東海村JCO臨界事故

掲載日2011年8月15日                  斉藤 清

 今から12年前の1999年9月30日、東海村の核燃料加工会社、株式会社ジェー・シー・オー(以下「JCO」)が作業ミスで臨界事故を起こした。筆者の子供と家族が住んでいるひたちなか市の家は、JCOから半径8.4kmしか離れていない。JCOから半径10km以内は、屋内退避要請が出たので、その範囲に該当したのである。事故発生後30時間で屋内退避要請が解除され、国道も通れるようになったので、万一を考えて筆者の孫とその母親は、車で千葉県の実家に緊急避難したのだった。 

 
JCOは、上の地図のほぼ中央にある。ここから南方8.4kmに自宅がある。 

 

出典: フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』などを参照。

 東海村JCO臨界事故は、1999年に茨城県那珂郡東海村に所在する住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設、株式会社ジェー・シー・オー(以下「JCO」)が起こした原子力事故(臨界事故)で、日本国内で初めて事故被曝による2名の死亡者を出した。

 1999年9月30日、JCOの核燃料加工施設内で核燃料を加工中に、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生、この状態が約20時間持続した。これにより、至近距離で中性子線を浴びた作業員3名中、2名が死亡、1名が重症となった他、667名の被曝者を出した。

 国際原子力事象評価尺度(INES)でレベル4(事業所外への大きなリスクを伴わない)の事故。

事故の推移

 9月30日10時35分、転換試験棟で警報。11時15分、臨界事故の可能性ありとの第一報がJCOから科学技術庁(当時)に入る。そして11時52分に被曝した作業員3名を搬送するため救急車が出動した。東海村から住民に対し屋内退避を呼びかける広報が始まったのは12時30分からである。

 テレビでは当時の内閣総理大臣・小渕恵三が周辺住民に向かって外出しないようにと呼びかけた。現地では事故現場から半径350m以内の住民約40世帯への避難要請、500m以内の住民への避難勧告、10km以内の住民10万世帯(約31万人)への屋内退避要請および換気装置停止の呼びかけ、現場周辺の県道、国道、常磐自動車道の閉鎖、JR東日本の常磐線水戸 - 日立間、水郡線水戸 - 常陸大子・常陸太田間の運転見合わせ、陸上自衛隊への災害派遣要請といった措置がとられた。10km圏内の屋内退避要請の発表は20時30分頃、その要請が解除されたのは翌10月1日の16時30分頃だった。福島原発のような爆発事故が無かったので、放射線を発する微粒子などの散逸が無く、核分裂連鎖反応が停止すると、放射線の外部放出が止まるので、事故発生後30時間で避難要請や屋内退避要請はすべて解除されたのだった。

事故の原因

 本事故の原因は、旧動燃が発注した高速増殖炉の研究炉「常陽」用核燃料の加工を担うJCOのずさんな作業工程管理にあった。

 JCOは燃料加工の工程において、国の管理規定に沿った正規マニュアルではなく「裏マニュアル」を運用していた。一例をあげると、原料であるウラン化合物の粉末を溶解する工程では正規マニュアルでは「溶解塔」という装置を使用するという手順だったが、裏マニュアルではステンレス製バケツを用いた手順に改変されていた。事故当日はこの裏マニュアルをも改悪した手順で作業がなされていた。具体的には、最終工程である製品の均質化作業で、臨界状態に至らないよう形状制限がなされた容器を使用するべきところを、作業の効率化を図るため、別の、背丈が低く内径の広い、冷却水のジャケットに包まれた容器(沈殿槽)に変更していた。

 その結果、濃縮度18.8%の硝酸ウラン水溶液を不当に大量に貯蔵した容器の周りにある冷却水が中性子の反射材となって溶液が臨界状態となり、中性子線等の放射線が大量に放射された。これは制御不能の原子炉が出現したようなものである。ステンレスバケツで溶液を扱っていた作業員の一人は、「約16kgのウラン溶液を溶解槽に移している時に青い光が出た」と語った。臨界状態を終息させる作業は、JCO職員が数回に分けて内部に突入して、冷却水を抜いたりホウ酸を投入するなどの作業を行い、連鎖反応を止めることに成功して事故は終息した。中性子線量が検出限界以下になったのが確認されたのは、臨界状態の開始から20時間経った翌10月1日の6時30分頃だった。

 注記)ウランが核分裂を起こした時放出する放射線の主なものにアルファ線、ベータ線、ガンマ線、中性子線がある。

 ●アルファ線はヘリウム(原子番号2の元素)の原子核で、透過力が弱く、紙や数センチメートルの空気で遮ることができる。皮膚にアルファ線を受けても体内に入ることは無い。しかし、口などからアルファ線を出す放射性物質が体内に入ると、その周囲の細胞は重大な損傷を受ける。

 ●べータ線は電子で、厚さ数ミリメートルのアルミニウムで遮ることができる。

 ●ガンマ線は光や電波のような電磁波の一つで、透過力が強く、遮るには厚い鉛、コンクリートが必要。

 ●中性子線は、原子核が核分裂を起こしたときに放出される中性子である。中性子線は透過力が強く、遮るには水やコンクリートの厚い壁が必要。この事故では、作業者は強い中性子線に被曝したのである。

事故被爆者

 この事故では3名の作業員が1グレイ(推定1シーベルト=1000ミリシーベルト)以上の多量の放射線(中性子線)を浴びた。作業員らはヘリコプターで放射線医学総合研究所へ搬送され、うち2名は造血細胞の移植の関係から東大病院に転院し集中治療がなされた。3名の治療経過や本事故において被曝した者の経過などは、それぞれ以下の通り。

 ●16〜20グレイ(推定16〜20シーベルト以上)の被曝をした作業員A(当時35歳)は染色体が破壊され、新しい細胞ができない状態となる。まず白血球が生成されなくなったため、実妹から提供された造血細胞の移植が行われ成功したものの、経過と共にその細胞の染色体にも異常が発見され、一旦増加の傾向をみせた白血球数が再び減少に転じた。事故から約2ヵ月後、この作業員は心停止状態に陥った後に蘇生したものの、心肺停止によるダメージから臓器の機能が著しく低下、最終的に治療手段が無くなり、事故から83日後の1999年12月21日、多臓器不全により死亡した。

 ●6〜10グレイ(推定6〜10シーベルト)の被曝をした作業員B(当時40歳)は、造血細胞の移植が一定の成果をあげ、一時は警察の本事故捜査員への証言を行うまでに回復した。しかしその後容態が急変し、事故から211日後の翌2000年4月27日に多臓器不全で死亡した。

 ●推定1〜4.5グレイ(推定1〜4.5シーベルト)の被曝をした作業員C(当時54歳)は、一時白血球数がゼロになったが、放医研の無菌室において骨髄移植を受け回復。12月20日に放医研を退院した。4000ミリシーベルト(4シーベルト)の被曝を短時間にすると、死亡すると言われているが、この方は奇跡的に生き延びたのであった。

 ●臨界状態を収束させるための作業を行った関係者7人が年間許容線量を越える被曝をし、事故の内容を十分知らされずに、被曝した作業員を搬送すべく駆け付けた救急隊員3人が2次被曝を受けた。被曝被害者の受けた最高被曝線量は最大120ミリシーベルト、50ミリシーベルトを超えたものは6名だった。さらに周辺住民207名への中性子線等の被曝も起こった。最大は25ミリシーベルトで、年間被曝線量限度の1ミリシーベルト以上の被曝者は112名だった。被曝者総数は、事故調査委員会で認定されただけで667名(〜2000年4月)であった。

被爆者の治療

 ●短時間のうちに全身への8グレイ以上(推定8シーベルト以上)の被曝をした場合には、最新の医療でもほとんど手の施しようがなく、当初から回復は絶望視されていた。また致死量は6〜7シーベルトとされる。

 ●医学的には、近代医学による被曝者治療の貴重な臨床例となった。特に国内ではこのような大量の放射線被曝をした患者の治療自体が初めてで、治療に当たった医師団も毎日のように発生する新しい症状に試行錯誤をしながらの治療だったと証言している。

付記

 2011年4月7日、このHPに「日常生活と放射線」を掲載したが、それによると、日常生活する人間(大人)は、1年間の積算放射線被曝量の許容値(医療は除く)は、1,000マイクロシーベルト(1ミリシーベルト)である。

 資源エネルギー庁資料を元に文部科学省が作成した「日常生活と放射線」によると、日常生活する人間(大人)は、1年間の積算放射線被曝量は、約2,400マイクロシーベルト(2.4ミリシーベルト)である

 放射線業務従事者及び防災に係る警察・消防従事者に認められている上限値は、1年間に100,000マイクロシーベルト(100ミリシーベルト)である。

 今回の原発事故の後、事故原発の処理に当たる従事者は、特別に、1年間に250,000マイクロシーベルト(250ミリシーベルト)に上限値が引き上げられた。

 その放射線業務従事者に認められている上限値の100ミリシーベルト/年と比較して、推定16〜20シーベルトの被曝をして亡くなった作業者は、一瞬にして許容上限値の160〜200倍の放射線に被曝したのである。またもう一名の推定6〜10シーベルトの被曝をして亡くなった作業者は、同じく許容上限値の60〜100倍の放射線に被曝したのである。

 この様な施設の放射線管理は、現在は色々問題の多い「原子力安全保安院」がきちんと検査・監督をしているのだろか?それとも文部科学省の管轄だから、経済産業省の中にある原子力安全保安院は「我れ関せず」なのだろか?

HP編集者コメント: 国内で初めての原子力災害での死亡事故であるので、HPに掲載し記録に留めておく。

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