千燈會の夜
12



祖母は足早に遣って来て、蓋を乱暴に閉じた。
「こんなものを二度と開けないで頂戴。触れないで。あの男のものなぞに」
それだけをきつく厳命するように言って、祖母は去って言った。矍鑠とした老婆の姿に朱は見蕩
れていた。珍しいこともある―――――と朱は納戸を見渡した。
平生彼女がこの西の座敷近辺に近付くことは有り得ない。
汗が額から伝って、黒いピアノの蓋に落ちる。それを見て自分が緊張していることに気が付い
た。 此のピアノは母のものではないのだろうか。
何故禎はこっそりとピアノを弾かなくてならなかったのだろうか。
躰が―――――震えた。
祖母の言う『あの男』とは誰のことだろうか―――――
ピアノの蓋に落ちた汗凝視していると、その球体の表層に自分以外の人影が映りこんだ。
―――――禎が立っていた。
「今、其処で母さんと行き違ったよ。何だか怖い顔をしていたから…もしかしてと思ったけど」
禎がピアノのまで屈んだ。
小さな金属音が聞こえた。
手には小さな鍵を持っていた。
「こんなものには触らない方が良い」
「…兄さんが…ピアノを辞めたのは、怒られたから?」
「違うよ」
少し笑って頭を振った。
「多分、父さんも母さんも僕がピアノを弾いていたことさえ知らないだろうな」
それも意外ではなかった。
禎は家人に知られないように殊更気を使っていたから。
「弾くのを辞めたのは―――――年齢の所為だよ」
含むように再び笑った。
禎は今年で二十五歳である。年老いたと言うことではないだろう。
では―――――
「お母さんが死んだ時って、兄さんは幾つだったの?」
「十四歳。今の朱と同じ歳。八月の十三日。暑い日で―――――。朱は未だ四つだった。僕は朱
をあやしていた」
「あやしていたって、」
少しだけ気恥ずかしかった。
「朱はそのうち睡ってしまったけどね」
そして、悲鳴―――――
「それから?」
禎は肩を竦めた。
「それだけだよ」
鍵をズボンに仕舞うと禎は一人納戸を出てしまった。
禎は此所へピアノの鍵を掛けにきたのだ。
二度と人がそれに触れないように。
自分も、誰も、凡て―――――








 明け方に電話が響いて何だか厭な予感がした。
禎は離れで電話は届かない。祖父母は電話にでることは決して無い。加賀が居ない時分に応対す
るのは朱だった。
夏の漸く空気が熱気を冷ました頃合に、鈍々と寝床を這い出た。
受話器の向こうに居たのは、千本木だった。
「―――――朱か?」
返事をする以前に、こんな時間に電話を掛けてくるのは非常識だ、と咎めようと思い口を開いた
が、不意に此れも計算尽くだと言うことに気付き、朱は口を閉ざした。千本木は当方の事情に詳し
いように思えた。ならばこの時分に電話を掛けてくるのは―――――自明だ。禎に聞かれたくない
類の話なのだ。
「朱?」
「あ…はい」
受話器越しに沈黙が続いた。
「…姉さんが死んだんだ…」
「え、」
何と言ったら良いのか―――――分からない。
彼女の顔さえ朧気にしか知らない。たった一度、六代の家で会った、否顔を合わせただけだ。
恐らく彼女は朱のことなど知りもすまい。
ご愁傷さま、と云う言葉さえ空々しく感じられる。
「あ…あの、お葬式は…」
「来ないで欲しい。禎にも…知らせないでくれ」
何も言えない。
朱は知る。
彼女は、禎が、殺したのだ―――――。
朱は受話器を静かに降ろした。








 例によって、朱は復母の弔いに赴かなかった。
不義理なことこの上ないが、顔も知らない母に何の感慨も湧かないのだ。
生年二十五歳であったの母は今の禎と同じ歳だ。
そう確認することで漸く身近に感じられるほど、母の存在は遠かった。
 朱は制服で日中を過ごしていた。
喪服の心算である。生憎と朱は喪服を持っていないのだ。
それは母の弔いではない。今日は千本木夜津の葬儀だった。
一度めぐり合っただけの、女性。
何処か稚い表情をする女だった。
西の座敷の縁側に腰掛けた。
砌が照る日に灼かれ、庭の築山は茫茫と草木に覆い尽くされ隠れている。
蝉の声が煩わしかった、
朱は白菊の長細い瓣を散らしていた。

「鬼老いて
 故郷の廃屋の月に泣く
 どこか遠くで念仏の
 母見た 母見た はらみった
 おぼろに霞むその声に
 千千に砕いた月の影
 ひとりぽっちの鬼が泣く
 ああ昔恋しや
 ちちはは恋しや」

童唄を口吟んで、足許に散った白さを見詰めていた。
鼓動が早鐘を打っている。








千本木との待ち合わせまで未だ十時間もある。今からこんなに緊張してどうするのだろうと思う
のだが、治まらない。潮騒のようだ、と思う。
尤も海など数度しか見たことが無い。
「どこか遠くで念仏の…母見た、母見た…はらみった、」
母と弔う念仏は、此所までは届かない。
「ひとちぽっちの鬼が泣く ああ昔恋しや、ちちはは恋しや…」
菊の瓣を鷲掴みにして凡て散らせると、朱は茎を池に向かって放った。既に魚も居ない、手入れ
のはいっていない池だ。緑色に濁っている。しかし此の水もいずれ湖へ出る。
千本木の言葉が不図黄泉還った。





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