1.ほおづえついて

頬杖を着いて机上に筆を転ばせる。長く使ったそれは手垢で購入した頃の艶やかさは消え失せていた。傍らには辞書が開かれている。……一行も進まない。いつぞや上梓した単行本も然程売れ行きが良いわけでもなく、此の儘では収入も覚束無い。いつまでも妻に勤労を強いているわけにも往かないだろう。書かなくては。書いて綺譚舎に持ち込みあわよくば近い内の掲載を願いたい。
だのに──────
「書けないよ…」
呟く。薄い座布団の上で胡坐を掻いているもの好い加減苦痛だ。
だけれども、書けないのだ。一行も。
房室の窓から望む外界は曇天で、今にも雪が催いそうである。腰ほどまでしかない?示の壁は通りの疎らな人影を露わにしている。同時にそれは己の姿も曝していることになるのだが。
原稿用紙を文字で埋めることは嫌いな作業ではないのに。嫌いではないからこそ此の職に着いたのだ。
理由は解っているのだ。
「書けない理由なんてさ」
右手の人差し指で筆を弾くと、一回点して細長い突起で止まった。
旧友が以前言ったように、表現こそ捻くれているものの、詰る処己の生み出すものは私小説に他ならないのだ。
Ich Romanだ。
であるからこそ書けない。今心にあるものなぞ。
他に題材を求めようとも、如何にも心にあるそれが邪魔をする。
「書けないと云っているだろう?」
そう己に語りかけるのに、視線は逸らせない。
「困った…」
困っているのである。
頬杖を着いて朦朧と外界を眺めやった。雪でも降れば良いのに、と思う。どうせ外には出ないし、その情景を描写して原稿用紙の半分ほども埋められように。
否──────と次の瞬間にはそれを打ち消した。
窓の外を行く人が居た。鼠色の外套を着ている。
降ってしまったら、きっと仕事に支障が出るだろう。ぬかるんだ道は革靴では歩き辛い。
暫く逢う予定は無かったのに。
また一層書けなくなってしまうではないか。
鼠色の外套を着た人は不意に家屋へ振り返った。
その童顔が柔らかく笑んだ。
左腕を持ち上げた。その手には土産が吊るされていた。
童顔の人物が脚を止めたのは一瞬で、すぐに進行方向へ向き直り足早にその場を去った。そして玄関から声が掛かるのは一分にも満たなかった。
今の儘では書くものは恋愛小説になってしまう。

妻もある身で若い男などに恋をするものではない──────。

机の前から重い腰を上げた。


2.秘密

「大量に在るよ」
ことも無く云った。
互いの間で火に掛かる鍋からは煙幕でも張る心算なのかと問い詰めたくなるほどの湯気が立ち上っていた。
「そうですか」
「うん。まあ、僕の場合忘れちゃっているということが大半だけどね」
「忘れる?」
「そう。最高の隠し場所だろ」
鍋の中から葱を捕まえて取り皿のポン酢の中へ浸した。
男二人で鍋を突けども、酒は伴わない。
そんなことをすればお互いに、此の食事自体を秘密にこそ出来なくなるからだ。互いに下戸である。
「それは半分言い訳でしょう?」
忘れることへの。
湯気の前で意地悪く笑った。


3.再会

刑事になって何年経つのか。到頭独身寮まで出る年数を経過した。
再び出会うことなぞ此の都下では奇跡であろうと思っていたのだ。
一体どれだけの人間がいるのか、数年此処に暮らしていて知らぬ青木ではなかった。

あの閉じた瞼の向こうを見てみたかったのだ。

辞典などに見る南洋の猿類に似ていた。小柄で猫背である。
眼は円らだったが何処か胡乱な印象である。だのに、否尚のこそ──────
轢かれた。

昭和二十七年、夏。眩暈坂下にて。

再会と言うからには出逢いがある→


4.好き

簡素で安易で陳腐で甚く的確。だからこそ口に出せない。此の歳になれば猶更だ。関口は彼の同僚である木下と並ぶ背をぼんやりと見ていた。


5.サクラ

その一節を口にすると、青年は振り返って「梶井ですね」と云った。
「文学談義でもやりますか?」
「好きなのかい?」
「文学なんて学校以来触ってもいないですよ」
「でも知っているじゃないか」
「刑事として見過ごせないと思いませんか?」
「見過ごせない?」
「ええ、あの物語…私小説と言うのか随筆ですか?まあ分野分けなんて僕には解らないのですが、あの結末から往くと村人は屍躰を一々桜の下へ屠っていることになる」
「うん、まあそうかな」
刑事としての習性なのだろうか。彼の先輩にあたる友人を思い返したが、友人は刑事としては余りにも規範外だ。そうした会話など終ぞしたことが無かった。
「でも、君、学校以来触っていないってことはないだろう?墓地埋葬法が定められたのは昭和二十三年の話だぜ、」
学校に居た頃には到底思いつかない類の事例である。
青年は桜の下に立つ小説家から再び眼を背けた。
「貴方の本を買ったんですよ」
「え、」
「先日。でも貴方の本だけじゃ、何故か酷く勘定場へ持って行く事が出来なくて、目に付いたのが梶井だったんです」
懐かしさと共に目眩の上に重ねたのだった。
「桜の樹の下には屍躰が埋まっている」
唱う背に関口は身を寄せた。