角を曲がると何かを踏んだ。見ればそれは人の手で、慌てて足を退けて手からその先をみれば、泥に塗れた人の躰があった。昼間に零った雨の泥濘みに頬を浸していた。
「おい、あんた大丈夫か?」
仰向けにして頬を叩いてみる。唇の端は切れて血の痕が見えた。
「仕方ないな…」
小柄な男を担ぎ上げて近くの馴染みへ運び込んだ。
「はぁい。いらぁっしゃいまっせェって…何やってんの?」
歓迎の言葉と共に厚く塗った紅の狭間から紫煙が燻った。
「悪い。此れちょっといいか?」
偶々客が掃けた時分で、少し酔いが廻った目をした中年の女主人は顎で奥の長椅子を指し示した。
「あと、濡れた手拭い呉れよ」
椅子に下ろすと、カウンタに手拭いを取りに行く。
「どうしたのぅ、青木ちゃん」
「その呼び方辞めろよ」
「じゃあ、『文ちゃん』?」
「それも却下」
「はい、手拭い。っていうかさあ、あれ?どうしたの?」
「其処で拾った」
「なんだ、恋人かと思った」
「男だぞ?」
新宿や四谷じゃあるまいに。
「関係無いでしょ。文ちゃんが何処かで遣りたい放題したんじゃないかなあとか思ったのにぃ」
「莫迦か、」
「馬鹿は文ちゃんでしょう?何時まであんな闇屋なんか手伝ってんのよ。アイツ性質悪いのよぅ」
「今日日俺なんかみたいのは余程馴染むぜ」
「はあ、何それ。あ、『特攻崩れ』って奴?」
青木は女主人の言葉を無視して、濡れた手拭いを男の顔に宛がった。
男の長い髪を手で上げて額や腫れた頬をそっと拭った。閉じた瞼の睫毛は長い。髭を当たった時に出来たのか、薄い剃刀痕があった。細い頸部と項を拭って、襤褸襤褸のシャツの釦を外す。眉を潜めた。女主人の言ではないがそれは明らかに情痕だった。否、それだけではなく数多の傷痕が。
「角の医者開いてたっけ?」
「堀口先生?ああ、うん。だってほらあすこは深夜営業じゃない?」
夜の女たちや、酒の上のイザコザで駆け込むのだ。どんな闇屋もやくざも堀口医院には手を出さない。宛らアジール的存在だった。
「どうったのよぅ」
「この人の傷が酷えから」
「あ、やっぱねえ」
袖をめくると生白い皮膚が覗いた。そして古い傷から新しい傷まで様々に彩られていた。能く見ると、何か文字のようなものが見える。墨だろうか。良く洗った後でも墨痕は残るのだ。
「ちゅう…禅…?」
その二文字に続いて数字の羅列があった。電話番号であろうか。
兎も角再び青木は襤褸襤褸の男を抱え上げた。
「世話掛けたな」
青木は再び男を担ぎ上げた。扉が開き、客が入ってくる。女主人は咥えていた紙巻を潰して、水を持ち客の傍へ行く。
その脇をすり抜けるように出て行こうとして青木が足を止めた。
「あのさ、」
「なぁに?」
「その『特攻崩れ』って奴何処から訊いた?」
「あの闇屋から。──────本当なの?」
自嘲にも似た笑みを青木は口端に刻む。
「慥かに奴は性質が悪いな」
そして軽く右手を上げて、青木は店を出て行った。

「大先生、どうですか?」
青木は診察台の上に殆ど裸にされた男を老医師の背中越しに覗き込んだ。
「酷いよ、」
「諾、矢っ張り」
「無理矢理だねえ。ほら、臀部のとこ裂けているし。未だ精液も残ってる。こんな風に十時から二時の辺りに疵があるのは強姦の証だよ。倅が奥にいるから呼んできてくれないか?」
「若先生ですか?」
「ああ、一度水洗いせんとな。治療はそれからだ」
老医師に言われるがままに彼が奥と呼ぶ母屋から未だ若く躰つきの良い男をつれてきた。老医師の息子であるこの男もまた医者であり帝大の医学部を出たと聞くが真相は知れない。
老医師は彼に男の洗浄を頼み、青木に背を向けてカルテを作る。
「先生、電話借りて好いですか?」
「どうした?」
老医師は一向に此方に目を呉れない。
「あの人の腕に電話番号らしきものが書いてあったんで…ちょっと連絡を」
「そういうことならな。廊下にあるから」
万年筆で電話の在り処の大体の所在を示して、老医師は再び独逸語を走らせた。


『中禅』宅の電話に出たのは女性で、青木が用件を告げると非常に恐縮したような物言いで此方の住所を訊いた。


数時間後フォードに乗って現れたのはまるでこれから夜会にでも繰り出そうかとするような紳士の恰好をした背の高い男だった。 明るい頭髪と目の色をした、美形である。
青木を見るなり「ふーん、君が助けたんだね、」と独り言のように云って、寝台の上で治療を終え浴衣を着た男へ近付いた。
「せきくん、帰るぞ」
男は、寝台の上の男を「せきくん」と呼びかけた。
すると先までまるで意識が無かったのに、薄らと目を開ける。
長い睫毛が震えて、大きな瞳を剥いた。
「えの、さん?」
「何があったかは…憶えているね?」
せきは紙のように蒼褪めた顔で頷いた。
そしてせきの浴衣の袖を捲って両の肘の内側と肩を繁々と点検した。
「ピロポンは使われてないようだが」
老医師が言った。
そして『えの』と呼ばれた男はせきに自分の上衣を掛けて抱え上げた。
「君小芥子くん、そしてお医者さん、ご迷惑をおかけしました。此の猿には能く言い聞かせますから」
せきはえのの肩に頭を預けて目を瞑った。
「ああ、きみ、小芥子くん」
どうやら、小芥子とは青木のことを指しているようだ。
青木は頸を傾げる。
「その闇屋はいけないね。君には向かないよ。別の仕事を探しなさい。ああ、お医者さんこれは御代」
そういって男は颯然と風のように去っていった。
「御代は頂いたから君も帰りなさい。そろそろ患者が詰まってくるからね」
「ああ、はい。失礼します…」
「…未だ独立には遠いのかねえ」
老医師はカルテを書き付けつつ独り言のように云い、矢張り出て行く青木を一瞥もしなかった。






関口と青木の出会い編。
総一郎さんとこの店から出たらボーイに乱暴された関口くん。
青木くんがそれを看護し、中禅寺に通報したのに何故か榎木津が迎えに来る。
と言う話。