Gnossienne No.6 




 冷たい雫が口唇に触れた。仏が歩いた後に蓮が咲くように、雫が触れた箇所はその冷ややかな温度が認識され、花が綻ぶ感覚を受けた。
「佛なんかじゃない、あれは─────」
弟だ─────
街の木々は既に葉を落としていた。外套に身を包み、寒風の中を行く。今日なぞは襟巻きも必要だったかもしれない。外套の襟を立て、今朝に視た夢を反芻しては関口は呟いた。
いつまでも榎木津の這い回る感触が拭えずにいるのか、また弟の夢を視た。否、性的なもの凡てに弟の影が付き纏った。
「何が弟なんだい?」
頭の上から声が掛り見上げると其処に中禅寺がいたのは、その道が本屋への道程だったからだろう。人通りの激しい往来の中で二人は跫を止めた。
「注文していた本を取りに本屋に向かうところのんだ。……なんだか久しぶりだね、」
関口は笑おうとしたが如何にもぎこちなく、目を合わせられなかった。
「君が榎木津の処へ入り浸っているからだろう?」
ぞわりと背筋が粟立った。
「き、君が本屋通いをしている所為だと思うよ。最近は神奈川くんだりまでだろう?」
「慥かに通い詰めてはいるがね。良い書肆がいるんだよ。目利きでね、ああいう人に会うのなら遠征など苦にもならない。西洋諸事情に詳しい人でもあるし、矢張り話が面白い。自分の知らない知識に出遭うのは心地良いもんだね。円盤レコード集めの趣味もある。君と気が合うかもしれないな、」
円盤と聞いて、関口は少しその書肆にそそられた。
「………そうだ、此の間、千鶴子がこちらに来てね、君が謝っていたと言ったら、気にしなくても良いと伝えてくれと云われた」
「……チズコさん?」
胃壁が収縮するようだった。最近中禅寺の姿が無かったのは、本屋通いだけでは無かったのか。
「妹が暫く此方に来ていて彼女は迎えに来たんだ」
「ああ…アツコちゃんと言った?」
妹の名は幾度か話に聞いたことがあった。
「そう。アツコだ。君にしては珍しく覚えが良いじゃないか」
それは中禅寺に関わりがある事柄だからだ。
「御転婆というよりもあれはじゃじゃ馬だな」
中禅寺は鼻を鳴らした。
「千鶴子にも迷惑をかけてしまったと思うよ。態々京都から迎えになど。敦子一人で帰らせようとしたら、幼い娘で危ないと、向こうの親に捲くし立てられたのだから仕様が無い」
いつか義理の親になる人々だからか────
「き、君もう帰るんだろう?僕は、本屋に取り寄せてもらった物を取りに行くから」
颯々と話を切り上げようとして、跫を踏み出すと、腕を取られた。
「待てよ。────聞きたいことがあったんだ、関口くん」
「え、」
振り返ると、中禅寺の薄い唇が見えて目を逸らした。横を通る人の肩に鼻先が触れ、その人が振り返ったので、関口は小さく頭を下げた。
「君に────纏わる噂だ、」
「僕の噂?」
頸を傾げた。
関口はそうしたものに酷く疎い。大概噂も七十五日も経った頃に入荷される始末で中禅寺にそれを問えば、実に噂の発生から経緯、その最終形態までを饒舌に事細かに語ってみせてしまうほどなのだ。
「そんなの、寮に戻ってからでも良いだろう?」
「否、寮じゃ鳥渡具合が悪い」
「なんで?」
「壁に耳あり、障子に目ありと言うだろ」
関口はまた頸を傾いだ。
「僕も噂を聞いたばかりなんだ。でも流石に捨て置くには、些か過激でね。七十五日も放置しているのも気が引ける」
「中禅寺。何だよ、はっきり言えよ」
苦しそうに詰襟を人差し指で外側へ引き、少し吐息して中禅寺は鋭く関口を一瞥した。
「僕が最初に聞いた相手は藤牧さんだった」
「藤野先輩?」
眼鏡を掛けた朴訥とした、一学年上級の理系の秀才である。
「…それで?」
「君と榎木津のことだ」
躰から─────血が音を発てて退いて行く。
心臓と脈が肥大化したように、心音が鳴り響いた。
「僕と、榎木津先輩が……」
彼にしては珍しく、中禅寺は言い淀んだ。逡巡しているようだった。彼が語ることを辞めて「何でもない」と言ってくれることを只管に祈った。
けれど─────
「榎木津礼二郎と、関口は閨を共にする仲だ、と」
「………」
中禅寺は言葉を続けず、関口を熟視していた。
先刻、中禅寺は関口が「榎木津の許へ入り浸って、」と言っていた。あれは、此の噂を受けてのことだったのか。
眩暈がした。
足許が湾曲し、四辺が旋回する。
「し失敬だな、た、慥かに榎木津先輩には良くして貰っている。君も知っているだろう?大概先輩には揶揄われるばかりだ。だからって────」
「………信じて良いんだな」
眼前が閃光に真白に染まる。
目が眩んだ。
躰が震える。
苛立ちと怒りが縄を結う─────
「僕に…僕に榎木津を紹介したのは君だろうっ!…それだけじゃない、あの時だって、あの夏の日だって…僕を榎木津に託したのは君じゃないか!」
あの時、関口ではなく、千鶴子をとった─────
「信じるって…君が…君は…自分のことは棚に上げて、僕に興味の一分も無いくせにっっ」
声を荒げた。往来を行く人々が視線を関口と中禅寺に向けた。
「おい、関口」
中禅寺が袖を掴むとそれを振り払った。
「触るな!」
此の男にしては珍しく白地に驚いた顔をしていた。
「君はなんだかんだと色々考えて喋り捲くる癖に、僕が本当に欲しいものなんて考えたことも無いだろう!求めているものなんて」
開いた関口の口を後ろから覆われた。
「関口、往来で何やってる」
背後へ向けると、鳶色の頭髪が陽光を浴びて金色に見えている榎木津が立っていた。
榎木津は鳥渡屈み、関口の腰辺りへ両腕を廻すと、軽々と右肩へ担ぎ上げた。
それでなくとも注目を浴びていたのに、大胆な榎木津の行動は驚愕と呆気を周囲に与えた。
「何するんですか!離してください!」
「あのな、関。此の儘だったら誰かが官憲に通報するよ。流石に後輩二人の手に縄を掛けさせるほど僕は非情じゃないんだな」
云って榎木津は路上に止めていた黒塗りの車に関口を放り込んだ。
「榎木津先輩!」
榎木津も車に乗り込もうとしていると、中禅寺に呼び止められた。
「中禅寺も帰れ」
「関口を…どうする気ですか?」
「何だ、あの噂信じてるのか?あれは虚偽だよ。嘘」
車のドアーに身を凭れて快活に笑う榎木津の向こう、車の後部座席で関口がじっとしているが見えた。良く見てみると、関口は榎木津の服の裾を掴んで離さない。
中禅寺の眉間に皺が寄った。
「君たちを一緒にしておくと、一触即発みたいだからね、お互いに離れて頭を冷やすんだな。今日中には寮に戻るよ。僕も、関くんも」
榎木津は車に身を滑り込ませて、車を発進させた。
二人を乗せた車が走り去り、それを中禅寺は凝乎っと凝視していた。
 関口は隣に座った榎木津を瞥見もせず、俯いている。
「落ち着いたかい、」
「……すみません……」
榎木津の苦笑が聞こえた。
「謝らなくて良いよ。大したことじゃない。偶然君たちが騒いでいるところを見つけて、関くんを救い出しただけだよ」
「でも、なんで車で」
「親が呼び寄せたんだよ。僕の愚兄が鳥渡帰国するというんでね。君を寮へ送って僕は、此の儘、実家だ」
「愚、兄?」
顔を顰めて榎木津は鼻息を洩らした。それさえ此の男は優美だ。
「すみません、」
「謝らなくていい。第一、此の場合、言葉が違う」
「え」
漸うと顔を上げて、関口は榎木津を見た。
「『ありがとう』だろう?それにね、関口、君は神だ神だと救いを求めているようだけど、そんなあやふやなものに祈たって奴らはどうせ何万年に一度くらいしか奇跡を顕さない。だから、そんなものはやめて、縋るのなら、僕に縋れば良い」
「榎木津先輩…?」 何を言い出したのか、関口には俄かに判らなかった。
「でも、」
弟との、情事は誰が許してくれるというのか。
あんな淫らなことを、血の濃く繋がった骨肉と耽っていた日々を。あの甘い罪悪をに満ちた時間を。
「それでも君がかみさまを欲しいのなら、簡単だよ。乞うのなら僕を乞えは良い。そう─────、」
何処をどう走ったものなのか、車は寮の前に着いていた。
榎木津はその美貌を緩めて、艶然と笑う。

「僕も、神だ────」

眩暈がするようだった。



 榎木津と逢う日々が続いた。七十五日も遥か彼方な為に、人の目を避けて、大概は外で会っていた。外に目を向ければ、人の目を逃れて逢う処など山のようにある。
彼の腕に抱かれた時、凡てを忘れる出来た。ただ淫蕩に耽って、広まっている噂も、中禅寺の姿も凡て忘れられる。
卑しい─────。
解っている。けれど、榎木津は優しく関口を受け入れてくれる。その優しさに甘えていた。
いつかつけが来るかもしれない。
けれど今は外に方法を知らない。
榎木津が優しい口付けを呉れた。けれども榎木津のその秀麗な容貌は崩れて、弟の像を結んだ。
「──さま」
誰かに呼びかけて、関口は目を覚ました。自分の呼吸が荒い。
安らぐ相手がいるのに、何故今も弟の夢を視なくてはならないのか。
「大丈夫かい?」
そう声を掛けてきたのは、榎木津ではなかった。
此処は自室である。
「────中禅寺、」
雨の音が聞こえた。
「雨、」
呟くと、中禅寺は紙面に落としていた眼を窓へ向けた。冬の霖雨は白く煙って、景観をぼやけさせている。世界が閉じているようだった。
「ああ、先刻から振り出した」
道理で寒い、と思い関口は寝台から立ち上がった。腰紐を解くと、寝着の裾が床に落ちた。
「君、未だ夢見が悪いのか?」
冬の雨のすさまじと冷えた空気の中で、朗とした中禅寺の声が背後に掛った。
「夢見?」
何のことだろう。 「君の寝言だ、」
寝着の内の皮膚には榎木津の残した痕があった。
「何て云ってた?」
「かみさま────と」
かみさまたすけてください、かみさまたすけてください、かみさまもうしわけありません、かみさまもうしわけありません、かみさまいけないことだとわかっているのです、ああ、かみさま、でもそれでも─────
「何故────そんなものを求める?」
「たぶん、君には判らないよ、中禅寺」
肩に寝着を引っ掛けたまま、ズボンに跫を通した。
「君は後ろ暗さを抱えたことは無いだろう」
弟と寝てしまうような。
「────君にはあるのか?」
襯衣に袖を通すと、寝着が関口の肩から落ちた。関口の皮膚は青白い。中禅寺はその背を熟視した。蛇の腹のような白さだ。 肩甲骨と背骨の間に紅いはなびらが見えた。
「関口くん、」
関口は襯衣の両袖に腕を入れて、襯衣を肩に羽織上げた。背後を一瞥もしないその背に中禅寺は続けた。
「でもね、関口。人が人に況して神に救われることは無い。そう、神や仏など嘘っ八だ。だから自分の目で現実をみて自分の跫でその場所に立つしかない。─────自分で自分を助く外、無い」
釦を留め終えて、床に落ちた寝着を拾い上げ、関口は中禅寺に向き直った。
「君が仮令榎木津とどうだろうと、それは…」
中禅寺は頸を振った。
「でもそんなことでは救われはしない」
振り向いた関口は泣きそうな顔をしていた。そして自分の着ていた、寝着を中禅寺の眼前にぶつけた。
「せきぐちっ」
「君にはわからない!君には…君には…」
千鶴子さんがいるのだから、と言う言葉を飲み込んで、関口は駆け出した。
廊下を走り、その儘昇降口を出て、それきり姿を消した。



 目を伏せる。
その行為が世界の終りと如何に違うのか、解らなかった。
ずっと違いが解らなかった。
眼を閉じる。
乃至、睡眠は関口の逃避行為に他ならなかった。
家に居た頃にはそうやって幾つもの身の上に降りかかる様々な事柄を遣り過ごしてきた。
だけれど家を離れた後では弟の幻影に取り憑かれ、今はこうやって眼を閉じてみたとてあの能弁な男の姿しか浮かばないではないか。
関口には容易に自分の心理が知れなかった。初めは慥かに煩わしいと感じていた筈だのに、今はその存在が無くては一日も過せないと思えるのだ。
高等学校を経れば、友人とは道を別つだろう。
その時を夢見ていた。弟と訣別したように、あの友人とも別れられるのだ。

 雨が聞こえていた。
扉が開かれる音がした。此の家で人の伺いもなく、こんなに不躾に扉を開くことができる人間はいない。たった一人を除いては。
薄く香りが漂った。男物の香水だ。
「家の者から連絡を貰って驚いたよ」
抑制された話し方をする。理知に満ちて低い声は関口の耳に心地よく触った。
「本当に唐突だね」
批難している声色ではない。寧ろそれは好意的である。
「私に商談を中断させることが出来るのは君くらいだ」
白い陶器製の浴槽の眼前には白い帳があって、侵入者の姿を隠している。そして同時に関口に姿も。
タイルの上を革靴の底が乾いた音をさせた。 「返事くらいしないか?」
「…ご迷惑を掛けていることは解っているんです、」
「迷惑ではないよ。ただそろそろ風呂場の篭城を解いてくれないか、とね」
帳の端から嬰児の揺籃のような荷物置き場があった。其処には関口が風呂に入る以前に、家中の人間が用意してくれていた大きな手拭と着替えが置かれていた。
背広の袖口と大きな白い手が見え、その着替えを手にした。
「もう温いだろう?風邪を引くよ」
「………いいんです」
「良くないな」
関口の言を両断した。
「君にとっても、勿論家人にもね」
冬の夕刻の雨は激しくて関口の躰を打ち据えた。彼の部屋を出てほんの数歩で衣類は水を吸い関口を雨水の中に浸透させた。
雨は身を浸して浸して、氷の中に閉じ込められているかとさえ感じさせた。
その儘宛も無く居たはずだのに、いつしか此の屋敷の前に立っていた。
「君に風邪を引かれては、風呂を勧めた人間が責を感じる」
関口はそれでも動かなかった。
白い帳の向こうで深い溜息が聞こえた。
「仕方ないな」
靴音が聞こえて一瞬にして帳が退けられた。
しなやかで滑らかな上等の布地であることは、関口だとて瞭然であった。仕立ての良い背広。それは榎木津総一郎の均整のとれた細身の長躯を覆っていた。
撫で付けられた髪が先刻彼が言っていたように商談の最中であったことを物語っていた。
総一郎は袖をめくることもせず両腕を関口の浸かる微温湯の中に潜らせた。
そして、波のような水音をさせて実に軽々と関口を持ち上げた。
「………そ…!総…!」
「久しぶりだね」
「自分で上がりますから!貴方の背広が濡れる」
「もう濡れているよ」
「降ろして下さい!」
「厭だね」
その秀麗な顔が間近に見えて関口は思わず顔を伏せた。伏せた先に自分の日に当たらない白い皮膚…腹や腿、水に濡れた茂みなどが見えて思わず総一郎の胸にしがみつき頬を擦り付けた。
「本当にお願いですから…」
総一郎の小さな吐息が関口の額に掛り、総一郎はそっと関口の跫の底をタイルに添わせた。
関口は揺籃からローブを取り上げる。白い光沢のあるローブはさらさらと膚を覆い、少しだけ関口には着心地が悪い。着替えが無いのだから仕方ないのだが、総一郎の屋敷の人間は関口の入浴に白い帷子を用意したのだ。
尤もその帷子は、バスローブと呼ばれる入浴後の借着である。
知らぬ関口ではない。
けれども白いそれは、まるで凶事の為のものにしか感じられなかった。
「御免なさい」
髪の穂の先から水が滴る。
雨の音に交じり合って、落下音は聞こえない。
「謝らなくて良いよ、」
誰かも同じことを言っていた。矢張り、兄弟だ。関口は小さく笑ったが同時に泣きたくなった。肘を取られる。
「さあ、温かいものを用意させたから、」
総一郎が関口を導く。
その上腕に額を押し付けて、関口は目を閉じる。
此の男が自分を無躰にしないを知っているのだ。
温かい部屋だった。
抱きかかえられて、そっと下ろされた其処は柔らかくて、目を開けると見慣れない船底の天井があった。
垂れ下がった柄は一尺の部分で四方に伸びその先に球体をした乳白色の擦り硝子をつけていた。鷲子色に発光している。それを見て関口は漸うとそれが電笠であることを知った。
身を起こすと洋間なのか和室なのか判然としない空間が広がっていた。
「総一郎さん、」
「何?」
「貴方の名前をやっと呼べたと思って、」
柩の中の人物を見下ろすように、総一郎は関口を真上から覗き込んだ。そして少し腰を屈めて関口の頬に触れると、そのまま長椅子の端へ腰を下ろした。
「突然、御免なさい」
間近にその秀麗な容貌を迎えて、先ずは謝った。
こうして迎え入れてくれる場所がある。関口はそれを思うと、胸が甘く疼いて、指の先までが熱くなるようだった。
「先刻も言っただろう?謝らなくて良いよ、」
「だって、お仕事だったんでしょう?」
「そう、いつもだったら突然の来客なんてうっちゃっておくさ。でも、君なら話は別だよ」
「なんでですか?」
「たぶん、君には判らない」
「判らない?」
「銅線が無ければ電気は通じない」
それがどういう意味なのか、関口にはそれすら判らなかった。総一郎の顔はとても優しくて、関口は目を伏せた。直視できない。
「眠い?」
「え?」
「眠るといい。傍に居よう」
「でも、」
「大丈夫」
甘い笑みを一つ零した。関口は素直に頷いた。


 榎木津総一郎と会ったのは、高等学校に入学して、彼が弟を訪ねてきた時だった。
五月の半ばだっただろうか。
その時互いに以前のことを確認したり、何かを言い募ったりするようなことは一つも無かった。互いを視て、ただ了承したのだった。だけれど、彼を見て己にも逃げ込める処があることを知った。


 目が覚めると、雨音が聞こえていた。
柔らかく耳朶に触ってそれが円盤が廻っているのだと云うことに気がついたのは、総一郎が関口に膝を貸しつつ、肘置きに本を開いている時だった。窓から望める外界は墨を刷いたように真黒だった。
「起きたかい?もう夜半だよ」
「…総一郎さん、すみません」
「何を、」
「昼間のことです。お仕事を中断させてしまったんですね、僕」
「別に、面白くも無い商談だったから」
「商談て…」
彼の勤めるは陸軍省であるはずだ。
「だって誰が利を得るか、それが最大の焦点なのだから商人と如何違うのか、非才にして私にはわからない」
総一郎は皮肉に揶揄した。
関口の額を撫でる。
「これ、なんて云う曲ですか?」
「ん?」
「円盤、」
「ああ、なんと云ったかな…。向こうに居るときまとめて買ってきたんだ。気に入ったのなら、上げるよ」
「否、いいんです」
関口は総一郎の膝から頭を退けて、上肢を起こした。
「僕の服は、」
「洗濯させた。でももう乾いてるよ。持って来させよう」
以前に見た男ではない無口な使用人が関口の服を持ってきた。
「それで────どうしたんだい?」
着替え終りると、漸うと総一郎は本を畳んで、関口に訊いた。
使用人が関口の服と一緒に持ってきた珈琲がその香ばしさと共に湯気を上げていた。
「………どうしたらいいのか、もう判らなくなって…」
けれどももう夢に見るのは、弟ではない。
あの、婚約者も居る、男だった。
けれども同時に、榎木津を思い出し、心が千々と乱れる。いつもは酷い破天荒なあの人の優しさに。
いつだったか、関口は榎木津の部屋で眠った。同じ敷布の中で。そして目の前に有る榎木津の背中に身を寄せた。
「…関、暑い。鬱陶しい」
酷い言葉を投げかけられる。
「御免…。でももう少しだけ」
「どうした、」
「怖い夢を視たんだ」
と言うと、いつものことじゃないか、と言う言葉を榎木津は何故かこのときに限って飲み込んだ。
関口を抱きかかえて、彼は再び深い眠りに落ちていった。
「先輩は優し過ぎるんだ。だから、もう」
彼の許には行けない。
「成程。それで私の許に来たのかい?然し、それじゃあまるで私が優しくないみたいだ。…だけれど…あれは、我が弟ながら実に聡い。知れたら骨肉の争いだね。君は我が家に火種を持ち込むのか。プロメテウス」
「すみません」
頭を垂れた。
「ずっと夢を視ていたんです。…弟の夢。あの頃からもずっと…僕は弟との関係が断ち切れなくて、快楽に抗えなくて、ずっと関係を続けていた。でも僕が東京の学校へ進学を決めて、漸く断ち切れると思ったんだ。彼も何も兄である僕なんかと情交を結ばなくても良くなる。」関口は自嘲するように少し笑った。「僕は…彼との、骨肉に有るまじき情事はただの快楽の術だと思っていたんだ。それがお互いの共通の認識だとも思っていた。でも…でも…違っていたことを其処に至って漸く知ることになった。彼は酷く僕を、家を出て行く僕を詰った。申し訳ない…ただもう、申し訳ない気持ちで…。なんて僕は愚かなんだろうと」
手が震える。否、躰全体が震えていた。
銅線が繋がって行く。
「だから、繰り返してはいけないと思ったんだ」
左横から伸びてきた、総一郎のとても軍人とは思えない手が関口の下瞼を撫ぜた。目を瞑ると、大粒の涙が滴った。
「関口くん、」

「そう─────僕は…彼のことが、」

言葉が途切れた。
関口の顔から一瞬表情が削ぎ落とされた。

「好きだった─────」

そして続けた。
「弟が…自分の血を別けた弟が好きだったんだ。愛おしかった。誰よりも。僕に無関心な父よりも僕を叱責する母よりも、誰よりも」
兄弟なのだから好きも嫌いも無いのだ。
彼を愛おしいと思うかと問われれば─────応えることは出来ない。
愛おしいのだから。
本来持つべき家族への感情ではない。親愛ではない。
兄弟で交わるなど、畜生でないか。もっと汚濁に塗れた劣情だ。
それは罪だった。
だから同じことを繰り返しては─────
「それで…君は、今は、誰の夢を視るんだい?」
滲んだ視界が関口の首と共に左へ展開した。其処に見えたのは、歪な美貌だった。

「─────中禅寺、」

零れ出た。
迷う暇もなかった。
榎木津でも眼前の総一郎でも弟でもなく、
中禅寺秋彦。
それは同級であり同室の男の名だった。肺病患者然とした容姿の。
人と関わりを誡めていたあの頃、張り巡らせた垣根を突き崩して、肉薄してくる中禅寺が怖かった。
厭わしかった。
煩わしかった。
でも、それは、言い換えるならば、彼のことが気に掛っていたからだ。
きっと同じ時間を共有すれば、もっと親密に…喜びも怒りも愛しみも分かち合うようになる。
それを知っていたのだ。だからこそ怖かったのだし、厭わしかったのだ。
でも同時に冀っていた。
あの日図書館で中禅寺が「その精神分析学者ほどにも僕に興味を向けてくれないか?」と云った時でさえ、本当はジムクンドなど頭に入っていなかったのだ。
「全く。君は残酷だね、」
「……え、」
「君は私を父親だとでも思っているのかもしれないが、私は君の情人オトコの心算なんだよ。だのに何故、君の口から外の男の名前を聞かなくては成らないんだい?」
恨み言をその薄い唇が宣った。
けれども、総一郎の顔は笑っていた。苦笑と言う形ではあったが、優しくて柔らかかった。
関口は自分の目を手の甲で拭った。
「関口くん。生憎私は何処までも慈悲深い聖人なんかじゃ無いんだよ。私の名前を呼ばないような、つれない人を庇護する言われも無いだろう。出て行け、」
総一郎は関口の左手首を掴んで、立ち上がらせた。
傍にあった手触りのよい外套を関口の肩に掛けた。
「さあ、君は行って君のなすべきことをなせ、」
それは光輝に満ちて残忍な言葉だった。否、『残忍になれ、』と唆す甘い声だ。総一郎も榎木津も裏切って、あの男の許へ行けと。
関口は総一郎の手をとって、その白い甲に脣を当てた。
「さようなら、」
総一郎は目を伏せた。

冬の闇の中に雨が降っていた。
音もなく。
屹度寮に着く頃にはしとどに濡れているだろう。
関口は夜の路を一目散に走った。 救われる心算などはない。
ただ、ただ彼のことが─────
駆ける。
その闇の先には彼ががいる。

愁霖は静かに降り続いていた。














31/10/07
長かった正味何ヶ月だったのか思い出すダニ恐ろしい。
最初はフラニーとゾーイーと言うタイトルでした。あのシーンの所為です。
はい。

以上を鳥児干伴天連 の卜部さまに捧げます。








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