HINESS(ハイネス)という模型用エンジンをご存じでしょうか。70年代中盤に突如衝撃的にあらわれ、しかし、店頭から姿を消した後に生産された製品の方が、いまだに評価が高いという幻のエンジン。

 それは、東京・板橋の町工場から始まりました。

走り出せ!

 現在でも一部の釣りマニアに根強い人気を誇っている「ロディリール」は、当時東京・板橋にあった稲村製作所で製造されていました。海釣り・川釣りを問わず優秀な製品として、当時から語り継がれていたようです。しかしある日稲村製作所は、事業の拡大をねらっていた同じ釣り道具の競合メーカー「ダイワ」と合併することになりました。1960年台も、終わりに近づいた頃の話です。
 そんな中、稲村製作所の技術部長としてリールの開発をやっていた真田彰さんは、「稲村の開発だった自分が、競合メーカーには行けない。」と言い、稲村製作所に残ることになります。稲村の主要メンバーはダイワの取締役などに納まり、たった一人の機械加工職人が工場を運営することになりました。
 当然、釣り関係の製品の製造はしないという約束になっていたため、しばらくUSAのエアーツールの部品などを生産していた真田さんはオイルクライシスのあおりを受け、次なる商品の開発を迫られることになります。
 そんなとき、「カルト産業」からRCヘリコプターのミッションユニットの製作依頼が来ました。日本初のRCヘリコプターである「ヒューイコブラ」のユニットです。釣り用リールの機構は精密で、しかし耐久性が要求されます。RCヘリコプターのミッションユニットを作るノウハウは充分でした。
 注文された製品が完成すると、次は自社ブランド製品に移行するのは、当然の成り行きだったのかも知れません。ヒューイコブラのノウハウを生かし、間もなく自社ブランドのRCヘリも誕生します。エンジン付きの半完成機「フライングマシーン」が、それです。
 44クラスの水平対向2気筒エンジンは、元々このフライングマシーンに搭載するために製作されたエンジンで、その後に生産される様々なエンジンの基幹となります。このエンジンはアルミ材からの削りだしによって製作されており、冷却フィンは無く、アルミ板を複雑に曲げて作った空冷フィンを後付けしてありました。ドライブワッシャの周辺にはプルスターターが装備され、一見無骨ですが実際の使用を前提にしたものだったようです。模型飛行機を知らない機械加工職人が挑戦した、始めての模型用エンジンは、こうやって生まれました。

 ちなみにUSAのエアーツールを生産していたとき、通関書類の略記号が「ITAHINESS:イタハイネス」でした。「ハイネスエンジン」はそこからとった名前なのだそうです。

走れ!

 フライングマシーンの後の1970年頃、鋳型を起こして09と20サイズの量産エンジンの生産が始まります。当初クロスエンジンだったハイネス量産エンジンは、小型エンジンであるにもかかわらずクランクシャフトにボールベアリングを使用し、高性能を狙っていましたが、「回転部分にはボールベアリングを」とは、高性能で使用しやすい釣り用リールを生産するための鉄則ですので、真田さんとしてはあたりまえの設定だったのかもしれません。これらの量産エンジンは後にシニューレ掃気に進化し、さらなる性能向上を狙いましたが、1977年を目前に控えた11月、様々な理由によってHINESS量産エンジンは製産を終了します。
 他社製エンジンとの差別化のため、外観に黒色アルマイト加工を施したり前後非対称のシリンダーヘッドを装着したりしたものもありましたが、鋳造クランクケースの量産型ハイネスエンジンは09と20の2タイプだけでした。中にはエンジンのクランクケースをつなげて作った「疑似水平対向エンジン」もありましたが、数多くは生産されなかったようです。このエンジンは単気筒エンジンのクランクケース下部に、同部分を切り離したシリンダー以上のパーツを接着!したものです。見た目は水平対向2気筒エンジンなのですが、実は単気筒。これでも充分雰囲気は味わえると考えた力作なのですが、同時爆発の排気音を期待していたマニアには受け入れられなかったようです。
 このような、一見「なんで、こんなものを?!」というエンジンたちは、真田さんが模型エンジンマニアではなかったことによる「自由な発想」から生まれたと推測されます。後に生産される数々な多気筒エンジンも、実用を前提にしていないからこそ形になったのかもしれません。
 「模型エンジン素人」の真田さんは当然、他社のエンジンも参考にしてきました。しかしそのコピーだけでさえ困難な模型用小型エンジンの製造は、相当な苦労があったはずです。そしてさらにオリジナリティを加えるとなると、機械加工職人の技術や意地があったとしても、簡単に出来るものでは無かったことでしょう。
 現在も元工場には、OSやフジなどの他社エンジンがいくつか残っているそうです。ハイネスエンジンにはそれらに似ているものはあっても、完全なコピーなどは存在しません。「エンジンは水平対向2気筒!」から始まった真田彰さんのエンジン作りは、簡単な構造の量産エンジンでは満足出来なかったのかも知れません。
 ちなみに、疑似水平対向エンジンは、始動すると燃料で接着剤が軟化して、そのうちに疑似部分はぽろっと取れてしまうそうです。

走り続けろ!

 模型用エンジンの販売は長続きせず、しばらくして真田さんは板橋工場をたたむことを決意します。そして数台の工作機械を設置した小さな「工場」を自宅の庭に作り、真田さんの新たな挑戦が始まりました。
 「工場」よりも「倉庫」と呼ぶ方がふさわしいと言うプレハブ小屋だったそうです。当然お金のかかる金型などは製作できません。機械加工職人の真田さんは「ひきもの」(切削加工)によるエンジンの製作を決意します。そして、一般的な量産エンジンと同様なそれを大量に製作するよりは、たとえ少量であっても、それがたとえ高価であっても他に類を見ない製品とすることに指針を決めました。飛行機用40サイズ水平対向エンジンや星形3気筒、直線運動ピストン型などが生まれたのは、そういういきさつからです。中には既存の20クランクケースを用いた星形6気筒エンジンや、僅か20台しか生産されなかった星形5気筒エンジンもありました。これらは1台ずつ実家に保管され、他は全て一部のマニアに売却されました。場合によっては当時、そのマニアからの要望で必要数だけ生産された物なのかもしれません。
 その中のいくつかは外国製品を参考にしたものではありましたが、それでも同等の性能を追求するための努力は図り知れません。各パーツの寸法や材質に始まり、加工方法や加工順序など、考えることは山ほどあります。
 ピストンやシリンダーは真田さんの手により1セットずつ摺り合わされ、部品の公差を確認しながら組み立てられて行きます。手作りエンジンでは必須の作業ですが、一般のマニアから見れば「互換性のない、粗悪なエンジン」と写ったかも知れません。しかし今、自分でエンジンを造ってみると「カスタムエンジンは、そう言うものさ。」と感じます。数多くないマニアの手に渡った「ハイネス・カスタムエンジン」は作動させられることもほとんどなく、現在に至っています。
 1980年台前半頃でしょうか、カスタムエンジンの生産がうわさを呼び、序々に大手の機械関連メーカーが試作品を発注してくる様になりました。自動車メーカーや電気メーカーなどが、職人としての真田さんの技術を広く信頼した証です。真田さんは小さな工場で、一人試作に取り組み続けました。そして、模型用小型エンジンの製作は、ここで終わりを告げることになります。

 全く違う世界の分野に飛び込み、職人の気概を持ち続けた真田彰さんは、1990年にこの世を去りました。
 現在、自宅の工場には家財道具等も置かれていて、当時の部品や残った工作機械が混在しています。まだ部品が残っているのか、もしかしたら組み上がったエンジンが存在するのか、さらに見たこともない試作エンジンがあるのか。しかし、近々その工場は取り壊されるそうです。「昭和のサムライ」の足跡が、またひとつ消えて行きます。
 激動の時代を機械加工職人として生き抜いた真田彰さん。単に生活のため、生きるためにだけ模型用エンジンを生産して来たのかもしれません。しかし、製品のひとつひとつに込められた情熱を感じ取った今、「本物の」機械加工職人のもの凄さに、ただ驚くばかりです。
 真田さんの息子さんは、現在53才で不動産会社に勤務しています。機械加工はもちろん、大学を卒業してから模型用エンジンには携わっていませんが、今回実家からいくつかのエンジンをみつけました。それが前出の「まぼろしのエンジンたち」なのですが、今後、何とかしてそれらのエンジンを始動してみるそうです。全て試作のような物ですから、場合によっては作動しないかもしれないし、破壊するかもしれません。

 息子さんは、こう語ってくれました。

「学生のころ、父親の仕事を手伝って、私も試運転をしましたよ。その時は問題なかったので、素人の私にはこのエンジンは良く回るってイメージしかないんですよ。だから、かならずもう一度回してやります。そして今もなお、ハイネスエンジンと格闘しながら飛ばそうと思ってくださる方々が居るなんて、うれしいじゃありませんか!どうもありがとうございます。」

(2007年3月17日)
(2008年7月6日追記)




あとがき