誰も知らない話 第8話


自分がどうなったのかわからない。あれほど感じていた体の痛みが
いつしか感じられなくなっていた。
ふと気がつけば知らないところにいる。
真っ暗でただ緑色の光の束が行きつ戻りつ、川のように流れている場所だ。
これは何だろう。そもそも今何か考えているこの意識は自分なのか、
仮に自分なのだとしてその自分とは一体誰なのだろう。
もうわからない、何もかもがわからない。ここはどこで、自分は誰なのか。

助けて欲しい、でも誰に。ああ、またわからない。

緑色の光は止まることなく流れている。
その中から急に誰かが目の前に現れた。
誰、と声にならない声で問いかけてみる。
現れたのは自分と同じように長い銀髪、不思議な青い光を湛えた瞳の青年だ。
青年は問いに答えずに不気味な笑みを浮かべてこっちに手を差し伸べた、
こちらへ来い、と言っているかのように。
行かねばならない、そう思ってその手を取ろうとした。
だが青年の指先に触れた途端、頭のてっぺんから
足の先まで何ともいえない恐怖が走った。

嫌だ、怖い。やっぱりダメだ。

だが青年は不気味な笑みを更に深くして手を強引に掴み、
緑色の流れに引きずり込もうとする。
流れの向こうにもう一つ巨大な影が見えた。
まがまがしい力を持った何かだ。
それもまた恐ろしい笑みを浮かべてこっちを見ている。
さあ、早くこちらへ来い。そう言っているのがわかった。
だけど行ってしまったら、どうなる。

嫌だ、行きたくない、助けて。助けて、…。

誰を呼ぼうとしていたのかわからない、でも気づけば誰かを呼んでいた。

「…っ、…っ。」

誰かの声が遠くで聞こえてきた。悲痛な声だ、まるで大切なものを
持っていかれそうになっているかのような。

っ、っ。」

今度ははっきり聞こえた。、それは誰。

「あかんで、絶対そっち行ったらあかんよ。」

わかっている、行きたくない。
でも向こうが引っ張ってくる、どうしても離してくれない。
怖い、どうしよう。

「大丈夫やで、私がおるから。」

急に体が温かくなった気がした。
突如、暗かった空間に光が差し込み始める。
自分を引きずり込もうとしていた青年が眩しそうに顔を歪めた。
流れの向こうの何かも少しずつ姿を消していく。
やがて何かは完全に消え、青年も手を離して流れの中へ去っていく。

今は退こう、だがいずれまた来る。

青年がそう言ったような気がした。
行かないよ、と答えた。
そっちはあたしのいるべきところじゃない。

。」

向こうで誰かが呼んでいる。誰だっただろう、ああ、そうか。

。」

は呟いた。瞬間、光が差し込んだ空間が音もなく完全に崩壊する。
目が覚めたら、の腕の中にいた。

、良かったぁっ。」
。」
「もう、この子はっ。どないなるかと思ったやないのっ。」

を思い切り抱きしめてわぁわぁと泣き出した。
何がどうなったのかはっきりしないはしばらくきょとんとしていたが
が体中傷だらけで血を流していることに気がついてはっとする。

っ、その怪我。あたし、どうなってたのっ。」
「暴走していた。」

ボソリと呟いたのはヴィンセントだった。

「何がきっかけかは知らんが、戦いの最中急に我を失っていた。
 恐らくお前の体内のジェノバ細胞が急激に増殖してたのだろう。
 私では引き戻してやれなくてクラウドとプロフェッサーに連絡を取って、
 今やっと納まったところだ。」

そういえば、向こうでクラウドがむっつりとした顔をして佇んでいる。
まったく面倒ばかりだと言わんばかりだった。

「ホンマに良かったわぁ。」

傷だらけの体でひどく喘ぎながらが言う。

、」

ひどい怪我でボロボロのの姿にはたまらず涙を流した。
また自分のせいでがひどい目にあった。
は自分の身を挺して守ってくれたのに、自分は何も出来ていない。
をこんなにしたのは自分のせいだ。

「御免なさいっ。あたしのせいで、あたしのせいで、が…」
「阿呆なこと言いな。」

は穏やかに言った。

「大事な娘守るのに、頑張らんでどないすんの。」

そんな風にがどこまでも優しいものだから、
は余計に涙が止まらなくなってわぁわぁと子供のように泣きじゃくった。

ッ、ッ。」
「はいはい、ここにおるで。」
「大好きだよっ。」
「知っとうから。」

の手がの頭を撫ぜた。はそのまま泣き続けた。



が暴走したという知らせを聞いたのは、エッジまで
後もう半分の道のり、という所だった。
クラウドの携帯電話に電話が入った為にバイクが止まったのである。
当然、クラウド本人が電話に出たので始めは何の話をしているのかわからず
はバイクの後ろでとりあえずこの青年が受け答えしているのを
聞いていたのだが、クラウドが何だって、という反応を示していたので
何か良からぬことがあったのに気がついたのだ。

、まずいことになった。」

電話を切ってからクラウドが言った。

「どないしたん。」
「ヴィンセントから連絡が入った。が、」
が、どないしたん。見つかってもたんか。」
「もっと悪い。」

クラウドが首を振りながら言うので、は顔から血の気が引くのを感じた。

「まさか、」
「暴走したそうだ。ヴィンセントが今止めようとしてるが、
 正直うまく行きそうにないらしい。どうする。」

どうするもこうするもない、の思うところはただ一つ。

とヴィンセントさんがどこにおるかわかる。」
「現在位置は聞いている。」
「連れてって。追加距離分の料金は私が払うから。」

レノの月給を削ったるのも何やしな、と付け加える
クラウドが正気か、と呟いた。
相当に信じられなかったのだろう。

はもうじゃなくなってる。アンタでも止められるかどうかわからない、
 死にに行くつもりなのか。」
「クラウド、」

は強く言った。
一刻の猶予もない時に妙なことを言い出さないで欲しいものだ。

「もしティファちゃんが同じようなことになってたらアンタ、見捨てていくんか。」

この例えはクラウドには効果覿面(てきめん)だったらしい。
彼はわかった、と呟くとバイクのアクセルを踏んだ。
再びを載せたバイクは高速で走り出す。
は気が気でなかった。いつかはこういう日が来るのでは、
とは思っていたのだ。
しかしあまりに早すぎる。

『プロフェッサー、事は重大だ、あれを放置しておくのは危険すぎる。
 世界を再び危機に陥れる可能性があるものを貴方のエゴだけで
 かくまうのはどうなのかな。』

ヒーリンでのルーファウスの言葉を思い出して一瞬ぞっとしたが、
はふるふると首を振った。
そんなことはさせない、星を危機にさらさせはしないし、
だって始末させない。
だがその前にどうか、祈るように彼女は内心呟いた。

まだヴィンセントさんがあの子に(とど)めを刺してませんように。

現地に着いたとクラウドを待っていたのは、
まがまがしい姿に変貌してしまった
まるでそれに取り込まれてしまったかのようなヴィンセントの姿だった。
既に暴走は相当のレベルまで進行してしまっているらしい。
の背中からは骨肉の翼が広がり、腕といわず顔といわず
血管が醜く盛り上がっている。
その瞳には恐ろしい光はあっても自我がなかった。
ヴィンセントはそんなを片方の腕に抱きかかえて、もう片方には銃を握っている。
多分最早これまで、とに引導を渡すつもりだったのだろうが、
その腕は何か触手の様なもの―よく見ればの髪だった―に絡めとられて
動きが取れない状態になっていた。
しかもその髪自体が硬質化して武器となり、既に幾つかの房が
ヴィンセントの体を貫いている。

ッ。」

はクラウドがバイクを止めると同時に飛び降りた。
背後からクラウドが迂闊に近づくな、と声を上げるが
取り合うつもりなどない。
高速での側に駆け寄る。

「ヴィンセントさんっ。」

動きが取れず仕舞いのヴィンセントに声をかける。

「プロフェッサー、近づくな。」

もがきながら呻くようにヴィンセントが言った。
かなりの痛手を負っているらしい。

「完全に己を失っている。おそらく何を言っても聞こえてはいない。」
「ヴィンセントさん、どいてください、出るの手伝いますから。」
「人の話を聞いていたのか。お前のこともわかってはいないぞ、
 わざわざ殺されにきたのか。」
「私は死なへんし、も死なせる気はありません。ええからどいてっ。」

は先輩の言葉を完全に無視して、彼を拘束から解きにかかった。
かなり固い拘束だ、生物学的に考えてどうやったら髪の毛がこうなるのかと
思うくらいおかしな変化をしている。
ヴィンセントには悪い、と思ったが彼の体を貫いている分は
力任せに引き抜くしかない。
若気の至りで手に入れた力を最大に込めて
武器と化した髪の房を掴み、強引に引っ張った。
無理なことをしているせいでヴィンセントが何度か苦悶の呻きをあげる。
もうちょっと我慢してくれ、と頼んでは更に作業を続けた。
とうとうも邪魔者と見なしたのか、の他の髪がこちらに向かってくる。
いく房かが彼女の頬や肩を掠めた。

まだ大丈夫や、とは思った。
もしが正真正銘ジェノバ細胞に意識を取られているのなら、
とっくにヴィンセントの心臓を髪で一突きにしている所だろう。
それに自分だって既に急所を貫かれているはずだ。

希望はまだある。そう思うと更に力が沸いてくる気がした。

「よっしゃっ。」

しばらくの格闘の後、とうとうはヴィンセントを解き放ち、
その体をクラウドがいる方向に押し出す。

「後は私がやります。」
「無茶だ、よせっ。」

ヴィンセントが珍しく声を上げる。
言われるのも無理はない、現時点での体はあちこちから出血を起こしていた。
だがは聞き入れる気はまったくない。
は自分が戻す。何故なら自分がの…。

「クラウド、ヴィンセントさん見といて。」

バスターソードの柄に手をかけたまま待機していたクラウドに
そう告げては更に暴走するの懐に飛び込んだ。
そのまま彼女はを抱きしめる。
肩に激痛が走った。見ればの髪に貫かれている。
次は左腕、これもかなりの痛みだ。
向こうでヴィンセントが戻ってこいと叫んでいる。
クラウドがバスターソードを半分抜きかけている。
それでもを離さない。

、」

は愛おしそうに呼びかけた。

「戻っといで。そっちに行っても何もないで。」

また髪の毛がを刺した。やはり急所は外している。
の翼はビキビキと音を立てて時折揺れている。
それは急にを包み込んだ。の腕は今は動いていなかったが
まるで腕の代わりに差し伸べているかのようにには思えた。
一方で髪の毛に刺されてばかりで激痛が体中をめぐっていたのだが。

ッ、お願いやから戻ってきてっ。」

は叫んだ。の翼がますます固く、を抱きしめてきた。
その行動がこの子は助けを求めている、とに確信させる。
またの髪の毛がの体を貫いた。見れば右の二の腕がやられている。

っ、っ。」

再びは名を叫ぶ。
早く目を覚まして欲しい、そういう思いが籠もった その声はあまりに悲痛に響く。
の髪の毛が今度はの太腿を貫いた。
痛みが増しては悲鳴を上げそうになったが何とか我慢する。
今、うっかり声を上げたらが戻らなくなりそうな気がした。

「あかんで、絶対そっち行ったらあかんよ。」

の言葉にの翼がわずかに動いた。
これで通じている、と考えるのは本来科学者としては短絡的だろう。
だが今のは科学者としての思考よりも
普通の人間としての思考の方が勝っていた。
寧ろ母親としての思考に近かったのかもしれない。
翼がまたを抱きしめた。

「大丈夫やで、私がおるから。」

には聞こえている、と完全に信じては最後にそう言った。
の髪がまたを襲う。次突かれたらもう体がもたへんな、
は ちらと考えた。

。」

最後の呟きが漏れると同時に、に向かっていたの髪は力を失った。
彼女を貫いていた他の髪の房も急に硬質化が解かれ、元の弾力を取り戻す。
同時にを包んでいたの翼がどんどん収縮を始めた。
メキメキと音を立て、それはまるで巻き戻しのようにの背中へと戻っていく。
やった、とは思った。
見れば、傍で見ていたヴィンセントとクラウドも驚きの表情を隠しきれていない。
翼がとうとう完全に姿を消した頃、は目を覚ました。
を抱きしめたまま声を上げて泣いた。
も泣きじゃくって、何度も許しを請う。
が、ははなからを責める気などなかった。
を責める必要などどこにもないとわかっていたから。

しばらく泣きじゃくっていたはやっと落ち着いた。
はそんな娘の手を取って言った。

、帰ろか。」
「うん。」

が子供のように頷いた。



ヴィンセントは一連の出来事を信じられない思いで見つめていた。

「暴走を止めた、馬鹿な。」

の暴走はもう行くところまで行っていた。
止めに入った自分が幾度呼びかけても戻る気配がまるでない。
それどころか本人の望みどおりに引導を渡してやろうとしたら
それすらも阻まれてしまった。
彼女の意識は完全にジェノバ細胞に飲み込まれ、
これまで老いることなく生き長らえた自分も今度ばかりは助からないと
思っていたのにそこへが飛び込んできて事態が一変したのだ。

ヴィンセントの後輩は無茶苦茶だった。
人の話も聞かずにヴィンセントを自由にした挙句、
自分からの懐に飛び込んだ。
ヴィンセントと同じく体中を穴だらけにされても彼女はひるまなかった。
それどころか、その呼びかけにはひどく暖かいものがある。
殺されるかもしれないという瀬戸際とはとても思えない。
何故だろう、傍で聞いていて自分も胸が苦しかった。
忘れていた何かを引っ張り出されたような気分だ。

『私は死なへんし、も死なせる気はありません。』

殺されるつもりか、と言ったヴィンセントにははっきりとそう言っていた。
考えてみればそれは死ぬ覚悟よりも難しい。
自分はそこまで考えたことがなかった。
戻れぬのなら止めを刺すしかない、自分が生き残ることも考えない方がいい。
彼の中ではそれしかなかったのだ。
今まで旅をしてきて何をやっていたのだろうか、とヴィンセントは思った。
からを預かり、守ってやらねばと思っていたはずなのに、
結局自分は最後の最後で逃げたのか。

「所詮私は何も出来ぬということか。」

ヴィンセントは自嘲気味にひとりごちた。
向こうでは体中を穴だらけにされたによって
やっと自我を取り戻したが抱き合って再会を喜び合っている。

「何の為に私は彼女と歩いていたのだろうな。」
「アンタは十分やったんじゃないのか。」

横に居たクラウドが言った。

「アンタがいなかったらは1人ぼっちで旅をしなきゃならなかった。
 1人で、から引き離されて心が空っぽのままだったと思う。
 アンタはの側にいてそんな状態から救ってやった。
 暴走した時も、アンタがいたからまだアレで済んだのかもしれない。」
「今日は随分と饒舌だな。」

ヴィンセントが言うとクラウドは嫌そうな顔をした。

「アンタを棺桶から叩き起こすのは二度とゴメンなんだ。」

ブツブツという仲間にヴィンセントは思わずふ、と笑う。

「そうだな。」

ヴィンセントは呟いた。

「おそらくプロフェッサーが黙ってはいまい。」
「何か言いました。」

丁度聞こえたのだろう、の手を引いてこっちへやってくる。
歩いてくる2人の見た目はどちらもあまり歳が変わらぬはずなのに
まるで母親と娘のようにヴィンセントには見えた。

の母親なら、さしずめアンタは父親かもな。」
「あんな手のかかる娘はこちらから願い下げだ。」

クラウドに言われてヴィンセントはわずかに眉根を寄せた。


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