千燈會の夜
14



通りは静かだ。
低い鐘の音が聞こえている。
低い、低い、地獄の音だ―――――
死者の黄泉還る、鐘の音。
人の溢れた道は右に緩く曲がっている。
その緩やかな角に塵如寺はある。
…朱がずっと避け続けた禁忌だ。
少しだけ震えた。狐がちらりと朱を見た。
 此所であの少年は行ってしまったのだ―――――
朱を置いて、此の人波の向こうへ。此の人物が知る由もない。
 不図、燈りが途絶えた。
人垣が出来ている。鐘の音が大きく聞こえていた。鐘を撞く順番を待っているのだ。一夜此の人
垣は続くのだ。
 境内にも燈りはない。
ただ金堂の半蔀の向こうに、蝋が揺らいでいた。朱は鐘の列を離れて金堂へ駆け寄った。
 朦と蝋に照らされた一幅の軸。
それは、地獄絵だった。人が獄卒に、苛まれている。思わず朱は此の暑さの中でもぞっとし、肩
を引くと誰かに抱き留められた。
「よく御覧、人道に悖る行為はこうして罰せられる…」
囁かれた男の声に思わず緊張して、ゆっくりと振り返った。狐の面の口部分に人差し指を宛がっ
ていた。

―――――声を出すな。

それは千本木ではない。古びた狐の面。
あの…あの少年のものだ―――――
 手を引かれる。庫裏の横を抜け夜陰に呑まれた。もう人の気配もない。其処は寺の背後に拡が
る、大きな野瀬の森。
 闇。
 無明の闇。
 あの老人の窓の向こうに拡がっていた、口を開けていた闇だ。思わず、震えた。
「野瀬の森だよ。彼処…といっても見えないな、彼処に鳥居がある。泉があるんだ。其処が野瀬
川の源流」
口が利けない。
「ずっと流れて…いつか、湖に注ぎ込む」
焦燥が募った。此所にいてはいけないと。帰らなくちゃ…と。あの鐘を撞かなくてはと。遠く低
い鐘の音のする方へ跫を出すが、腕を掴まれ、一向に進むことが出来ない。
「行かなくちゃ…」
呟いて何とか掴む手を解こうと試みるが、無駄だった。
手は朱を離そうとしない。
「辞めて…辞めてよ!あ…貴方は…あの時行っちゃったじゃない!あの時私を置いて…彼処へ行
ってしまったんじゃない…!―――――お父さんと」
朱が叫んだ。
「還って来ないで…来ないで…ひ人殺しィっ」
自分が何を叫んでいるのか、最早分からなかった。顔は涙と洟水で濡れていて、頭に中を廻る虚
実が言葉と成って口を吐いた。
「朱っ」
呼ぶ声が聞こえた。
「助けて救けて…先生…お母さん!」
母を呼ぶ声に、不図手が緩んだ。

 母見た、母見た、はらみった―――――

読経が童唄のように、聞こえた。
ぼう、と光が浮かんだ。声が出ない。誰かが立っている。あ、と口を開いた。その言葉を口に出
そうとした時、彼の声が重なった。
「千畝さん…」
茫洋とした声が―――――父の名を、呼んだ。
光があった。
それは提灯だった。両の横に南無阿弥陀仏と念仏が記された提灯である。
寺の物を失敬してきたのだろう。其処横に浮かぶ顔があった。
素面で顔を厳しく歪めた男の顔だった。
「先生…」
呟くと手が伸びて朱の腕を掴み乱暴に引き寄せた。
左跫の下駄が脱げ、暗闇に消えた。
「俺は…千畝さんに、肖ているか?―――――禎」
千本木は叔父の名を呼んだ。
何処かで鐘の音が聞こえている。
低い、低い、鐘の音だ。
些かも奇麗に響かない。
足許から、地中から、聞こえている。
そんな錯覚を齎すように、鐘の音には距離感が無かった。
「姉さん、千畝さん」
彼は燈りに浮かぶ朱と千本木に臨んで、『ちちはは』の名を呼んだ。
父の名は旧姓六代千畝と言った。
六代半蔵の息子で、千本木の父親が千畝の従兄弟だった。
「…噫…還って来たんだね…」
彼の声が震えていた。
「やっと…やっと還って来てくれたんだ。姉さん…」
漸く彼は狐の面を外した。
面の下には能く知った顔があった。
柔和な色の白く、何処か印象が薄い、如何にも整った容貌。
埋木禎だった。
朱は千本木の足許に崩れ落ちた。
「禎兄さん…」
朱の呼び声は余りに小さくて、そして嗚咽と成って、禎には届かなかっただろう。
鐘の音が低く続く。
「姉さん…貴女に会う為に、幾度此所へ来たか知れない…」
姪を見詰めた睛は、不意に熱を帯びてその背後へ向けられる。
「千畝さん…何故貴方が此所にいるんです?何故未だ姉さんと共にいるんです……。あの時、僕
の手を取って、一緒に行こうと言ってくれたじゃないですか。なのに…何故…」
朱と千本木は何も言えず、ただ無言で、霊寄せを行う男を、見ていた。

―――――死者は、戻ってきていたのだ

埋木禎の前に。
「此所で僕を抱いて呉れたじゃないかっっ」
禎が絶叫した。





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