これの続き wonderwall 掌の水が零れて行く。はだれはだれと──── 自分の呼吸が聞こえる。間近になったり間遠になったりしているが、どちらにしても忙し無くて煩瑣い。額から汗が滴って拭おうと腕を上げるとそれが真朱に染まっているのを見た。 「嗟、冗談じゃない」 呟いた心算だったが、声など聞こえなかった。 荒い、林を渡る風の哭くような呼吸音を聞いただけだった。 背後から脇腹を撃たれたのは憶えている。 どうやら酷く出血しているらしい。 ────あの棺桶から辛々抜け出せたと言うのに、こんな処で終えるのか。 鳥渡笑うと撃たれた箇所が酷く熱せられた。 痛みと熱さの差異が解らない。 何だか頭が朦朧とする。 「全く…」 もっと街中に逃げれば良かっただろうか。 こんな入り組んだ高い木塀続く路地ではなく。思えば追いかけて来る跫音に誘導されていたような気さえもする。向こうは玄人なのだし。否、此方だって玄人だのに、何たる様なのか。 危険を『あの人』の傍に連れてきたくなんか無かったのに。 奉職して三年。周囲からは当然若造、青二才扱いだ。そうでなくとも童顔の所為で「学生」と言われるのに、此の始末だ。死んだら二階級特進。全く────。違う道を選んだ筈だったのに、此処はあの棺桶の続きだったなんて。 「…生きてるかい?」 間遠に声が耳朶に触った。 誰かが、居る。 解っているのに、身動きが取れない。 もしかしたら彼奴が死亡の確認にきたのかもしれない。腕を上げて声の主、多分男だ、の腕を掴んで、その銃を持った手を掴んで捻り上げて…。思考はそう躰を動かそうとするのに、実際には手は空を掻いただけだった。 「無理しないで」 再び聞いた声は彼奴のものではなかった。 ではその手下の者か。 何故かもう一度聞きたいと思った。 その顔を見たいと思った。 どうにかしてその顔だけでも留めを刺す男の顔だけでも拝もうと顔を上げたのだが、男の顔は丁度日輪の中に有って、真黒に焦げて窺えもし無かった。白い開襟だけが一瞬移ってやがて視野は真黒となった。 あの人の声を知らない。一度だけ聞いた。掠れた声だった筈だ。そんな一度きりの声なぞ憶えてなんかいない。 それすら知らずに死ぬのか。 嗚呼、零れて行く────。 もともと此の辺りのシマを仕切る暴力団組織が賭博場で川向こうの三下を殺傷したことに端を発する。隣り合うものが仲が良い訳もなく、元来川向こうとしてはこちらに色目を持っていたのだからそれは抗争突入に至らせるための糸口を与えただけに過ぎなくなっていた。要は因縁をつけられたのだ。殺傷した犯人を引き渡しても、そもそも三下の命が惜しかった訳ではないのだから何も解決しないのだ。 拳銃を持ち出しての一大抗争の話が警察にまで露見したのは一触即発間際だった。兎も角、予備隊の呼び出し申請と共に捜査四課と手隙の刑事部の者が借り出されたのだった。戦場と変わることの無い銃弾の嵐。 追われていると気付いた時に背後からもう一発打たれた。 撃った人間の顔は解らない。 死んだと思ったのだろうか、放置して撃った人間は去っていった。暫く血流や耳鳴りと云った身体の煩瑣な雑音の中で取り残された。其儘死ぬ筈だったのだ。誰かの声が鮮明に届かなければ。 「貫通はしているみたいだ」 誰かの声がする。 小さな声だ。其処まで密密と話すなぞ、如何な内緒ごとなのか。 「だって…放っておけないだろう、」 誰かと話しているようなのだが、会話の半分しか聞こえない。意味が取れない。もしかして独り言なのかとも思ったのだが、薄らと眼を開ければ、視界が滲んでいて物体があるような無いようなとしか思えない。何度か酷く重く感じる瞼を瞬かせるとぼんやりとした視界の中であやふやだった物体じみたものが次第次第に人や壁や柱や天井と形作って行くのを知覚した。 人がいた。 此方に背を向けていた。丸まった細い背がある。尻を黄ばんでささくれだった畳について双つ跫裏が見えた。頭は見えない。背の上に襯衣の襟があって、薄い肩から重そうな黒色の受話器が覗いていた。 「そりゃ浅薄かもしれないけど…でも僕だって撃たれた人の手当くらいできるんだぜ…」 何処かに電話をしているらしい。 薄汚れた天井と其処から下がる電笠に目線を向け、辺りを見回した。散らかった薄汚れた部屋だ。本と紙が乱雑に横に積み重なっていた。 なんでこんな部屋に電話があるのか。不思議に思った。 「化膿止めはあるよ、里村くんが。うん。そう。銃創には詰めたみたいだし。熱?出ているよ。うん、酷い。何云うんだよ生きてるよ!」 生きている…。 生きているのだろうか。 手を持ち上げようとして、腕が酷く重いことに気が付いた。 眼前に持って行くと手が震えていた。 そして腕を薄い敷布団について躰を反転させた。 痛い。 けれども痛点は熱の中に融けて、汗を滲ませた。 咽喉が呻きそうだった。 右腕を着いて、その前に左腕をついて、ゆっくりと蛇のように移動した。 布切れに包まれた丸まった背。 背骨の形がくっきりと浮かび上がっていた。 息を付いた。 怪訝しな気分だった。 脊椎骨を見てそれに熱を憶えるなんて。 否、此の熱は…躰が勝手に発熱している────それではない。解っている。もっと下腹の。もっと根源的な。 こんなに苦しいのに、何故。 その声を一度しか聞いたことが無いのに、何故────。 男だった。 その背は小さくて、まるで女性のように細くて。否、最初から解っていた筈だ。その声が女性で有る筈が無かったのだ。 彼の腰に両腕を伸ばした。腕は鉛のように重い。左右に僅かに開いて、そしてその腰へ廻した。しがみ付いた。 「わ、ちょっと!」 そして其儘躰の下へ敷き込む。 はあ、と呼吸を吐く。 吐息が熱い。 額や鼻の頭…全身に汗をたっぷりと掻いていた。 躰の下へ敷き込んだ男は、目を見開いていた。彼の顔の両脇に腕を着き、腹部に瞬間的に生じた痛みの余韻に参っていると、ゆっくりと瞬きをして頬に指を寄せてきた。 「だい…じょうぶかい?」 目を閉じるのは此方の方だった。 嗚呼、目が熱い。 涙が、出そうだ──── 「い、痛いんだろう?僕は、何もしないよ。大丈夫。だから、寝ていて。ね、」 耳朶に声が触る。知らず、呼吸が上がった。 「大丈夫だから」 そう云われ、躰を再び反転させた。背と畳が接し、音を上げた。 呼吸が上がるのは、彼の所為だ。 自分の荒い呼吸音を聞いていた。 布団が掛けられ、頭の下には枕が引き込まれ、額には濡れた晒が置かれるのにも何も反応は返せなかった。 それでも傍を離れようとする存在の腕を取る。 力なんて籠められなかった。 何かを云いたかった。彼奴らの仲間なのかとか、引き渡す心算かとか、先刻電話していたのは誰なのかとか、熱いよとか、痛いよとか、傍にいてとか。 結局、口も動かせず、記憶が途絶えた。 中禅寺と相談した結果、矢張り旦那に相談するのが一番だと云うことになった。その時、中禅寺は散々関口の軽率な行動を皮肉って誡めた。 怪我人を何故自分の部屋に連れ帰ったのか、と言うことが最大の論点だった。 実際何故なのか解らなかった。遠くで聞こえていた銃の発砲音の所為かもしれない。 彼の幼顔を見た所為かもしれない。 未だ学生のように見えた。 流れ弾にでもあったのだろうか。そう、あの時救えなかった二の舞は嫌だったのだ。 零れて行く命。 救いたいなんて烏滸がましいのは充分承知だ。ただ目の前で人が死ぬことが耐えがたかった。そして自分の命を賭して彼らの身代わりにもなろうとしない、利己が。 「あの時?」 声は上から降り注いで顔を上げると、四角い顔をした男が立っていた。 「木場軍曹」 「………どうかしたのか、関口…否、隊長」 乗ってくれた男は卓子を挟んだ相向いの椅子に腰を降ろした。 上衣は脱いでいた。外を歩き回っていたのだろうか、襯衣に僅かに汗染みが見えた。 「あの時ってなんだ?」 どうやら考え事を口に出していたらしい。 「………」 関口は曖昧に笑んで見せた。成功してはいないだろう。きっと歪つな笑みの筈だ。誤魔化しや偽りと言う行為が関口は苦手なのだ。誰よりも必要な癖に苦手なのだ。 小隊の中で残ったのは此処にいる互い、双人のみだった。掌の中の水が零れるように、人が、部下が死んで行くのを目の当たりにした。 「まあいい。なんだよ、相談て」 午前中に警視庁へ連絡を入れたのだが、木場はいなくて、昼に研究所で資料を整理している所に木場から連絡があったのだ。そうして関口の仕事場に近い喫茶店で落ち合ったのだ。 「うん、此の間此の辺りで凄い発砲事件があっただろう?」 「おう。そうだった。危なかったな、何もなかったか?」 木場が真剣に関口を覗き込んだ。 「吃驚したよ、だって、あんな…音、久しぶりで。聞いたの、」 怖かった────ような気がする。 此処はあの密林の続きなのかと、もし眼前に散る桜の花弁が見えなかったら関口は違っていたかもしれない。 日に曝され灰色を薄くした瀝青に黒い物が転々としていた。 雨でも降り始めたのかと空を見上げれば、快晴で雨雲一つ見えない。 ではこの黒点は天から落ち始めの一滴ではないのだ、と思い、目線を転じれば処所に黒い斑紋が見え、関口は後を追った。 花弁に埋まろうとしているように見えた。 木塀の向こうから道に迫り出すような大きな桜の木があった。 真下に人が黒い水面に身を浸していたのだ。 その身を散ってくる花弁で飾り────。 「人を、拾ったんだ」 「は?」 「…怪我をしていてね…未だ動けなくて、それ所か、一日中、寝ていて。……里村くんが言うには、薬が利いていて、熱が有るからだって云うんだけど、要は治癒で」 「待て」 鼻先に木場の掌が迫った。 「もう少し解るように話してくれ」 「あの、だから…、人を拾ったんだ。たぶん、あの銃撃戦で負傷した人で。誰だかは解らない」身元を表すものは何も身に着けていなかった。 「おい、関口」 「どうしたらいいのか解らなくて、もしかしたら、その…ヤクザかもしれないだろう?」 ヤクザと言う単語を小声で囁いた。 木場の眉が僅かに動いた。 「関口、お前、」 「何だい?」 「…自分が何をしたか解っているのか?」 真直ぐに注視され、関口は瞼を閉じることで肯定の意を示した。 「酷い事件だったんだぜ。…俺の後輩も一人姿が見えなくなっている」 厳しい顔をする木場を関口は凝乎っとみつめた。 「被疑者かもしれないんだぞ。お前、そんな、捜査を撹乱するような真似…」 「うん、それは…申し訳なく思っているよ。でも、見捨てて置けなかったんだ。警察に引き渡すこともしたくなかったんだ」 ではこうして関口が木場に話しているのは、公としてではないということになる。 木場は脣を引き結んだ。 「でも、もう、流石に僕も研究室を休んでばかりも要られなくて」 菌が五つ死んでしまったのだ。あれでは計測できない。 「だから、もう旦那に頼る他」 里村にも先日言われてしまった。何処か大きな病院に移したほうが云いと。関口の部屋に寝具は一組限で、彼に寝床を明け渡した後は関口はささくれた畳の上に寝転がっていたのだ。 疲労も蓄積し、拾った青年の傷は中々恢復も見せていない。そして昨日傷から黄色く濁りどろりとした膿が出たのだ。 これ以上の関口の部屋での養生は無理だといわれた。 警察に引き渡したくなかったのに、今更刑事と言う側面を持つ木場に連絡をするのは余りにも勝手が過ぎることも解っている。 「お前の部屋に行くぜ」 「御免、木場」 「俺に言うな。そいつの恢復と、事件の解決に結びつくことを願うんだな」 「…解決してないのかい?」 「こう云った事件の何処までをして解決っていうかは解らないが、組長の命とった奴がいる」 「え、」 「乗じてって感じだな」 関口が思う以上に奥が深いのだろうか。 不味いことをした…と背筋がぞっと粟立ったが、それでも淋漓と血に染みて目の前で倒れる青年を見捨てては置けなかったのだ。あの密林のようには。 喫茶の支払いは木場が手際よくしてくれた。関口は木場の腕を凝乎っと見た。 関口は木場の手に救われたのだ。 そして本当は、木場の手のように、自分の小隊の人間を救いたかったのだ。 復員してみれば東京は焦土と化していた。そして家族や親戚は根こそぎ奪われていた。戦争に。天涯孤独今更そういわれたとて、出兵するまでの記憶は生々しく、何もかも如何でも良くなっていた。 根無し草。 そんな身分を買う人間もいるのだ。法外の値段での物品、食料の供給に人々は群がった。其処に舗を出す、店と言っても筵に物を並べるくらいだ、的屋同士や警察とのイザコザにどうやら家族も何もかもを無くした人間は丁度良いらしい。 それ以後長く、闇市に出入りした。 途中、特攻上がりのツレを持った。 あの飛ぶ棺桶の中を経験した男は酷く荒み剣呑な目をしていた。他人にもそれ程興味があるようでもなく、此方のことも詮索するような真似は一切なかった。云うなれば奴と組んでいるのは、他の奴らに比べ居心地が良かった。 ある日、そんなツレが出て行った。 暴力に淫蕩する日々を疎ましいとでも思っていたのかは知れない。誰にも邪魔されない放埓な日々。思う様人を殴り、女を犯して、酒を呑んだ。否、あの特攻上がりは酒は苦手だったか。 こんな己等をあるものは侠客などと呼ぶ者もいたが、そんな呼称はまるで自分の股間を弄って愉悦しているようで侮蔑が涌く。 していることと言えば、人を殴って脅えさせ、云う事を聞かせるだけだと言うのに。 終戦から四年後に占領軍から闇市の撤廃命令が出てただのやくざに成りおおした時には、組の中でも手下が随分と増えていた。それ処か、組長に危険視されるまでになっていたのだ。 ツレのことは長いこと忘れていた。 忘れていた名前を思い出させたのは、留置されていた手下の一人が戻ってきた時だった。 労いの酒を与えていると、「そういやあ、驚きましてね」と語りだしたのだ。 慥かに、それはもう────驚いた。 まさか、此方に居た奴が官憲の狗になっているとは思わないだろう? 関口が助けた、否実際には助けた処ではなく彼の命の危機にさえ曝していたのだが、幼顔の男は青木文蔵と云い、姿が見えなくなっていた木場の後輩その人だった。 関口は木場自身から酷く叱られたが、木場は同時に安堵した顔をしていた。最後には有難うとも、感謝をされた。酷く珍しいことだった。日頃頻度の少ない木場からの感謝の言葉は関口を酷く面映いものにさせた。 勿論青木青年はそんな悠長な状態ではなかったのだが。 青木は警察病院に搬送された。警察病院は飯田橋にある。 一度、見舞いに行った。幾度も幾度も病院の前を間誤付きながら野良犬のように歩き回った。終戦の歳から一般に門戸を開かれているので気後れする謂れはまるでなかったのだが、酷い躊躇いがあった。守衛する警官の厳しい視線に曝されながらも漸うと病院に入ってみれば、一切の面会が禁じられていた。 当初、関口は何を見舞いにしていいものか酷く迷った。怪我をしている人間には何がいいだろう?と能弁家の友人に訊いてもみたが、何故だか高い金をだしてバナナを買っていた。南方でバナナの樹を見たことを思い出した。高い位置に撓わに実ったあれは未だ青々とした緑で、甘い香りもしてなかった。 幾許かの寂寥と安堵感を抱えながら、見舞い品だけを預けて病院を後にした。 それが昨日の午前後の話である。 夕方に木場から連絡が入った。 「すまないな、云っておかなくて」 「否…そんな悪くしていたなんて」 「悪い訳じゃなねえんだ」 木場は回線の向こうで少し言い澱んだようだった。 「どうしたんだい?」 「彼奴は刑事部、つまり俺たちの手から離れていた」 「え?」 「四課の預かりになっていた」 「四課?」 関口は警視庁の組織などまるで解らない。 「組織犯罪部の四課だ。お前達の知ってる言葉で云えば、マル暴だ」 自然と眉が寄った。 「…慥かに、彼はあの銃撃戦で撃たれたんだろうけど、どうしてそうなるのさ?」 所謂『不良』刑事、『悪徳』刑事なのだろうか。 警察の情報を漏らしたり押収したものを横流ししたり、其処まで行かないまでも、刑事の中にはそちらとソコソコの線引きの許、情報を提供してもらったりするものもいると聞く。下世話な耳だが。 けれど青年の稚い寝顔を思い出すと到底そうとは思えない。 「────関口、お前青木とあったことあるのか?」 「そりゃ、僕の部屋にいたんだし」 一週間を同じ部屋で過した。 「そうじゃなくてよ、もっと前に」 つまり、此の間血に塗れた青木を拾う前にだ。 「何を云うんだい?知っている訳無いだろう?」 「そうか、それならいい」 「木場!旦那!なんなんだ、君にしちゃ実に歯切れが悪いよ。何があったんだ」 何故だろう、焦燥が募る。そわそわする。彼が自室から連れ出されて行った日から、青木に会いたいと思っていた。 あれだけ傍に居たのに、関口は未だ、彼の声さえも聞いていないのだ。熱に浮かされたあの眸以外。 「青木がいなくなった」 「え、」 「俺に電話してきたんだ。セキグチって云う偽名でな」 「…僕…?」 「諾。俺はお前からの電話だと思って取ったら向こうから酷い息遣いが聞こえてな、青木の声だった」 「そんな、」 「時間が無いのか、彼奴は昔話を掻い摘んでた」 事務の女性から電話を廻された。セキグチと言う人物からだ、と。 「僕で…す」 「っ…お前…」 木場は四辺を見回した。煙草の紫煙で室内は靄がかっていた。花冷えと言うのだろうか、初夏に刺しかかろうというのに今日は気温が著しく下がって、誰も窓を開けようとはしなかったのだ。 誰にも悟られないように声を低めた。 「戻るんだったら颯々と戻って来い。未だ、それ程大きくはならない」 「……すみません……」 何に謝っているのか、掠れた声だった。 「お願いです。関口さんを守って下さい」 「ああ?なんだそりゃ」 「あの人は何もしていない。ただ…僕を拾っただけだ。そうでしょう?だから彼奴の標的になるなんて怪訝しい」 「彼奴?」 回線の向こうで青木が酷く咳き込んだ。 「お前大丈夫なのか?其処何処だ、今行く」 「来ない…で下さい。教えません。お願いで、ん…関口さん、を…」 関口と木場は古い友人ではない。ただあの戦中を共に生きた、生き延びた、突き詰めるならばたぶん誰も関口と木場の間には入り込めないだろう何かを持つ間柄だった。関口を庇って人を撃ったことがある。それがどれだけの意味を持つかは、恐らく関口にしかわからない。逆もまた然りだ。 その関口を、何故青木に守って欲しいと云われなくては成らないのか。 関口を守るには、木場には当たり前のことなのだ。 恐らく、誰よりも──── ならば、此の関口への青木の執着は何なのか。 「お前に言われるまでもねえよ、だから」 「彼奴は、執拗な…ヤ…ツ、な…んです。だから…手を切ったんだ」 唾を飲み込む音が大きい。 「嗟…そうだ、聞きたいことがありました…エノキヅさんと言う人を知ってますか?」 何故青木の口から榎木津の名が出るのか。何を青木は云おうとしているのか。 「知っ…てますか?」 「諾、」 「綺…麗な人で」 「人形みてえな面はしてるな。…俺の昔馴染みだ。関口の学生時代の上級でもある」 はは、と青木は笑った。辛そうに。 「木場さんの昔馴染み?」 「不本意だがな」 「僕は彼を調べるのに必死だったのに。全く」 こんな近くに答えが有るなんて。 「なんでだ?」 「警察の…試験を受ける前に、闇屋の手伝いを…していたことがある…ん…です」 「…あお…お前っ」 「誰にも云ったことはありません。当時、どうしたらいいのか解らなかった。彼処は居心地が良かった。誰もが荒んだ目をしていて」 終戦ののち、どうしたいいのかなんて解らなかった。密林を逃げ惑った記憶のある木場にもそれは同様のことだった。木場は職業軍人として生きる心算だったのだ。だから自分が描いていたものも職業も国家の敗北の前に凡てを失った。 「闇屋なんて、行き着いただけの処だった。あとで知ったんですが彼処は関東牛沢の領域だったらしい。僕はそこで一人の男と組んでいた」 剣呑とした目で酷く荒んでいた。 「危ない奴だと解って…ましたが、当時、行く当て…も無かった」 当然地元に帰ることも考えなかった。 「……気を失って…るあの人を拾ったこ…とがあった…」 驚いた。 それは初耳だった。 青木は当時青線地帯だった土地名を上げた。 「…迎えに来たのは、エノキ…ヅさんだった…」 そして、 その闇屋はいけないね。君には向かないよ。別の仕事を探しなさい──── と云われたのだ。 関口を抱えられている腕が酷く嫉ましかった。 独白を聞いて、木場は眩暈がした。 「お前…関口のこと…?」 「………」 沈黙こそが答えだった。 「だから、守って…」 下さい────と言うそれに覆いかぶさるように銃声が遠方に聞こえた。同時に通話が途絶える。 どうか──── 「木場…」 眩暈がする。目の前で死んだ部下の幻影が浮かぶほどに。 「青木くんは、その関東牛沢組の誰かに?」 「たぶん、な」 警察病院の中で何かしらの接触があったのだ。あんな酷い怪我で、何処かに逃げたというのだろうか。 受話器からではなく、若い木場の叱咤が聞こえる。 「旦那…」 「関口、お前思い出せないか?」 「え、」 「彼奴と…出会ったところだよ」 「……なんで?」 電話を切った。 空が泥んでいる。暮色に。 関口は白衣を脱いだ。生憎と昔のことを事細かに覚えてはいない。健忘さんと綽名を進呈されるほどなのだ。ならば、嫌味なほど物覚えの良い人物の処へ行くべきだろう。 そして、薄らと記憶の端に浮かぶ何かを照合するのだ。 「若い野郎の感傷なんて知れてるだろう?」 木場の言葉が耳の中を木霊している。 何処で、出会っていたのだろう?そして何故再び青木と会ったのだろう。 否、偶然ではない筈だ。 「青木くん」 零れて行く。はだれはだれと。 「そんなの…嫌だ」 売春防止法により、江戸時代以降続いてきた公娼制が完全に否定された。それにより私娼窟であった街の存在も否定された。青線地帯の幾つかは既にその顔を様変わりさせていた。そう、言うなれば寂れたのだ。 カウンタの内側から水音が聞こえていた。 高く埃が積もった店内、否もう店ではない、に跫を踏み入れる。水音が細くなり、消えた。 誰かがカウンタの向こうからこちらの気配をそっと窺っている。 良かった──── 目が熱い。 顔面が震える。そして口がぐにぐにと動いて歪んだ。 「あ、アオキ、くん────」 呼びかけた。 次いで、カウンタの向こうで音がした。 空気が澱のように重なっているような気がする。 店内の空気はあの時からずっと留まって、ただ堆積して、そして二人が会うのを待っていたように。 それ以上、物音が止まった。動けないのかもしれない。 行ってやらなければ。 床に積もった埃に靴の底の痕跡が着いた。 カウンタの扉を開け、目線を下降させた。 影となった暗がりに、人が横たわっていた。狭いので、カウンタの化粧板の裏側に頸を持たせ、床に背を着き脚は膝を曲げていた。 そして目を瞠いた。 「セキグチ、さん────」 「…漸く、やっと会えたね、青木くん」 関口は青木に寄ってその傍らに膝を着いた。青木は此の季節に似つかわしくない外套を着込んでいた。何処かで調達したのだろう。その腹部が色を濃くしている。 あの日、撃たれた箇所だ。 「なんで、来たんです?」 「僕の知り合いに酷く物覚えの良い奴がいてね」 「エノキヅさんですか?」 間髪を入れない、青木の言葉に関口は少しだけ笑った。 「否、榎さん、榎木津は人の名前さえ憶えないよ。そいつは、中禅寺と言うんだ」 「チュウゼン…?」 記憶に有る…『中禅』だ。関口の腕に電話番号があった。 「其処の堀内先生を訊ねて、此処を聞いたんだ」 角にあった堀内医院は若先生が継いだ後、既に移転され、今は隠居の大先生がいるのみだった。 「関口さん────!」 「青木くん、」 「なんで…来たんです?僕がここに入ったことを彼奴は見ているっ!」 痛んだのか、青木は顔を盛大に顰めた。 「そう。だからもう出て行けない」 関口は青木の蒼褪めた頬を両手で覆った。 そして顔を近付ける。 青木の熱い呼吸が脣に触れて、その根源へ寄せた。 離れて、目を開けると青木の目が何かに怯える様に潤んでいた。 襟首を掴まれる。 そして曳き降ろされた。 脣がぶつかって、青木の口が大胆に関口の脣を啄むと、熱い舌が入ってきた。関口をより引き寄せる。引き抜かれるように舌が絡まる。 「………ん…」 関口は青木の肩の両脇に手を着いて、覆いかぶさるような体勢になった。脣を離し、お互いの眸を見ると再び脣を合わせた。 会った時はお互い殆ど意識が無かった。 話しても居ない。 関口が青木に掛けた言葉なぞは、手負いの犬猫を安心させるような「大丈夫」と言う気休めでしかない。けれど、何故なのだろう。何故こんなに胸が熱くなるのか。彼と共に在りたいと思うのか。 執拗に貪られる。濡れた音がする。 「ぅ……ん……」 もう一度角度をずらして口を合わせる。貪る、と言う表現が一番適切だ。必死に。舌を絡めて二人の唾液が絡み合う。 「ん」 脣が離れる。 「なんで僕を助けたんですか?」 「……解らない…」 呼吸が荒い。怪我をしているのに、口付けをしたからだ。 「…ン、」 また互いに脣を啄んだ。互いの消化器官と呼吸器官の末端は唾液に濡れて照っている。 「あの頃、人をたすけようなんてこれっぽっちも考えたことは無かった。人の生き死ぬなんて、如何でも良かった」 でも、と言って関口の口を啄む。 青木の何処も彼処も外界に触れている皮膚は冷たいのに、彼の口の中は熱かった。生きている────。 「関口さんを…医者に連れて行って、エノキヅさんがあんたを…腕に抱いて。酷く、悔し、かった。何故僕はそう…出来ないのかって」 青木の手が伸びて関口の後頭部を抱いた。 互いの頬が擦り合う。 「なんで此処に来たんです…!」 「青木くん」 「あなたには…生きていて欲し…かったのに、」 病院に彼奴が訪れた時酷く驚いた。 況して、面会謝絶の筈だったのに。同時に四課の何処かに綻びがあるのだと気付いた。 相変わらず、荒んだ剣呑な眼をしていた。否、遥かに深淵を潜って、尚昏かった。 彼奴にはきっと居なかったのだ。 「ずっと…僕にはあなたが救世主だった」 「────は?」 青木の肩が震えた。笑ったのだろうか。そして手を緩められ、関口と青木は鼻先を付き合わせた。中々焦点を結べないほどに互いの顔が近い。 「救世主…違うな、救世主だ」 「救世、主…?」 「そう。関口さんがいたから、あの汚濁に似た彷徨いを抜け出せた。否、あなたを抱くにはあんな剣呑な眼ではいられないと」 榎木津の眸はとても美しかったのだ。 手が離れ、関口とは逆方向へ身を捩って酷い咳をした。 「青木くん?」 「せ、関口さんは?」 肩で呼吸をしていた。 「何故僕を助けたんです?」 「僕は南方に居た。戦時中。掌中の水が零れ落つるように人が死んだ。もう────死なせたくなかった。もう誰も………君を、死なせたくなかったんだ」 青木が関口の頬を撫ぜた。 「もし、僕を拾ったことが偶然でなかったら?恨みますか?」 「何故?」 「このまま────一緒に死ぬかもしれない」 関口は一瞬表情を消してすぐにほんの僅かに微笑んで、青木の脣を吸った。白熱灯の様な音があがる。頸を緩く振った。 「君と会えた」 「……っと…あなたを見ていた。あなたが何処に住んでいて、何処に勤めているのか知っていた。あの日、銃撃さ…れて、せめてあなたの傍で…死にたいと思ったんだ」 だから、あの状態では長い道のりを、歩いたのだ。 一歩でも傍に行こうと。彼奴が後を追ってきたことだけが予定外だった。関口に近づける心算はなかったのに。 外套に沁みる血の範囲が広がっている。 「あなたが終着点だったんだ」 もう何もいらない。もう満足だ。 彼奴があの頃の儘なら、彼奴を見捨てた、己が行くべきだろう。 見捨てた心算も無かった。ただあの頃の己は関口との一件があって、一縷の光明が道を照らしたのだ。 何故彼奴に共に行こうとは云えなかったのか。 否、思いつきもしなかった。 けれどそうしたことにより、彼奴があの頃のまま汚濁のような彷徨いの中に居るのなら。 行くべきなのだ。 「関口さん、は…此処に居てください。銃声がしているから、きっと、警察も傍に居るでしょう。此処に居れば、きっと貴方は救い出される」 「青木くん!」 足元がまるで雲を踏むようだった。 「行かせて────下さい」 どくりと、腹から血が沸く。 「…死にませんよ、貴方と未だしてもいないのに、」 言う声は掠れていた。 青木は右手を拳の形に作ると体重を乗せて関口の鳩尾に放り込んだ。 蛙が潰れるような怪音を関口は漏らした。 嗚呼────話したいことが沢山有る。 関口にも、彼奴にも。 目の前が霞む。カウンタの扉を開け、そして店の戸を目指す。 あと数歩だ。 いつのまにか泥んだのか。四辺は薄暗い。 嗚呼────、 08/12/08 青関でwonderwall。oasisの曲から。(…すみません…!) 京極じゃないですね。すみません。ええ解っているんです。でもどうしても青関で書きたかったんです許してください。 時代的に間違っている辺りがありますが、お目溢し下さい。 |