武雄温泉・吉野ヶ里旅日記(1)
<1日目 2018年5月10日>
 掲載日2018年5月29日                纏め:増山俊一
      参加者:田中利夫、田巻 弘、本田恭二、
            増山俊一、松村和裕、和田 弘 
      俳 句:田巻 弘
 今年の旅行会は、宿泊施設と集合日時だけを指定し、他は自由行動とする旅行会形式にしてからは5回目。5月10日(木)17時 佐賀県武雄温泉の「ホテル春慶屋」に集合、翌日特別オプションとして「吉野ヶ里歴史公園」に行くことになる。2004年本田君幹事の長崎旅行以来2度目の九州旅行である。参加者は、田中 田巻 本田 増山 松村 和田 の6名、長崎市在住の本田君は14年ぶりの参加である。
 1日目、首都圏から参加の5名は、個別に福岡から太宰府を訪れたあと武雄温泉に向かうが、先発した田中君以外の4名は電車内で順次合流、肥前山口では本田君も一緒になり宿に行く。2日目は、全員で吉野ヶ里歴史公園見学後、肥前鹿島行きの電車に乗る。途中肥前山口で本田君と別れ、5名は祐徳稲荷に行き嬉野温泉に宿泊。3日目朝、田巻君は宿を先発、残り4人は武雄温泉から博多行きの電車まで同行、3方向に別れ、観光後個々に帰京した。
 以下、訪問先の模様、参加者の感想、コメント等を紹介する。               以上 増山記
九州旅行感想文                本田恭二
 
 旅好きの方々のはからいで九州旅行が計画され、出不精の自分も参加でき、14年ぶりの再会ができました。
 自分は長崎からJRで武雄温泉に直行、翌日の吉野ケ里遺跡見物のあと帰途につきました。皆さんと顔を合わせたのは、肥前山口で佐世保行きの特急「みどり17号」に乗り換えた車中。(田中さんは1列車先行)昨日も会っていたかのような親近感を覚えました。
 吉野ケ里見物中、地元説明者の話に加えて、田中さん曰く”邪馬臺国(やまたいこく)は誤りで邪馬壹国(やまいちこく)が正しいとする説があり、邪馬壹国の存在位置は九州”とのこと。その博識に感服した次第です。
 八十路越えの田中、田巻、増山、松村、和田諸氏の壮健さにも脱帽でした。懐かしく、楽しい20時間を有難うございました。
第1日 5月10日(木)
大宰府政庁跡                 増山俊一
 
 羽田9時20分発のJALで福岡に向かう。搭乗ゲート前の待合場所で和田君に会う。11時15分福岡空港に着陸、九州の旅が始まる。国内線から国際線ターミナルに移動し、西鉄バスの太宰府ライナーバス「旅人」に乗る。出発して20分弱、12時10分頃「大宰府政庁跡前」に着く。所要時間、運賃とも電車より効率が良い。
 バス停近くの「大宰府展示館」に行き、パンフレットを貰い、展示品見学、解説員から話を聞く。展示館を出て小川を渡ると、中門跡に出る。建物や回廊の礎石が残されている。南の正面入り口から北に向かって、南門、中門、広場、正殿、後殿と並び、広場を挟んで東西に2棟ずつ脇殿が配されている。平城京などと同じ配置で朝堂院形式とのこと。広さは東西約110m、南北約210mである。また、街は東西24坊、南北22条の条坊制で、広さは東西約2.6km、南北約2.4kmであったという説がある。政庁から朱雀大路が南に延び、南門跡から250mほどのところに朱雀門の礎石があるとのこと。今は、さらに50mほど南、国道3号線との交差点の南から、道は西のほうへ大きく曲がっていて、当時の条坊制の面影はない。
 
南門跡前より大宰府政庁跡全景
 
正殿跡 「都督府古趾」石碑 南に延びる朱雀大路
田巻 弘
 
 前後の二日間を完全に一人で動いたのは始めてで、いろいろ勉強になりました。
 大宰府政庁跡の周辺は、1000年も後の今も住居が点在する田園地帯なのは不思議な感じですね。
 
残りしは礎石と寺院風薫る
                      観世音寺                 増山俊一
 
 政庁跡を見終わり県道に戻る。太宰府天満宮に行く和田君と別れ、県道を東に観世音寺へ向かう。政庁跡前のバス停近くに大伴旅人の歌碑がある。「やすみししわご大君の食国は 倭も此処も同じとぞ思う」名前の上に大宰帥とある。旅人は大宰府の長官だったんだと知る。西鉄バスの「旅人」も合点が行く。「大宰府学校院跡」の横を過ぎ、10分ほどで観世音寺に着く。
 
大伴旅人の歌碑 学校院跡
 観世音寺は、670年頃天智天皇が母、斉明天皇の追福祈願のため発願され、686年頃には一応完成していたとみられているが、その後寺の性格が鎮護国家へと変更されたため、正式発足は80年後の聖武天皇天平18年(746年)といわれる。大宰府の大寺として九州の僧統の中心的な存在だった。さらに761年には、奈良東大寺・下野薬師寺とともに三戒壇の一つとなる。
 しかし律令制の崩壊と度重なる火災、台風の被害により寺運は傾き、平安時代末期以降は観音信仰の寺として民衆に支えられるようになる。現在は、江戸初期に再建された講堂と金堂の2堂があるが、ここに収容されていた平安末期の仏像16体は、1959年に建設された宝蔵に移されている。宝蔵内には像高5m前後の、不空羂索観音、馬頭観音、十一面観音の木造立像が並び圧倒される。講堂本尊の聖観音立像と九州国立博物館に出陳の阿弥陀如来立像を加えた18体が国の重要文化財に指定されている。
 
観世音寺参道 観世音寺講堂
 
 この寺の梵鐘は飛鳥時代の作で国宝に指定されている。鐘の音は天下一品だそうである。菅原道真は「都府楼纔看瓦色 観音寺唯聴鐘聲」と誌に読んでいる。道真はこの鐘の音を聞いて誌を詠んだんだと思うと、鐘を見ていて楽しくなる。
正倉院風の宝蔵 国宝の梵鐘
 
 横道を通り戒壇院に行く。今では戒壇院は観世音寺とは別法人である。戒壇院から県道に向かって参拝道がまっすぐある。県道に出るとすぐバス停「観世音寺前」がある。太宰府市のコミュニティバス「まほろば号」で西鉄太宰府駅に行く。全区間料金は100円。
 
戒壇院
 
 両寺とも、参拝に訪れる人はポツリ、ポツリとではあるが絶えることはなかった。しかし出会ったお寺の関係者は、宝蔵で拝観の受付をしている中年の婦人一人だった。観世音寺は、九州西国三十三箇所霊場の33番目の札所でもあるが、納経帖もこの人が書いている。かって九州一を誇った寺の面影はまったく感じられない。
 ところで九州の神社は、今から訪れる太宰府天満宮をはじめ、宗像大社、宇佐神宮、鵜戸神宮、霧島神宮、佐賀は祐徳稲荷、長崎くんちの諏訪神社、熊本は地震で知った阿蘇神社と各地の神社名が次から次へとすぐ思い浮かぶが、お寺は長崎の崇福寺以外すぐには思い浮かばない。これが京都・奈良となると逆で、お寺の名前はいくつも出てくるのに、神社は数社しか出てこない。なんとなく九州と近畿の文化の差を感じる。
太宰府天満宮 
松村和裕
 
 一度は新幹線を博多迄通して乗ってみたいと思っていたところ、電気33会の今年の旅行が佐賀県の吉野ケ里記念公園他に決まったので、これ幸いと博多駅までの特急券と武雄温泉駅迄の乗車券を購入し、のぞみ17号(博多行)に乗車した。武雄温泉駅迄の切符は「記念」に貰っておいた。
 のぞみ17号の博多駅着が13時33分、特急みどり17号の同駅発が15時31分と博多駅での時間が約2時間しかないので、往復タクシーを利用。タクシー運転手氏は見掛けたところでは60代。話好きで、乗車中ずっと沿線風景他の解説をしてくれた。大宰府天満宮に着いたら今度は境内の案内をするというので、案内して貰った。大宰府天満宮についてのいろんな話が聞けた。ガイド料はタダ。駐車場代や高速道路代を含め往復¥13900。久し振りに金で時間を買った。 
 
心字池 大宰府天満宮の末社志賀社(重文)
大宰府天満宮 本殿(重文) 飛梅(御神木)
二礼二拍外人真似て若葉風
増山
 
 太宰府天満宮は菅原道真の墓所の上にご社殿を造営したといわれ、「学問の神様」として年間約1000万人の参拝者が訪れるそうである。観世音寺とはうって変わってすごい人である。
 心地池にかかる一つ目の太鼓橋と平橋を渡ると右に「志賀社」の祠がある。「海の神様」綿津見三神を祀る。室町時代に再建され、和風・唐風・天竺風の様式が合わさったつくりで、国の重要文化財に指定されている。
 
太鼓橋 楼門
 
 二つ目の太鼓橋を渡り楼門をくぐると本殿前の広場にでる。現在の本殿は1591年の建立。国の重要文化財。
 今回の旅行前は「宰府天満宮」だと思っていた。実際は「宰府天満宮」と知る。律令政治機構の役所を指す場合は「宰府」、現在の行政名などは「宰府」を用いている。少し物知りになる。
九州国立博物館
増山
 
 天満宮参拝後、九州国立博物館に向かう。東京、奈良、京都につぐ4番目の国立博物館である。時刻は14時、途中一足早く武雄温泉に向かう田中君とすれ違う。博物館へは、虹のトンネル:エスカレーターと動く歩道で行く。博物館の建物は4階建、壁は全面ガラス張りで、空や周囲の山に溶け込んで見える。
 1階は広々としたエントランスホールとレストラン、ショップ、ホールなど、3階は特別展示室,4階が文化交流展示室(平常展)、高校生以下と満70才以上は無料、恩恵に浴す。
 4階の展示は、旧石器時代から江戸時代までを5つのテーマに分けている。「2 テーマ 弥生~古墳時代 稲づくりから国づくり」のコーナーには、神宿る宗像・沖ノ島への奉納品、岩戸山古墳出土の石人頭部や、「漢委奴国王印」のレプリカも展示されている。
田巻
   
菅公から博物館へ虹の孔 九州国立博物館
太宰府から武雄温泉へ              増山
 
 14時55分、国立博物館を後に虹のトンネルを再び通り、天満宮の太鼓橋に出、参道を西鉄太宰府駅に戻る。乗車予定は15時15分発筑紫行きの電車、車体も模様がラッピングされていて、ドア左には赤地に白字で「旅人」とある。国立博物館で見かけた和田君と田巻君はすでに乗車している。太宰府発の電車はほとんどが二つ目の西鉄二日市駅が終点であるが、この電車は本線に乗り入れて先まで行く。三つ目の「紫」で下車、JR二日市駅まで歩く。西鉄二日市駅からの半分以下の距離ですむ。15時45分発佐世保行きの特急「みどり17号」に乗る。博多から乗車の松村君と合流。肥前山口駅で長崎から来た本田君が乗車、14年ぶりの再会。16時42分武雄温泉駅に到着。5人揃って出迎えに来てくれた宿の送迎車で、16時50分「ホテル 春慶屋」に着く。
 
西鉄太宰府15時15分発筑紫行き電車 JR佐世保行き特急「みどり17号」
ホテル 春慶屋                   増山
 
 武雄市は佐賀県の西部にあり、町の中心には開湯以来1300年経つ武雄温泉がある。この温泉には日本銀行や東京駅の設計を行った辰野金吾設計の楼門があり国の重要文化財に指定されている。われわれが宿泊した「ホテル 春慶屋」は楼門の近くにあり、7階建ての建物最上階に大浴場と展望露天風呂がある。敷地内に湧出する天然温泉で、露天風呂は源泉かけ流し。
 
春慶屋(翌朝撮影) 武雄温泉楼門 左に春慶屋の看板
 
 夕食会
 
 6名全員揃ったところで、7階の大風呂で太宰府の汗を流し、展望露天風呂へ、日の光を浴びた武雄の町が見渡せる。18時から旅行会のメインイベント:夕食会が始まる、今日の旅の話、過去の旅行会の話、学生時代の話、友の消息など話は尽きない。
 
                写真:松村提供
 夕食は、宿のお品書きにある食前酒に始まり、ビール、ワインと続く、刺身は玄界灘産のお造り、佐賀産和牛ステーキ、釜飯は武雄産ひのひかり と地元の食材も含まれる。食器もきれいな皿や椀が並ぶ。どこの焼き物か確認しなかったが、佐賀県は有田、伊万里、唐津など有名な焼き物の産地がある。武雄にも窯元が沢山あるようである。
 
夕食スタート時の膳
蓋物・揚物・蒸物・甘味 と 佐賀県産麦焼酎「蒼天」
 
 赤ワインを飲み終わり、佐賀県のお酒をとなる。ラベルに肥前竹炭麦焼酎「蒼天」窓之梅酒造・・とある。さわやかで口当たりがいい。20時40分夕食が終り、再び7階の展望露天風呂に行く、部屋に戻り22時過ぎまで話しこむ。
以上
   
 (2日目へ)
 
 HP編集者コメント:小生は参加できませんでしたが、なかなか面白い且つ参考になる記述が沢山ありますので、「コンフォ
ートあづみ野」のトップ頁の最近掲載頁の索引からも、見ることが出来るようにしました。
 
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