武雄温泉・吉野ヶ里旅日記(3)
<3日目 2018年5月12日>
 掲載日2018年6月3日                 纏め:増山俊一
          参加者:田中利夫、田巻 弘、増山俊一
               松村和裕、和田 弘
       俳 句:田巻 弘
 東京からだと九州は遠い。行きたいところは沢山あるので2泊3日の旅となる。3日目は自由行動日。当初予定していた8時00分発武雄行きのバスが土曜日で運休。田巻君は7時40分発のバスで一足先に出発。残りの4人は8時38分発のバス、武雄温泉 9時28分発博多行特急「みどり8号」まで同行し、のち3方向に分かれる。
うれしの元湯                
増山俊一 
 6時前に目が覚める。田中君と昨夜遅く行った1階離れの露天風呂に行く。しばらくして、松村、和田、さらに田巻君も合流する。他の客は2階の大浴場に行っているのか貸切状態である。7時から朝食。嬉野名物の温泉湯豆腐のほか、希望した嬉野茶を使った茶粥も用意してある。
 
朝 食
宿から南の方を見る
 今日もよく晴れている。田巻君は八女市の岩戸山古墳を見てから市街にも行きたいと一足早く宿をたつ。残りの4人は、朝食をゆっくりととった後、宿のロビーや売店でひと時を過ごす。
 
うれしの元湯
宿の前で記念撮影
 嬉野温泉バスセンター 8時38分発のJR九州バスに乗り、武雄温泉駅南口 9時11分着。9時28分発博多行特急「みどり8号」に乗車する。この特急はJR九州の783系交流特急形電車4両編成であるが、佐世保側に特急「ハウステンボス」4両を併結、双方間の貫通通路のため博多と佐世保方向で先頭車の形状が異なる。一昨日二日市駅での「みどり17号」の写真のように佐世保側は非流線型である。また乗り降りのドアが車体の中央にあり、客室が前後2室に分割され、通常の車両とは大きく異なっている。
 
特急みどり8号 先頭車
 
 佐賀に9時52分着田中君が下車、鳥栖に10時11分着乗り換えのため下車、松村、和田両君は博多まで行き、宗像大社に行く予定。

肥前一の宮
田中利夫
 嬉野温泉宿泊組5名と博多方面列車に乗車、佐賀駅(9時52分着)にて下車単独旅程が始まる。
 今日の目的は、奈良時代から続く肥前国一の宮として鎮座するなぜか二ヶ所の與止日女神社と千栗八幡宮を訪ねる事である。
 旅前に細かい旅程を決め損なっていたので、佐賀市観光案内所を出向き知恵を借りた。復路のフライトは福岡16時20分発として2つの神社を巡る方法を相談、結果両宮共JR最寄駅からタクシー利用、宮間の距離30km(佐賀駅―中原駅)はJR利用に依ることにした。
與止日女(よどひめ)神社 別名:河上神社
 佐賀駅から約20分嘉瀬川のほとりに楠の大木に囲まれた神社が現れた。初日から楠を見慣れてきたが何十本も群生しており、樹齢1500年とあるもの、4000年の古木の根元が露出しその後継か重なるように600年の若木が腕を広げたもの他多数立っていた。
 参拝前に手水舎に向かう写真の珍しい水屋に出会った。
 祭神は水神、農業神として崇敬されている。
 
手水舎
本殿

肥前鳥居と與止日女大楠
 
4千年大楠
大楠の由来
「大楠の由来」の左部分に、「大楠の大きさは高さ30
メートル余、幹の周りは27メートル、弓の弦を15
筋繋いでも、なお足りなかったと言われる程の大木で
あった。(中略)1813年(江戸時代、文化10年
仁孝天皇)落雷により火災。」と記載されている。

 祭神   與止日女命(神功皇后の妹か、山幸彦の妻豊玉姫とも、いずれにしても水を守り、農を助ける神)
 由緒   欽明25年(564年)鎮座
 タクシー運転手にこれから中原に向かうと話すと、11時21分発の鳥栖行に間に合わせてくれ、無駄な待ち時間なく鳥栖行に乗車、中原までの間昨日(11日)訪れた吉野ヶ里の物見櫓などを車中から眺望するうちに、11時37分中原着、佐賀駅で予約したタクシーにより千栗八幡へ、1時間後のJR便に乗ることで発車した。
千栗(ちくり)八幡宮
 駐車場から見上げる丘の上が八幡宮である、上に行くには目の前から上に伸びる石段を上がるほかはない。この石段は柔道の「平成の三四郎」古賀稔彦氏が足腰強化のため利用したので知られ、オリンピック優勝を讃えた石碑が上り口に設置されている。
石段上
石段下

 古賀氏に変わって小生が上ってみるが勾配がきつく、休まずに上がるのはきつく手すりを頼っての昇段となった。境内広く楠が與止日女神社に比べ樹齢は若い。戦国時代には近くの千栗城を巡る戦いに巻き込まれ神域が荒れ果てたとのことである。千栗の築城に好地形に相応しく境内から久留米の市街を遠望出来た。
 祭神は以下に見るように武の神である。
  祭神   応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、他4柱(住吉明神、武内宿禰他)
  由緒   神亀元年(724年)鎮座
  行事   お粥祭  炊いたお粥に現われるかび等の様子で天候や作柄を占う
  摂末社  武雄神社   稲森稲荷神社
 
本殿
久留米方面の眺め
武雄神社の由緒
肥前一の宮考
 以上二つの宮を訪ね、どちらが一の宮に相応しいか学術的には別として小生は與止日女神社にしたい。以下に掲げる陶板案内「歴史公園 はがくれの里」に、国府跡・国分寺跡が記されており、又近くに幾つかの古墳が散見され人の集まる処と見るからである。
歴史公園 はがくれの里
参考:高山旅行記に大林太良氏の「私の一宮巡詣記」の記述を紹介したが、氏は2001年に逝去され予定されていた九州各地(與止日女、高良、宇佐など)が発表されていない。
 予定の時間を考えながら車に戻ると運転手が、JR中原に戻るより久留米から西鉄利用が便数もあると教えられ、懐かしい西鉄久留米駅から太宰府を目指した。30分足らず(西鉄特急のおかげ)で太宰府に到着した。
 昼食の後光明禅寺・天満宮を巡り14時45分太宰府発の西鉄バスで空港へ、余裕を持って16時20分発ANAで帰路に着いた。
岩戸山古墳
増山俊一
 鳥栖で乗り換えの待ち時間が20分あり、久留米に着いたのが10時40分、46分発の八女営業所行きのバスに乗る。道路混雑のため15分ほど遅れ11時43分に岩戸山古墳最寄のバス停「福島高校前」につく。入れ違いに田巻君が乗り込んでくる。まず、八女市岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」に行く。
 
JR久留米駅 東口階段上から 岩戸山歴史文化交流館
 
 館内には古墳の出土品の展示とともに、磐井を中心とした筑紫君に関する歴史や古墳、その出土品などの解説パネルが並び、思っていたよりも見ごたえがある。
 岩戸山古墳は約1500年前に筑紫君磐井が築いたとされる墳丘長約135m 北部九州最大の前方後円墳である。八女市とその周辺には、岩戸山古墳を始め、磐井の祖父の墓とされる「石人山古墳」など多数の古墳が存在し、筑紫君一族が強大な勢力を持っていたことが分かる。またこれら古墳からは石人・石馬などが出土し「やまと」とは異なる文化を持っていたことも伺える。
 磐井は527年継体天皇に対抗、古代史上の大事件「磐井の乱」を起こし翌528年に敗北するが、このとき石人石馬は徹底的に破壊されている。
 
展示室内
 館の南側の出入口から古墳に続く道がある。墳丘部分はツブラジイの大木に覆われ、その形はまったく分からない。古墳の西南に石段があり頂上に行ける。頂上には「大神宮旧跡」と書かれた石碑が立っている。大神宮=伊勢神宮=天照大神? 天照大神の力を借りて磐井を押さえつけている? それともひょっとして天照大神は磐井の・・?
岩戸山古墳への道
古墳頂上にある「大神宮旧跡」石碑
 岩戸山古墳の西 150mほどのところに岩戸山4号古墳(下茶屋古墳)がある。直径 30m程度の円墳で石室の中に入れる。石室は全長7.5mで3室構造、7世紀前半期に作られた最も新しい時期の古墳である。
 「いわいの郷」に戻る。途中館の近くに「弥生の広場」があり、竪穴住居と高床倉庫が復元されている。なぜかほっとする。
 
岩戸山4号古墳 竪穴住居と高床倉庫
 
 バス停に戻る。目の前に昼食をと思っていた食堂があるが、交通渋滞を予想してスキップする。西鉄久留米駅に定刻より20分遅れて到着する。予定していた特急は出たあと、次発の急行に乗る。
 14時47分西鉄福岡(天神)駅到着。60年前この駅から徒歩10分ほどのところに下宿していたので、立ち寄ってみた。予想はしていたが当時の面影はまったくない。西鉄福岡駅は高架になり、地上へはエスカレーターで降りる。駅のそばにNHKのテレビ塔とNTTの電波塔が並んで立っていたが、今は大型店舗に変わり大勢の人でにぎわっている。地下鉄で福岡空港に行き、16時00分発のJAL320便で羽田に帰る。
八女市街
田巻 弘
三日目の行程は武雄温泉(佐世保線、長崎本線)鳥栖(鹿児島本線)久留米(バス)岩戸山古墳(バス)八女(バス)八女インター(高速バス)福岡空港(空路)羽田空港。
 久留米から八女へは国道3号線薩摩街道である。片側一車線だが結構な交通量がある。
 岩戸山古墳を一回りしてから八女市街へ行く(バスに乗ったところで、降りた増山君から声をかけられる。何故かほっとする)。八女地方は古くから開けた地域で、今でも伝統的工芸品の産額は九州一であり、市街地の旧街道が重要伝統的建造物群保存地区となっている。
 八女で昼時となり、まず昼食から始める。古風なつくりの食事処(八女サヘホ)に入る。此処の昼定食650円が素晴らしかった。味噌チキンカツ、鯖のヨーグルト焼き、材料もよかったが味噌、ヨーグルトベースのドレッシングはこの土地の民度の高さを教えてくれるようだった。
 
絶妙のビールランチの間合いかな 昼定や文化感じる鯖の味
 昼定は土地の文化や風薫る
 
 伝統的な街並みは、東京近郊で著名な川越と比べて、白壁が美しく、両側まとまった街並みが少なく、人通りが少ない。豪商の家屋が公開されていて、ここの庭は圧巻である。観光物産館と伝統工芸館に立ち寄る。土産に八女茶と八女茶入り干菓子を買う。ともに好評だったが、干菓子は銀座コロンバン製であることが後で分かった。おいしければ良しとする。伝統工芸館で目を引くのは仏壇である。美しく、立派だが我が家に置く位の大きさのもので二、三百万円である。
 空港へは八女インターから高速バスに途中乗車した。空港へ直行し、早くて便利である。
 
日盛りや訪う人を待つ旧街道 豪商の心根今に白砂灼く
宗像大社(辺津宮)
和田 弘
 いつものスタイルで旅館だけが決まっていて途中の行程は各自バラバラであったが、自分の場合は次のようにした。
初日 :大宰府政庁跡見学→大宰府天満宮参拝→九州国立博物館見学→武雄温泉(泊)
二日目:吉野ケ里歴史公園見学→祐徳稲荷神社参拝→嬉野温泉(泊)
三日目:宗像大社(辺津宮)参拝→福岡空港
ここでは初日と二日目については省略して三日目についてのみ以下報告する。
 今回の旅行で三日目に宗像大社に行く予定を立てていたのは自分の他に松村君がいたので具合よく二人道中となった。博多経由で宗像大社最寄りの東郷駅に着いたのが11時18分。バスの本数が少ないためここからはタクシーとするかレンタルの電動自転車にするかなどと思っていたのだがタイミングよくバスに乗ることが出来たのはラッキーだった。宗像大社は玄界灘に浮かぶ沖ノ島にある沖津宮、筑前大島にある中津宮、それに九州本土宗像市田島にある辺津宮、これら三社の総称とのことだが今回我々二名が参拝したのは辺津宮である。とにかく古い神社で古事記/日本書紀にも記載があるとのことで実際に多数の古代の遺物が見つかっていると聞く。
 本殿、拝殿ともに立派な建物であるがこれらは中世、戦国期から江戸時代にかけて再建されたものとのことで伊勢神宮のように古式そのもののスタイルの神殿ではない。周囲は農村地帯で所謂門前町のようなものも無くてその点アッサリとした雰囲気である。参拝後に昼食を摂ろうと思って探してみたが食堂やレストランの類が見つからずやむなく道路沿いのコンビニで買ったパンと飲み物で我慢した次第だ。
 
高宮祭場

 参拝後は時間の関係で松村君とは別行動となった。帰りのバスまで一時間ほどの余裕があったので本殿の奥の方に回ってみた。鬱蒼とした樹木の間を通って小高い山に登る。なだらかな登り道ではあるが途中には石の階段もあって120-130階程度はあったと思う。70-80メートルほどは登った感じである。登り切った先に小さな祠があってその左手に柵で囲まれた一郭が見えた。近づいてみるとその中に石を並べて区切った土地がある(写真添付)。他には何もない空間だが何か雰囲気がある。大昔の人たちがなにかの儀式でも行ったような雰囲気である(後でパンフレットを見たらここは高宮祭場という名の古代の神籬(ヒモロギ)祭場とのこと)。周りは高い樹木で蔽われていて静かな場所であるが仮にこれらの樹を切り払ったら遥か西の方に玄界灘が見えそうだ。全くの想像だが古代の人たちはここで海とのつながりを感じつつ神に祈ったのではなかろうか。あるいはここに神が天下ったのかも知れない。現在目にする本殿、拝殿その他、諸々の建物は確かに立派ではあるがいささか人間の手が加えられ過ぎているとも感じる。
 境内の神宝館には沖津宮のある沖ノ島で発掘された古代の遺物が収蔵展示されているそうだがこちらは時間が無くて見ることが出来なかった。残念である。
この後バスと電車を乗り継いで博多経由で福岡空港へと帰路についた。

松村和裕
 第三日目(H30年5月12日(土))宗像大社(世界遺産)辺津宮
 和田さんと同行した。宗像大社については和田さんが詳しく述べているので、省略。 
 和田さんと別れ、JR博多駅14時33分発「のぞみ38号」で帰途に就いた。
宗像大社辺津宮本殿(重文) 塀外からの屋根

宗像大社辺津宮本殿(重文)の内部
鳥居 御神木(橘)
あとがき
 
 2015年縄文時代の青森・三内丸山遺跡、一昨年世界遺産の島根県・石見銀山、昨年縄文時代の岐阜県・飛騨金山
巨石群と遺跡めぐりが続いているが、今年は弥生時代の吉野ヶ里遺跡が田中君から提案された。長崎在住の本田君の
参加が得られるということで、2月の二水会で決まり検討に入った。宿泊は吉野ヶ里遺跡のある佐賀県の武雄温泉とし、
宿は評判のよい「ホテル春慶屋」を選んだ。慣例により1日目宿までと、2日目吉野ヶ里遺跡観光後は、各人自由行動で
ある。自由行動の訪問地として、太宰府、祐徳稲荷、宗像大社、岩戸山古墳などをあげ行程案を作ったが、企画した2月
以後JR・西鉄バスのダイヤ改正や3日目が土曜日で対応に追われた。
 自由行動の日を含め3日間晴天に恵まれたこと、14年ぶりに本田君と再会できたこと、そして古代における九州の歴史
の重みを感じた、恵まれた旅でした。 
 増山 記
 
 武雄温泉・吉野ヶ里旅日記(3)が、(2)より早く原稿が纏まったので、先に掲載することにした。(増山 注記)
 
(2日目へ) 
 
HP編集者コメント:小生は参加できませんでしたが、なかなか面白い且つ参考になる記述が沢山ありますので、「コンフォ
ートあづみ野」のトップ頁の最近掲載頁の索引からも、見ることが出来るようにしました。
 
 
コンフォートあづみ野のトップ頁 > 二水会のトップ