていた。結局彼としては異例なことらしいが、前もってフレーズを作っておくという、YAMAGUCHI お得意のパターンに陥ってしまった。キーボードソロももちろん"出来合いフレーズ"だが、ミストーンの連発である。この曲は SPACE ROAD なので、当然最後はお約束の"神保彰のドカドカドカドカ、ドカタン"で終わるエンディングになるのである。なお余談だが、一番最後に客席から「帰ろうぜ!」と罵声を飛ばしているのは AIKOH である。どうやら「アンコールなんか要求せずにさっさと帰ろうぜ、みんな」と言う意味らしい。
(記2000/4/1)
STANDPLAY 1987年
● スタンドプレイ、復活
◆ HAYASHI・・・
社会人になって2年半を過ぎようという頃、「スタンドプレイを復活させないか」という話が持ち上がった。メンバーは、MARUYAMA、YUKIE、人間が丸くなって復活した KITAGAWA、頼めるのはもうこの男しかないと思った新加入の TANAKA 、そして飛び入りでOHNO(田舎に帰っていた)と HIROKO というものだった。目標は12月の"LOS ANGELS CLUB 原宿"でのライブ。当時の私は、勤めていた広告代理店を辞めて、自称"フリー"活動をしていた頃で、暇と余裕はあった。久々のバンド活動だったので気合が入ったのか、この頃、キーボードと関連機材をかなり買い揃えた。学生時代はシンセサイザー1台しか所有していなかったが、ピアノ・タッチのエレクトリック・ピアノや音源ラック、シンセサイザーも3台所有するまでになり、挙げ句の果てにはショルダーキーボード(おもちゃみたいなものだけどね)まで持つようになった。新曲も徐々に書き始めていたが、"LOS ANGELS CLUB 原宿"では、オリジナル曲とコピー曲を半分づつ演奏した。
◆ KITAGAWA・・・
TANAKA(DS)が郷里に帰って事業を継ぐことが確定していたので、心情的には TANAKA が中心であったと言える。夏休みには合宿を実施し、ライブに備えた。ライブ前には、世田谷区梅丘にあったスタジオで、土曜の夜に徹夜で練習していた。まだ体力は十分あった頃だ。またこの頃、HAYASHI からマイケル・ジャクソンのCDを借りて、コンテンポラリー・ギターにおける最新のカッティングを密かに研究した。翌88年には、その効果が出たように思う。また、ジャズ・コンボも始めていて、以前のようには、エフェクターを多用しなくなっていたが、コンプレッサーとオーバードライブを押し入れから引っ張り出し、新しいボードに組み込んだ。久しぶりの大規模なライブで、演奏することが非常にうれしかった。
● 1987年12月12日、STANDPLAY、LIVE、LOS ANGELS CLUB 原宿
メンバー
YUKIE:VO / KITAGAWA:G / MARUYAMA:B / HAYASHI:KEY / TANAKA:DS / OHNO:VO(ゲスト) / HIROKO:VO(ゲスト)
- set list -
私について / だ・め・だ・ね / LOOK SO LIKE / SYNSIA / 今宵ACTRESS / 君はたそがれ時 / 他
◆ この時のバンドの集客力はものすごく、立ち見を通り越して、エレベーター前までぎっしりの状態であった。ステージ上からは、照明の為に、その状況が見えなかった。
◆ NAGASAWA 登場・・・
後日、"マラカニやんズ"を結成することとなる、HAYASHI の友人のNAGASAWA 氏が登場した。打ち上げでは、初対面なのに、大盛り上がりであった。その後、私の家に10人程度乱入して一晩宿泊した。翌朝は、大雪であった。初対面の NAGASAWA 氏は、布団から起き上がると、何とスーツとコートを着たままであった。
● 1987年12月20日、STANDPLAY、LIVE、毎日スポーツプラザ高砂
メンバー
YUKIE:VO / KITAGAWA:G / MARUYAMA:B / HAYASHI:KEY / TANAKA:DS
毎日スポーツプラザ高砂は、当時、HAYASHI の通っていたスポーツ・クラブ。そこでのクリスマス・パーティーのライブ。最後にふぐチリをご馳走になるという贅沢三昧。
STANDPLAY 1988年
●1988年7月29-31日 合宿
◆ スタンドプレイ、更に活動
帰郷していた OHNO がまた東京に復帰し、スタンドプレイのパーカッション&バック・ボーカルとして復帰した。この年も、合宿と練習を、精力的に消化した。この時は、渋谷のスタジオを深夜にレンタルしたが、体力が徐々に低下しており、この後は深夜には、やらなくなった。しかし、その合間によく遊んでおり、やはり若かった。
◆ 7月29-31日、STANDPLAY、合宿を敢行、8月のライブに備える。
● 1988年8月27日 SOUNDHOUSE (新宿)
◆ 8月27日のメンバー
YUKIE:vo / MASAKAZU KITAGAWA:g / ARATA MARUYAMA:b,vo / HIROAKI HAYASHI:key / HIDEAKI TANAKA:ds / KENJI OHNO:perc,vo
- set list -
BE MY BOY / SYNSIA / SUNSET LADY / 今宵 ACTRESS / PLOFILE / トランジスタ・グラマー / お・し・ま・い・よ / IT'S JUST ONLY MY LOVE SONG -I SAY I LOVE YOU- / FADE OUT / LOVE MOTION / だ・め・だ・ね / SOPHISTICATE / 君はたそがれ時
◆ 初の、全曲オリジナルでのライブとなった。HAYASHI は、出張先からライブ・ハウスに来るという、超ハードスケジュール。そにもめげず、演奏内容・ライブ・ハウス内の雰囲気も良かったと思う。OHNO のエレクトリック・パーカッションが、かなりの効果をあげていた。
● 1988年12月 毎日スポーツプラザ高砂、ライブ
メンバー
YUKIE:vo / MASAKAZU KITAGAWA:g / ARATA MARUYAMA:b,vo / HIROAKI HAYASHI:key / HIDEAKI TANAKA:ds / KENJI OHNO:perc,vo
昨年に引き続き、毎日スポーツプラザ高砂で演奏。打ち上げでのご乱行が、懐かしい。
STANDPLAY 1989年
●1989年4月9日 渋谷音楽館 "Star Light Hall"
スタンドプレイ 1987 モデルの、ラスト・ライブ
メンバー
YUKIE:VO / KITAGAWA:G / MARUYAMA:B / HAYASHI:KEY / TANAKA:DS / OHNO:PERC,VO
- set list -
だ・め・だ・ね / CITY DANCER / SUNSET LADY / LOOK SO LIKE / LOVE MOTION / IT'S JUST ONLY MY LOVE SONG / HIGH HEEL / SOPHISTICATE / SYNSIA / BE MY BOY / TIME RECORDER / 今宵ACTRESS / 君はたそがれ時
TANAKA が参加した"スタンドプレイ 1987 モデル"、最後のライブ。やはり、全曲オリジナル。新曲は少ないが、何年かぶりの"旧曲"を演奏した。
◆ "HAYASHI 一派"
当時、"HAYASHI 一派"というグループが存在していた。グループと言うか、HAYASHI が企画した"フィーリング・カップル(?)"なのだが、実は、"HAYASHI 君と(現)奥さんの会"だったのだ。ライブの後に、当然"打ち上げ"が開催されたが、"HAYASHI 一派"も参加し、妙な雰囲気を醸し出していた。
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