千燈會の夜
15



「兄さん……兄さんっっ禎兄さん。辞めてっ何を言うの!」
不図禎が、泣き叫ぶ朱を冷たく見遣って、嗤った。
「あの時も姉さんは同じように言ったね…。最期まで千畝さんの心が自分のみにあるのと思っ
て。『辞めて、何を言うの』…。あの日の前日、貴女は僕を伴い、寺を訪れた…。僕にあの一枚の地
獄絵を見せ、牽制するために」
囁かれた言葉。
―――――よく御覧なさい、人道に悖る行為はこうして罰せられる………
「『貴方も気を付けなさい』」
 不図、辺りが明るくなっていることに気が付いた。
朱は頭上を見た。
 天上は闇く、だのに苦く顔を歪めた千本木の顔が目に入った。
彼の手には既に提灯は無い。
離れた辺りに炎え滓を見付けた。
提灯の竹で出来た柄の部分だけが残っている。
 四辺は明るい。
野瀬の森に燈りは御法度だ。だのに一層明るい森の中。禎の遠く背後に先まで見えなかった鳥
居が小さく見えた。
石造りの、苔に蒸された、緑色をした鳥居だ。その土台は水に沈んでいる。其処が禎の言ってい
た野瀬川の源流なのだろう。
「夜津…」
千本木が不図呟いた。朱はその名に禎が如何反応するのか目を凝らし見守った。けれど禎はまる
でその言葉を聞かなかったような涼しい顔をしている。
「み…見たのよ…」
朱の口から言葉が吐いて出た。
「貴方たちは…私の眼が完全に視得なく成ったと思っていたのね。…違うわ。昼間だったら朦り
と眼が利くのよ」
何故こんな言葉が自分の口から出てくるのか―――――朱には解らなかった。言葉は初めから在
って、朱はその為に存在するようだった。
「楽譜に挟まれた、白い、封筒」
唾液の嚥下する音が響く。
朱は千本木のだらりと延びた手を握った。
「あれは…恋文ね…」
 益々明るくなる森の中。
 幾つもの珠が浮いていた。
 火の尾を引いてゆっくりと移動する。
 ―――――人魂だ。
鐘の音が続いている。
 低く鈍い、音だ。地中から響き、足許で誰かが呪詛しているような、陰気な、暗い音だった。
地獄で科人が人でない妖物に苛まれている様を連想させた。否、あの地獄絵だ。大きな鎚と鉗、
多量の炭で以って、人道に悖った人々を苛むあの地獄絵だ。
 火の珠は、幾つも幾つも、次第にその数を増し、四辺は真昼のような明るさだった。
朱の口が開いた。
「宛名は…埋木…禎…。せんさんの手蹟だわ…」
千畝を『千さん』と呼ぶのはその細女蔓だけである。朱はゆっくりと瞑目した。零れ落ちる温か
い涙。
…そうだ…。宛名は『埋木禎』だ。
―――――昼間に見た夢だ。
 西の座敷には未だ人の気配があった。床には白い花と雪洞。平書院の障子越しに夏の日差しが
和らかい。その前には文机があった。飴色をした欅造の文机には楽譜が乗っていた。譜読みがされ
所々に書き込みが見えるその楽譜の中から、手紙が出てくるのを、朱は慥かに見ていた。
 不意に、千本木は、実姉の名を呼んだ。
「待てっ、夜津…、夜津姉さんっ」
朱の手を話し、千本木は鳥居に走った。
「待て―――――っ」
六代翁を世話していた千本木夜津はいつからか名前を呼ばなくては反応を示さなくなったらし
い。夜津の死を告げる千本木は電話口で語った。
電話口での彼の声は嗚咽に、聞き取りが難しかった。
 夜津が小川の畦を歩いている。野風が着物の裾を翻らせる。白いはぎ
覗いた。風は彼女の胸を押し遣り、其の儘泉に沈んだ。緑葉が浮き、朽ち葉沈み、底が深緑
に暗く、森に抱かれた小さな泉。
沈んだ儘、浮かんでこない。いつまでも、浮かんでこない。誰も、彼女の行方を知らない。
一夜、緩やかな水に流され続けられ、彼女が浮かんだのは、湖だった。
 未だ終らない、鐘の音。
 火の珠は森を無数に取り巻いていた。流れる微かな水音が人に因って乱されて聞こえた。
「押したのは…風じゃないっ」
朱は叫んだ。
 眼を開くと禎も鳥居に向かっていた。
其処に何が在るのか―――――
腰を抜かしているのか、朱はまるで動けない。鳥居へ向う禎の後姿を見詰めていた。
「夜津さんを…あの女性を沈めたのは…兄さんよ…」
水を歩む音が聞こえた。
夜津の胸を押したには野風ではない―――――
『それ』を知っていたことを知った彼が、口封じに沈めたのだ。








 男の甲高い叫び声が轟き、烈しく水面を叩く音が重なった。








未だ終らない鐘の音―――――
否、心音のように低く、胎内を苛む鐘の音は―――――
途切れた。
四辺は一瞬にして、暗黒と化した。そして、森閑とした。視界は黒く塗潰され、自分と闇の境さ
え覚束無い。
 千本木は泉の底に臀をつき、胸まで水に浸かっていた。
その脇には禎が立っている。
泉の上には木々が空を開けていた。
眩い月が覗いていた。br> 千本木の足許には、水中のもに包まれた白い人骨があった。
禎は顔を和らげてそれを呼んだ。


「千畝さん」


木々が騒めき、再び鐘が聞こえ始めた。
もう何処にも火の珠はなかった。
迎えの鐘は、低く、陰気な音である。奇麗に響かない。地中から聞こえてくるような錯覚を齎す。








いつしか坊主の回向を唱う念仏が重なった。





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