千燈會の夜
16



―――――母見た母見たはらみった―――――――
四辺は何処までも静かだった。






































 蝉が忙しなく鳴いていた。夏の午下がりの空気に、不図、憂鬱が襲う。幼い少女は膝の上で転
寝を始めていた。彼女に能く肖ている―――――と睫毛に触れてみる。煩わしいと言うにように、
少女は身動いだ。小さな微笑が零れた。朝から少女は傍を離れない。今夜の千燈会へ共に赴く約束
をしているのだ。小さな額に、寝汗が浮かんでいた。早々に支度した浴衣が寝苦しいのかも知れな
い。団扇で微風を送った。
 自室の縁側に腰掛け、庭の草木や家屋を取り巻く鑓水を眺めていた。梅雨以前に庭師を入れて
整えた緑の庭。眩い濃淡の様々な緑や、夏の日差しを返す水の煌きに眼を細めた。
 縁側の床板の上には手紙が広げられていた。
少女の柔らかい髪を一撫ですると、再びその便箋を手に取った。そこに綴られる言葉。
それは憂鬱を深くしたが、同時に歓びも与えてくれた。
地獄絵を前にしていったあの女の言葉が頭を過る。
白い日傘に、砂色の着物。袖から覗く白い指がゆっくりと動いて、陰惨な絵を指し示した。
彼女は何もかも知っているのだ…  足許に、何処から種が落ちたのか、縁が薄紅色をした昼顔が咲いていた。朝顔のような力強さ
はない。
ただひっそりと物憂げに咲いている。
膝の上で少女が寝返りを打った。








女性の悲鳴が聞こえた―――――








……不図、悟る。
「ああ…」
吐息した。
自分の心理が知れない。
悲しんでいるのか、愉悦なのか―――――
再び、膝に睡る少女に風を送り、その穏やかな顔を見詰めつつ、あの地獄絵を思い出す。
 一面を埋める、黒い煙。
人を苛む、獄卒たち。
鉄のように叩き鍛えられる人間。
黒い瘴気が、立ち籠める。

 俄に家内は騒然とし始めた。 少女の小さな躰を抱き上げ、立ち上がった。完全に覚醒していない少女は小さな手で懸命に眼
を擦って頸を傾いだ。
「もう、お祭り?」
稚い口調で訊ねる。
…微笑んで頸を振った。
 若夫婦の為に設えられた西の双間。床の間には白い花が供えられ、文机の楽譜は開いていた。
完全に締め切られた座敷。
鴨居から垂れ下がった女。
畳に散らばる汚物。
噫…彼女は死んだのだ
「僕と彼の為に」













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