他郷頻夜夢 07 校舎の長い廊下を走った。 振り向いた先に人影があって、それを追っている。 だけれど、燈の無い屋内ではそれは動く影であって、誰であるのかは判別不可能だった。 少年の影向に見えた。 先に上ってきた階段まで来ると、跫音が聞こえた。然し縦に長い煙突構造の階段部では音は反響し合い、それが下っているものなのか、上っているものなのか解らなかった。 「上だ、」 階段の欄に手を掛け上階への渦巻きを見上げながら、輪が呟いた。 「綾、匡に知らせて」 「え、」 「傍まで来ているんでしょう?中へ入ってくるように…。早くっっ」 声が綾を叱咤した。外套の内側へ手を入れ携帯電話を取り出した。その間に輪は上階へ続く一段へ足を掛けた。 「輪、」 呼び掛けようとすると、呼び出し音が妹の声へ切り替わった。 「深追いはしないでね!」 その背に叫んだが、彼女の耳には届いていないだろう。 携帯電話の向こうからも激しい雨音が聞こえた。 「摩羅人、車を学校に着けて。人には気付かれないように」 匡が指示を出した。 「yep、」 運転席の男は軽い返事をした。 姉が電話を切る。 「どう?」 「能く解らないけれど…犯人と、対峙するみたい…。中には屍躰があったそうよ」 彼女は心持蒼褪めていた。 「芽哉は此処に居る?」 「私も…行くわ。でも…鵺なのかしら…?」 「たぶん…彼だ…」 目を剥いて、姉は弟を見た。 「何で?」 解るのかと訊く。 「彼の気配だからだよ」 少し笑って見せた。 「僕には彼が解るから。傍まで来ていればね」 車のドアに手を掛ける。 「俺も行こうか?」 運転席の男が少し心配そうにしていた。 「此処に居て。大事にはならないと…思う。たぶん。だから待ってて」 そういって雨の中へ飛び出した。あっという間に髪は濡れ雫が髪先から滴り落ちる。滂沱の雨に、停電した学校は不気味に佇む。 姉と弟は壁を乗り越え校内へ入っていった。 四階には学級用の教室は無い。オリエンテーションに使われる研究室と呼ばれる大教室が二つ並んでいるのだ。その四階を抜ければ、その先には屋上しかない。 然し級友の柘植は云っていたではないか。 『屋上には出られない』と─────。 然し、近づくに連れ稠密となる水の気配に、扉は開かれたことを知る。 四階を上り、屋上へ続く踊り場から外界との境界に立つ輪の後姿が見えた。 ─────雨の音が聞こえた。 階段を一段一段明確に上り切り、従姉の背後から「輪、」と呼びかけようとした。 然し声が出なかった。 合わせ鏡を見ているようだった。 短い清潔感のある髪、白皙の皮膚、透徹な眸子。 違うのは雨の中に濡れぼそった『鏡』がとても穏やかに笑う処だった。 輪は烈しい為人である。そんな風には笑わない。 再び、輪と呼びかけようとして───── 「輪」 自分が呼んだのではない。綾は少しだけ混乱する。 輪と呼んだのは、他ならぬ輪、彼女自身だったからだ。 「久しぶりだね、輪」 鏡もまた輪と呼んだ。 人が立っていた。制服姿である。三年生の男子だろう。綺麗な顔をした、見覚えのある顔だった。三年にしては顔が幼い、と思い綾は俄かに固まった。 『あの人』だったからだ。 「折角連れて来たんだ、何か話せよ」 鼻で笑うような、人を嘲笑するような口調で『あの人』は云った。そして手の甲で頬をこすると其処が黒くなりすぐに雨で流れ落ちた。 「あんなに、長かったのに切ってしまったんだね」 解ってしまう。 其処にいる、それが誰で何であるのか───── 「まるで、輪、あんたそのまんまだな」 雨が強かに彼らを打ち付け、此れほど寒く雨水は冷たいのに、『鏡』も『あの人』もまるで気にした様子は無かった。 輪が数歩屋上へ出る。 『鏡』が近付いた。 そして腕を上げ、白磁の大きな手を輪に翳した。 綾は腰間からレオンを抜き、その腕へ振った。 打ち付けられる鈍い音がした。 一瞬にして『鏡』は灰色に霧散し、その数メートル後方へ現れ、レオンを止めたのは『あの人』の持つ鎌状に少し湾曲した小さい刃物だった。 「あっぶねえもん持ってるね、お前」 綾がよろけた。 「俺が止めなかったら、此奴もやってたぜ?」 間近で見る美しい面が顎で輪を指し示す。 然し彼には人を竦ませるものがあった。 怖い───── と綾は初めて人に対して感じた。皮膚に電気のような痺れが恥じる。 匡の護衛も数多の修羅場を潜り抜けた相当に怖い人物だが、それでも彼は人好きがする。否、彼が人間を好きなのだ。 目の前の人物のような冷酷さは持ち合わせていない。 此の人に近付いては成らない。 「それは獅子王か。じゃあ…君が次代の総領か、」 あの人が手にする鎌状に少し湾曲した小さい刃物を振り上げた。 「彼女の持つそれは私を狙うことが本能だ。だから黒人も彼女らに危害を加えないで欲しい。此の人たちも私を殺せない、」 「……どういうことだよ?」 「彼女がしたくて鉈を振り上げたんじゃないってこと。手に持つ鉈が暴走したんだ。それにしても持ち主に従わないとは総領としての資質を疑うが、」 『彼』は綾へ典雅に微笑み、黒人と呼んだ『あの人』へ向き直った。 あれほど優しく屈辱を与えられるとは。綾は寒さとは別の次元で躰が震えた。 「駄目かな?黒人」 「どうしてもって云うのなら、考えないでもない」 鏡は穏やかな笑みを刷いた。 「どうしても、」 子供のように黒人は笑った。 美しいひとだった。黒人と言う名前だのに、雨の暗色の中に見えるその髪色は黒ではない。栗色とも灰色とも尽かない淡い色合いをしていた。眸子の色も同様だった。 優美な面である。 校内では実に能く目立っていた。 殆ど生徒に興味の無かった綾の記憶にさえ残っているのである。 「人を─────喰べたのね…?」 輪が小さな声で言った。雨に掻き消えるほどに小さな声だった。能く能く注意していなければ聞こえない程。 輪の声に鏡は頸を緩々と振った。雫が飛散した。 「そうしないと生きていけない」 「こんなにこんなに沢山の人を一辺にっ!なんで…そんな非道いこと…!」 「待てよ、お前。輪はあんま喰ってないぜ。半分は俺が」 「黒人、」 鏡が渋い面を見せる。口を挟むな、と表情が語っていた。 「嗟、諾々。でもさ、輪が執着する奴ってどんなかと思ったが…お前の何処がいいのか俺には解らないぜ?」 降参と言う意味で両手を上げ、加虐的に黒人は笑った。彼の美しい顔にはそれがよく似合った。人を虐げることを当然とするその艶治さだ。 「三階にあった屍躰は…あんたの仕業だな…?」 黒人は肩を竦めた。 「あんたが一番下衆だ!人を殺して楽しむなんて!輪、私と一緒に帰ろう?」 「そんでまた山ん中の嶋に閉じ込めんのか?」 嘲った。 「煩瑣いっっ」 「輪、余り黒人を責めないでくれ」 優しい声色で、鏡は輪に言う。 「やれやれ、」 背後から老人の声がした。 「老いた躰に階段はきついな」 綾は振り返った。驟雨の中、黒い傘を差し、羽織袴の恰幅の良い老人が其処に立っていた。 「宗祖さま!」 大叔父の姿が其処にあった。肉置きの良い顔に笑みを刻み込んだ皺。 宗祖は総領である祖母の弟であった。血族で彼のことを宗祖と呼ばないのは総領くらいである。 経済形態がまるで変わってしまった戦後、彼は東京で夢違えの新興宗教を開いたのだった。そして今は政財界中枢へ深く入り込んでいると聞いていた。此の大叔父がいるからこその現在の伊能家であり、山を持ち、家を保持し、生まれ尽いて社会適合性の無い三姉弟が、また輪が、労苦なく暮らして行けるのである。 今回特別に外に出て三人が一緒に暮らすことが出来たのも此の大叔父が差配したからなのだ。 宗祖の背後から芽哉と匡が現れた。 「輪!綾!無事か!?」 匡の目が或る一点を捉える。 輪に能く似た男性。優しい面差しの、それが本当に『アレ』であるのか、綾には信じがたかった。 「鵺」 鏡を見て、匡は呼んだ。匡は伊能が咸池の昆吾と呼ぶ嶋へ行ったことがあるのだ。 「獏の登場だね、」 鵺は匡を獏と呼んだ。 お互いに七年目の邂逅だった。 少しだけ雨脚が弱まった。 呼吸は白い。 大叔父は皺に埋もれた目を黒人へ向けた。 「マーケットの北方、黒人さんですな」 「あんたは?」 「鬱儀と申します。マーケット…黄翁から─────幕引きを頼まれたものです」 黒人は鼻で嗤い「成程」と呟いた。 「さあ、輪。昆吾へ戻ろうじゃないか」 大叔父は鵺へ手を伸べた。 黒人が顔を顰め、声を上げようとするその時、宗祖の手を叩き落としたのは輪であった。 「誰があんたなんかに!」 「おやおや。いつまでたってもお前はじゃじゃ馬だねえ。誰か良い婿を探そうじゃないか。家に入れば少しは落ち着きもするだろう」 鵺の表情が少しだけ動いた。 「それが厭だったら、輪、お前が戻ってきて此のじゃじゃ馬の傍に居ればいい」 「爺!お前何言ってんだよ」 轟音がした。黒人が壁を蹴ったのだ。 「黒人さん、すみませんねぇ、此れは我が家の話でしてな」 「うっせ。輪は俺のだっつの。大体、妹に兄貴を宛がう家があって堪っか」 矢張りと、思う。輪と能く似た面差しの鵺。それは濃い血の繋がりを知らせるものだった。 「実に正論ですな。見直しましたよ。然し、此れが妹に恋着したのもまた事実ですからな」 宗祖は目を細めた。 「嶋に戻るのはいいわ。でもあんたの好きになる心算は無い。三つ子、能く聞きなさい!あんたたちの信頼する此の大叔父さんは、とんでもない下衆だっ」 正面に宗祖と輪は睨み合った。 眇めた目には焔が猛々しく冷たく燃え滾っていた。 「輪はずっと私の為に食事をしなかった。『餌の味を憶えた獣は無意識に餌を欲する』そう言ったよね?輪」 輪は鵺を窺った。彼の表情は苦渋の表情に筋肉の一筋も動かさなかった。 「輪が私を引き取ったとき、私は三つだった。輪は八歳よ。輪は約束したのよ総領家とね。もう絶対食事はしないって。八歳でよ?鵺は獏と同じで普通の食事じゃ満たされない。その分、腹持ちたするみたいだけど」 一人食べれば、腹へ減るが一年間は持つと聞いたことがあった。 鵺は酷く生命力が強いのだと。 「輪は少なくとも五年食事をしなかった。でもね、私が八歳になった頃、輪は時折嶋を出るようになったの。此の男と一緒にね」 輪は宗祖に指先を向け、唇を噛んだ。 「─────馬鹿な娘だ」 「………何よ」 皺の中から酷く蔑むような目線で宗祖は輪を見た。 「喰うことを希んだのは、他ならぬお前の大切な鵺なのだよ、」 輪の顔が強張った。唇を噛むと雨が白い歯を伝って彼女の口内を犯した。 「そんな…わ…け」 声が震えていた。 「本人がすぐ其処に居るのだから訊いてみれば良い。此奴はお前と言う存在の為に喰うことを已めた。だのに、お前と生きたいと思い、喰うことを希望したんだ。懇願したんだよ、私に」 お前の所為なのだ、と言い放った。 喰えば体内にエネルギーがあふれ、死にかけた躰が熱を帯び頬が染まる。 そして喰えば普通の食事のようにロ愛気も出るのだ。 「まあ鵺を悪者ばかりにしてもあとが怖いからな。その時丁度私も目障りな人間が居てね。私と鵺の食欲が利害の一致をみたんだそうだね、輪?」 鵺の表情は動かない。 「どうした?コレには聞かせたく無いのか?輪、」 厭らしく老人は満足そうに笑い、黒人に向かって校内を見てきましたよ、と云った。 「満足しましたか?」 「諾。先ず先ず気分がいい。暫くは持ちそうだ」 その美しい顔が下卑て歪んで笑った。 「手前か…!」 背後からか声が聞こえた。 そして芽哉と匡の間を風が切って、綾の横をすり抜け輪の脇を───── 片手でそれを止めたのは、黒人だった。 右目を薙いだのだ。 彼の持つ鎌状に少し湾曲した小さい刃物で。 悲鳴を上げてその人物は倒れこんだ。 目を覆った手からは血が流れていた。 「西村!」 芽哉が声を上げた。 「来るなってあれだけ言ったのに…!」 匡が言った。 「煩瑣え!渡部…渡部さんを…殺したのが、こいつっだっていうんなら俺は仇討たなきゃならないんだ!」 言葉尻は殆ど悲鳴だった。 「渡部って、」 芽哉が西村の背後にいると言っていた死んだ男の名前であった。 「渡部のラグビー部の後輩か、お前?」 「手前が渡部さんといるとこ何度かみたことある…。てめえたちが先輩嬲り殺したんだろっっ」 「はん、渡部から話は聞いてたけどな。お前に」 黒人は痛みにのたうち転がる西村を笑いつつその腹に脚を置く。 「渡部がお前に告白して、そんでお前が振ったって話」 「やっぱりお前たちが殺したんだな…」 黒人が鵺を見てお前が言えと目で促した。鵺は哀れみに満ちた顔をしていた。 「彼は─────自殺だったんだよ」 優しい声だと、綾は思った。 人を喰わなくてはならないそんな危険な存在だのに、鵺の声は優しかった。 「嘘だ!」 「嘘じゃない。本当のことだ。彼は僕と黒人の前で、飛び降りたんだから」 嘘だっっと西村は絶叫した。 西村を霊視した時、あの時芽哉はなんと言っていただろう。そう『渡部さん「ごめん」て言ってるみたい。心当たりあるかな?』と言ったのだ。芽哉は何も云わず、西村も口を噤んでいた。だが彼の心当たりとは此のことだったのだ。 「彼は、君に嫌がられたと言っていた。気持ち悪そうにしていた、と」 ではその渡部の死ぬ原因は。 「彼は恋に破れたんだ。だから─────」 嘘だ、と西村はまた叫んだ。血は彼の手の隙間から諾諾と流れ続け、雨は幾つもの斑紋を血の中に作りやがて雨水と混じり合って薄れて消えて行く。 「あんなこと…言う、心算じゃなかったんだ!だから!だから…謝ろうと思って思ってたのに…その矢先に渡部さんっっ…」 嗚咽を上げる。 潰れた目で西村は泣いた。 彼は最初の犠牲者八島滋と同じ此の屋上から飛び降りたのだ。 嗚咽を上げる。 その咽喉に黒人は鋼の弧を描いた。鎌状に少し湾曲した小さい刃物を走らせて。 ぱっくりと開く咽喉に雨が注いだ。 悲鳴を上げたのは三兄弟と輪だった。 「俺、泣かれるのって一番嫌いなんだよね」 酷くつまらなそうに黒人は呟いた。 「此れ、良い刃物だろう?宦官て知ってるか?中国のチンポ切り落とした奴ら。あのチンポ切る時に使うんだよ、これ」 雨の中に血に染まった刃物を翳すと、すぐに血は雨に流れた。 そして眼下に小さな灯が見えた。点のような灯だ。未だ停電は復旧しない。報道陣が四人の悲鳴を聞いて駆けつけたのかもしれない。 「騒ぎになる前に、帰ろうかな。さあ、輪」 再び宗祖は鵺へ手を伸べた。 「輪、違う。そうじゃない。私と一緒に嶋に戻ろう?ね?」 輪が鵺に縋った。 「輪。君には何故私が昆吾を出たのか解らないんだね…?」 悲しそうに鵺が輪を見る。 縋られているのに、鵺は輪を抱きしめようともしない。そして輪を自ら離すと輪は匡の前に立った。 「久しぶりだね、匡くん」 鵺が匡を手招きした。 「………はい……」 熱に浮かされたような喜色が浮かんでいた。 「さあ、」 鵺は匡に手を翳した。李朝の青磁程蒼く美しい大きな掌。爪に嵌るは螺鈿の夜光貝。 翳された掌のその真中の窪みに匡は吸い寄せられるように唇を寄せた。 瞼を伏せ、獏はその掌に集中する。 雨が鵺の指を掠め、匡の頬を舐めて行く。 長い間色の優れなかった匡の顔は俄かに紅味を増す。細い肢体が断続的に震え、垂らされた指が攣るような動きを見せる。白い爪が薄紅色に染まった。毛細血管の詰まった指先にまで血が諾諾と漲り始めたのだ。 次第次第と匡が腹を満たすのを感じる。 満たされた───── 睫毛を揺らす。 鵺はゆっくりと手を引いた。 顔に雨が直接降り注いだ。 匡の目には低く垂れ込めた黒い雲が目に入った。 食事は終わったのだ。 彼の姉二人はいつの間にか詰めていた、呼吸を再開した。 ─────初めて見る獏の本当の食事の光景だった。 鵺は身を翻させ、綾の横を通り、輪と宗祖の間をすり抜け、黒人の許へ歩み寄った。 「行こうか、」 「輪っっ!なんで…なんで…!?そんな人殺しと人を殺して楽しむような奴と一緒に居るのよっっ!!」 私は如何でも良いのか─────と輪が叫んだ。 「輪、私と黒人が同種なんだ。君は違う。そうだろう?」 人を喰わなくては生きて行けないものと、人を殺さなければ生きていけないもの。 殺人中毒の男と、人を喰う化物の男。 輪は両手で耳を塞ぐように頭を掴んだ。 自ら戻ってきた鵺に、黒人は嬉しそうに笑って、彼の髪を掻き回した。 「会えて嬉しかったよ、輪。君の倖せをいつも願っている、」 その場から駆け出したのは匡だった。 「匡!何処行くの」 芽哉が匡の後姿に声を上げる。 「待て!匡!お前が此処に居なければ鵺は逃げてしまうっ」 声を上げたのは宗祖だった。 「あ…綾!お前お前のその」 激しい舌打ちの次に宗祖は続ける。 「獅子王でアレを捕まえろ。捕まえるんだ!腕の一本や二本落としても構わない!」 こやかに人を嘲笑し余裕でいた老人が俄かに周章した。 匡が居なくなったことで鵺が何をするのか、輪にも理解できた。彼へ走る。腕を伸ばして。 捕まえなければ───── そんな倖せを願われたいのじゃない。 一人だけの倖せなどいらないのだ。 共に居たいだけなのに─────! 鵺の躰が灰色に霧散する。 輪の手は空を掻いた。不快な雨に濡れた指先が曝される、冷酷な感触。 「じゃあ俺も行くか」 黒人が駆け出す。 「あ、其処の爺。俺から輪を取り上げようってのは大変頂けないがマーケットの次代として見知り置いた。再た会おうぜ。俺あんたみたいな爺嫌いじゃない。Adieu」 フランス語のさよならを告げる。それもオウボゥワールの『再び合おう』ではなく、『もう会わない』と云うさよならを残して黒人も姿を消した。 「輪、立って。帰ろう。早くしないと、警察とか張ってる報道陣が来ちゃう、ね?」 いつの間にか、雨脚は格段に弱まっていた。 輪は俯いて、その項に雨を受け止めていた。 狂々と斑紋を描く雨の世界に身を浸して。 暫く其の儘だった。 人の声らしきものが遠方に聞こえだした。 それを確認すると綾は肩を抱いて、従姉を立ち上がらせた。 「芽哉、摩羅人は今何処にいるかな?できるだけ人の居ないところに車を移動させて私たちを誘導するように云って欲しいんだけど」 宗祖は兇悪な顔をしていた。 そして其処に残された人々を一瞥もせず傘を差したまま、去って行った。 学校の東北に黒塗りの車が停められていて、人のいないことを確認し、綾と芽哉、輪はそれに乗り込んだ。中には既に匡の姿があった。 「出して」 運転席の男に綾は命令する。 「yep。そうだ、ボスが先刻出てったぜ」 摩羅人は宗祖が雇う匡の護衛だった。ボスは宗祖だ。 「坊ちゃんの具合も良さそうだし…首尾は?」 「─────最悪よ、」 見て解るでしょう?と芽哉が短く答えて、俯き顔を覆う輪の肩にタオルを掛けた。 「今の時間は?」 綾の腕に巻いた時計はレオンの暴走に完全に狂っていた。腕時計の時刻は現在十一時なのだ。 「四時過ぎたとこ。どうする?マンション戻るか?」 バックミラー越しに男が後部座席の綾を見た。 「あんたは大丈夫なの?」 「何が?」 「疲れてない?」 「人を気遣うなんて綾らしく無い。俺は平気。働いてないから。車の中待ってただけだし」 摩羅人の左腕が助手席に座る匡の頭を押し潰す。外を見れば報道陣が占拠する箇所だった。 「不審車だと思われないかしら?」 「思ったとしても何も云われないさ。運転してるのが俺で、折角ナンバープレートYナンバー借りてきたんだしな」 「…帰ろうと思うの、」 「本拠まで?」 頷く姿をミラー越しに確認し「OK」と云った。 暁まで車内は無言に満ちていた。長い時間、音楽もラヂヲも無く、車内はただの無言だった。未明の暗い中営業する街の明かりが車内の窓を掠めて流れる。幹線道路に出て只管本拠へ進む。高速道路はすぐに見つかってしまうだろうから、使えない。一般道を長い時間かけて走って行くしかないのだ。タオルで長い時間雨に打たれた躰を拭き、車内の温度を高く設定しても、中々躰の震えは収まらなかった。 六時を半時過ぎて漸うと輪が顔を上げた。 「………摩羅人は、宗祖の他で出て行く人を見た?」 ちらりと運転席の男は背後を確認する。 「いいや、誰一人として出ていない」 摩羅人はプロフェッショナルである。何処に隙があるのか把握することが早く、また鋭い。黒人は、血に塗れた制服姿だ。出て行くとしたら、摩羅人の張った箇所からしか有り得ないだろう。 「…そう…」 漸く出会えたのだ。だのに…鵺の傍には誰かが居た。 それが堪らなく辛かった。 目が熱を帯びる。 咽喉が震えた。 「輪、泣かないで」 泣いているのか、と輪は自分の頬に手を当てる。 頬は温かく、濡れていた。 『俺、泣かれるのって一番嫌いなんだよね』と言う男の声が黄泉還り谺し、酷く悔しかった。 「輪。私たちは鵺を捕まえるから安心して」 「そう、絶対捕まえるから。匡のためにも、」 綾と芽哉が輪に言う。 「あんたたち…」 「ごめんなさい。でももう、私たちも離れて暮らすのは厭なのよ」 摩羅人は助手席の護衛すべき者を見る。彼は睡っていた。 いつもに況して顔色が明るく健康的に見える。腹が満ちた時人はこんな顔をする、と幾つかの修羅場を越えた男は観察した。 車外では雨は已んでいた。 既にレオンも形を潜めている。 暁を染める。 山の端が瞭然となった。 「次は必ず捕らえる─────」 そう誓願する声に輪は唇をかみ締めた。 晨明の旭に、金色の烏が鳴いた─────。 03/03/06 終わらせました。 無理矢理。 支離滅裂だろうから、後で直します。 もっとじっくりと対峙するとこが書きたいですね。 では。 後記 |