千燈會の夜
13



―――――姉は湖に浮いていた
 

今日は盆の入りの日だ。此の町では夕方に御霊を迎えに行く。
「ちちはは恋しや。……ちちはは、ちち…」
それは埋木の絶対的な禁忌。
納戸のピアノは、父の物なのだろう。
そう直感して朱は縁側に寝転がり目を鎖した。
汗が額から蟀谷に伝った。
板床を誰かが歩いてきた。
誰だろうか。
皆弔いに出掛けてしまって、此の家屋には朱しかいない筈だのに。
それでも朱は起きることさえ煩わしく、其の儘目を瞑り続けた。
―――――座敷へ入って行く。
部屋の情景が朦りと思い浮かんだ。
床には延齢草があった。その横に雪洞がある。西の座敷は人が住んでいるような気配を漂わせて
いた。朱が終ぞ味わったことの無い気色だ。
床横の平書院前には文机があっての楽譜が置かれている。
その楽譜の中から、それをそっと取り出す。
手紙だ。
白い封筒。
逢引の誘い文句でも記されているのか、と下世話なことを思ってしまう。
宛名が垣間見えた。
それは―――――彼女のものではない。
躰を揺すられていた。
「起きなさい。朱、」
瞼を押し上げると禎の顔が其処にあった。
「兄さん―――――」
声が惚けていた。どうやら寝入っていたようだ。
「制服姿でこんな処で何してるんだ?」
「寝てたの」
朱は起き上がり、見れば禎は既に黒い背広姿ではない。手に何やら携えている。
「それは何?」
「絃重さんからね、今朝電話があって新作ができたって」
包みを掲げて見せた。
紫色の袱紗に黒い御重が覗いていた。
「主菓子だよ」
絃重菓舗は外の京町にある老舗の和菓子屋である。旧くから埋木家に菓子を納めていて、今でも
新しい品が出来ると届けてくれるのだった。
「新しいの?」
「そう、」
吹くさを解くと主人の筆であろうか、『もらひ水』と記された品書きがあった。小さな漆の御
重。蓋には埋木の家紋が蒔絵されていた。長年我が家に納める際に使われてきた絃重の所有物だっ
た。 朝顔。
咲くか否かの風情が、双つ、色違いが収まっていた。
「双つだけ?」
「いいや、あと三つはお勝手に置いてきたよ」
「朝顔に釣瓶取られてもらひ水、ね」
恐らく菓子の由来であろう加賀千代女の句を呟き、暫しその風情を愛でた。








 燈は何処にも見えなかった。ただ暗く、時折聞こえる蟲の音が現つを知らせる。
浴衣姿に下駄履きで到底歩き易くはない。
跫の痛みを堪えつつ、橋の袂を目指した。
橋の往来を行く者はいない。
何処か四辺はしんと静まり返っていた。
待ち人が橋の欄干に肘を付き、凭れて煙草を咥えているのを見て、頭を下げた。
「すみません、遅れてしまって」 狐面を片手に持ち、左眉を持ち上げて此方を見遣った待ち人は笑った。今日も眼鏡は掛けていな
かった。
「否、俺が早く来たんだ。朱は時間ぴったり」
左腕に嵌めた時計を掲げた。
秒針が待ち合わせ時刻丁度を示した。
「女の子との待ち合わせってのはいいもんだねぇ。嬉しくて早く来ちゃった」
彼は橋の下を臨んで下卑て笑った。朱は少しだけ呆れて千本木を見た。
橋の上流は暗い。
上流の闇を野瀬の森と言う。
嘗て約束したように千本木は狐の面を持っていたが、恰好はジーンズと襯衣であった。
「約束違反だと思いませんか?」
「一人じゃ着付けができないんですよ、お嬢さん。それとも君が着せてくれる?」
「冗談でしょ」
「いいもんがみられるぜ。俺、いい男だから」
「自分で言っていれば世話が無いと思いません?」
「お前は、いつもきついねえ」
快活に千本木は笑った。
「気の強い奴は好きだよ」
人を揶揄うことが好きな人物だ。朱は白地な溜息を落とした。
「行く?」
軽く問われて、朱はゆっくりと頷いた。
此所まで来て怖気付くことは、赦されない。








 野瀬川に架かる壽橋は然程長い距離ではない。
だのに、朱にはその向こうに見えるぼうとした燈が遠く、遠い向こうに、此の橋が其処までも続
くかのように感じていた。
「先生、」
「何?」
「…あの人は何をしたの?」
応えない。
「先生のお姉さんに、」
千本木は紫煙を燻らせてゆっくりと笑った。
「何も。…何もしてないよ。禎はただ居ただけなんだ。そして夜津は禎に惚れて―――――。夜
津は狂った、それだけだ」
夜津と云う固有名詞を初めて聞く。千本木の姉の名前だ。
先に千本木は一人では着付けが出来ないと言っていたが、千本木は出来ない約束をするような人
物ではないだろう。では、夜津が死んだ為に約束を守れなかったと言うことではないだろうか。
朱は心が痛んだ。
「―――――先生は…兄さんを恨んでる?」
「まさか。恨んじゃいないさ。凡ては夜津の勝手だろう?第一、禎は俺の友人だ」
千本木が黙った。
その顔からは笑みも消えた。
「…兄さんには、好きな人、がいたのね?」
何も答えない。
彼の顔はただ―――――青い。
「兄さんの好きな人は―――――」
橋が途絶えた。
もう口を利くことは容されない。
面を被りちょっと顔を見合わせた。
千本木が朱の腕を取る。寄り添って歩き始めた。
傍からは二人は如何見えるだろうか。
 燈籠が往来を埋め尽くしていた。人が仰山と居た。人の佃煮が出来るほどだ―――――と朱は
ちょっと狐面の内で笑った。





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