千燈會の夜
11



「お母さんも、こうして加賀さんと一緒にお勝手仕事をしていたのかな、」
生きていたら―――――
加賀が、復、小さく笑う。
「お嬢さん、あ、御免なさい、お嬢さんのことではなくて、蔓さんのことですよ。蔓さんは一度
も一緒に此所へ立ったことはありませんよ」
「…どうして?」朱は頬杖をついていた左手を顎から外す。
「あの眼では無理でしょう?」
加賀は初老の顔に更に皺を寄せて優しく笑った。
朱は加賀が何を云っているのか分からなかった。
否すぐにその言葉を咀嚼することが不可能だったのだ。 「お嬢さん?」
「………お母さんは…もしかして、」
一呼吸置いた。
その言葉を発する前に心を落ち着かせたかった。
「眼が―――――悪かったの?いいえ…視えなかったのね…」
初めて知った。そんな話は祖父母や禎から一遍たりとも聞いたことは無かった。
延齢草を思い出す。
禎が六代からあの小さな花を貰ってきた時、彼はなんと言っただろう。
『姉さんが好きだったんだよ。此の花。彼女は胃腸も悪かったからね、此の根は胃腸薬に
も成るんだ』
彼女は胃腸も悪かった。
胃腸 . ―――――
禎の言葉が幾度も繰り返し朱の脳裏に甦った。
あの『も』と云う系助詞は別の前提があるからこそ生きる言葉ではないのか。
弟があるのに、婿を取った母。
何故なのか、ずっと疑問だった。
―――――彼女は此の家から出られなかったのだ。
「禎さんが探してましたよ。その浴衣は御納戸部屋に持って行って下さいね。衣紋に掛けて置き
ますから」
朱は肯いて勝手を出る。其の儘自室へ行き、暫し茫然としていた。
余りに強い衝撃。
母のことさえ何も知らないのだ。








 御納戸部屋に入り込むと暗く何処か冷りとした空気に少しだけ息を詰めた。暗い二十畳程の広
さには桐箪笥と行李が犇いている。先祖伝来の衣装や家族四人の季節違えの衣類が此所に集約され
ているのだ。
否きっと此の中で最も多いものは―――――蔓のものだろう。
経済事情などで先祖伝来の品を切り売りしなくてはならない時でも祖父母が蔓の所有物を処分す
ることは決してないのだ。
蔓を祖父母は溺愛していた。
その理由が少しだけ分かったような気がした。
―――――彼女が眼が見えなかったのだ。
恐らく人の手を借りねば、日常生活が送れなかったのだろう。祖父母はだからこそ蔓を愛した。
夢遊病者のように朱は庭へ出た。
不意に眼の前に離れが出現した。
禎の住いだ。
戸を叩くが反応は無かった。
「兄さん、」
再び戸を叩く。
「禎兄さん、」
月が出ていた。
新月から然程経っていない月は朧に夜空に浮かんでいた。朱は思わず息を飲んだ。
「お帰り―――――遅かったね」
背後から声がした。
禎だ。
朱は振り合えり、身の内に沸き上がる怒気を露にした。
「兄さん、貴方は…何を隠しているの!?なんで何も云ってくれないの!?」
「何も隠していない」
虚偽うそだっ。お母さんが眼が視えないことだって何も…何もっ…」
兄さん、と叫んだ。
「嘘じゃないよ。ただ、朱は何も知らなくていいんだ」
禎は優しい声で、穏やかに笑った。
優しく遮断した。
何故禎は本当の兄のような慈愛を見せるのだろう。これ程手厳しく優しく穏やかに否定するのに。
何も朱に真実を教えてくれないのに。
「知れば…」
続く言葉は聞かれなかった。
禎を振り仰ぐとその背後に見えた月が、朧な月が、眩しかった。
大きな手が頬に降る。
ハンカチが宛てがわれた。それを見て、漸く自身が泣いていることを知った。
智積を思い出した。
…彼女にハンカチを借りたことがあった。あれは、返しただろうか。彼女とは夏が終るまで会う
ことは無いだろう。
千燈会も断ってしまった。
不義理ばかりをしている―――――。寄せてくれる好意に何も返せていない。だのに智積は何の
屈託も見せない。
 荒れ果てた庭。
草木は自然の儘に育ち其処は森と化している。
夏の夜の草いきれに苦しかった。
禎の背後で蛍が一つ飛び立つのを、注視していた。








 西の座敷は少し黴臭い。
ずっと締め切っていて、禎以外誰も立ち入ろうとしない。
御納戸部屋はすぐ傍だ。西の座敷とは廊下を挟んだその反対側にあった。
 ピアノは納戸に仕舞われいる。朱は幼い頃度々聞こえるピアノの音に誘われて幾度と無く納戸
を訪れた。
その度に禎は驚いたようだった。
納戸は扉以外を厚い漆喰の壁で固められ出入口も厚い鉄の扉が二重に設置されているのだ。禎が
小さな通風孔を開けない限り外部に音が漏れることはないに、いつも微かな音を聞きつけて朱は納
戸へ遣って来た。禎がピアノを弾いていることは秘密だった。
いつの頃からはしらないが、禎は六代にピアノを習っていたらしい。
朱は鍵盤を押した。
音が出る。
未だ音は狂っていないようだった。
此のピアノは母が弾いていたのだろうか。
「何をやっているの?泥棒みたいにこそこそと、」
咎める強い言葉に顔を上げると納戸口には祖母が立っていた。真白に染まった神を結い上げて上
等な越後上布に身を包んでいた。
彼女の声を聞いたのも久し振りで朱は少しだけ顔を綻ばせた。
咎めるような口調はいつものことなので気に成らない。
「あ、いいえ。ちょっと弄っただけ、」





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