走り続けろ!
模型用エンジンの販売は長続きせず、しばらくして真田さんは板橋工場をたたむことを決意します。そして数台の工作機械を設置した小さな「工場」を自宅の庭に作り、真田さんの新たな挑戦が始まりました。
「工場」よりも「倉庫」と呼ぶ方がふさわしいと言うプレハブ小屋だったそうです。当然お金のかかる金型などは製作できません。機械加工職人の真田さんは「ひきもの」(切削加工)によるエンジンの製作を決意します。そして、一般的な量産エンジンと同様なそれを大量に製作するよりは、たとえ少量であっても、それがたとえ高価であっても他に類を見ない製品とすることに指針を決めました。飛行機用40サイズ水平対向エンジンや星形3気筒、直線運動ピストン型などが生まれたのは、そういういきさつからです。中には既存の20クランクケースを用いた星形6気筒エンジンや、僅か20台しか生産されなかった星形5気筒エンジンもありました。これらは1台ずつ実家に保管され、他は全て一部のマニアに売却されました。場合によっては当時、そのマニアからの要望で必要数だけ生産された物なのかもしれません。
その中のいくつかは外国製品を参考にしたものではありましたが、それでも同等の性能を追求するための努力は図り知れません。各パーツの寸法や材質に始まり、加工方法や加工順序など、考えることは山ほどあります。
ピストンやシリンダーは真田さんの手により1セットずつ摺り合わされ、部品の公差を確認しながら組み立てられて行きます。手作りエンジンでは必須の作業ですが、一般のマニアから見れば「互換性のない、粗悪なエンジン」と写ったかも知れません。しかし今、自分でエンジンを造ってみると「カスタムエンジンは、そう言うものさ。」と感じます。数多くないマニアの手に渡った「ハイネス・カスタムエンジン」は作動させられることもほとんどなく、現在に至っています。
1980年台前半頃でしょうか、カスタムエンジンの生産がうわさを呼び、序々に大手の機械関連メーカーが試作品を発注してくる様になりました。自動車メーカーや電気メーカーなどが、職人としての真田さんの技術を広く信頼した証です。真田さんは小さな工場で、一人試作に取り組み続けました。そして、模型用小型エンジンの製作は、ここで終わりを告げることになります。
全く違う世界の分野に飛び込み、職人の気概を持ち続けた真田彰さんは、1990年にこの世を去りました。
現在、自宅の工場には家財道具等も置かれていて、当時の部品や残った工作機械が混在しています。まだ部品が残っているのか、もしかしたら組み上がったエンジンが存在するのか、さらに見たこともない試作エンジンがあるのか。しかし、近々その工場は取り壊されるそうです。「昭和のサムライ」の足跡が、またひとつ消えて行きます。
激動の時代を機械加工職人として生き抜いた真田彰さん。単に生活のため、生きるためにだけ模型用エンジンを生産して来たのかもしれません。しかし、製品のひとつひとつに込められた情熱を感じ取った今、「本物の」機械加工職人のもの凄さに、ただ驚くばかりです。
真田さんの息子さんは、現在53才で不動産会社に勤務しています。機械加工はもちろん、大学を卒業してから模型用エンジンには携わっていませんが、今回実家からいくつかのエンジンをみつけました。それが前出の「まぼろしのエンジンたち」なのですが、今後、何とかしてそれらのエンジンを始動してみるそうです。全て試作のような物ですから、場合によっては作動しないかもしれないし、破壊するかもしれません。
息子さんは、こう語ってくれました。
「学生のころ、父親の仕事を手伝って、私も試運転をしましたよ。その時は問題なかったので、素人の私にはこのエンジンは良く回るってイメージしかないんですよ。だから、かならずもう一度回してやります。そして今もなお、ハイネスエンジンと格闘しながら飛ばそうと思ってくださる方々が居るなんて、うれしいじゃありませんか!どうもありがとうございます。」
(2007年3月17日)
(2008年7月6日追記)
あとがき
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