千燈會の夜
10



「心理学、」
「あ、今ちょっと如何わしいって思っただろう。そういう物じゃないよ。もっと科学的。科学
じゃないけどね。統計学って云っても好いかな。確率だね」
そもそも心理学と云うものが能く分からない。朱は千本木の話を聞きながら、湖を見詰めていた。
「ジグムント先生の著作にね、こういうものがある―――――」
或る夫婦の事例。
夫は妻に軽い不満を抱えていた。
妻は或る日夫の為に本を買ってきて夫はそれに喜んだ―――――がいつもその本を仕舞った場所
を忘れてしまう。或る時、姑が病に罹り、妻はその看病に行く。献身的な看病に心打たれた夫は夢
遊病者のような確かさで机の一番上の引き出しを開けて行方不明だった本を見付け出す。
「つまり、だ。物忘れと云うもんは潜在的な記憶………忘れ去っている記憶、つまり無意識と繋
がりがあるってこと、かな…」
「妻に対する不満が本の所在を忘れさせて、不満が解消されたら本が見つかってった言うことで
すか?」
朱は頸を傾いだ。
「能く…分からないんですけど…。ジグムントとか言う人も知らないし…。それにこじ付けに聞
こえる。旦那さんが行方不明の本を見つけたことを偶然じゃないって誰が言い切れるの?」
千本木ズボンからまた煙草を取り出した。
「いい?」
と断わりを入れる。
火を点け、苦笑していた。
「そうだねぇ…俺もそう思うよ。多分、偶然なんだ」
偶然と千本木は呟きながら幾度と無く肯いた。適度な距離を保って二人は並んで立っていた。
「千本木先生って六代先生のご親戚なんですね。…知らなかった…」
「禎が云ったの?」
朱は肯いた。
「君が六代先生の処に行った時、女性がいただろう?」
「はい。先生のお姉さんだって聞きました」
「それも、禎から?」
「あ、はい」
訝しがっているような千本木。
「うん、俺の姉さんなんだけど、一寸此所の病でね」
千本木は拳で胸を叩いた。
「…胸―――――心臓、ですか?」
青い顔色を思い出した。
「否、こころの病」
「こころ…」
「そう、心の病。彼女はね、恋に破れて此所を病んだ」
今度は強い調子で胸を叩いた。
「先生、お願いがあるんですが、」
手に煙草を掴み、千本木は横目に朱を見て左眉を上げた。
「お願いねえ、何?云って御覧なさい。禎には出来ないことなんだろう?」
読心術でもあるのではないか、と朱は少しだけ驚く。
「十三日、壽橋へ来てくれませんか?夜。お願い、出来ますか?」
 
橋の向うには人魂が幾つも浮かんで見える。
其処は死者が集う、迎えの場だから…

朱は相変わらず湖を凝視していた。
湖は潮の満ち干きも無いのに小波が押し寄せては返していた。千本木は煙草を始末して、朱の腕
を掴んだ。
成長期も途中の細い二の腕は千本木の手が廻った。
漸く朱は千本木を見る。
「いいよ、一緒に行こう。何で行く?」
千燈会は面を着けることが倣いなのだ。
「キツネ…狐の御面持ってませんか?」
「狐?」
「ええ。私たちが狐の兄妹に見えるように」
腕を離すと朱は再び湖を見詰めた。
「家まで送っていこうか、」
頸を振った。禎と千本木を会わせたくなった。
「先生、お姉さんのお相手は、誰だったんですか?」
問いながら、朱は千本木へ一瞥も呉れない。笑いながら千本木は少し咳き込んだ。
「誰だと思う?」
「…兄さんでしょう?禎兄さん……埋木禎―――――」
「禎から?」
千本木の問いは、回答だった。朱は目線を足許に向け、小さく頸を振った。
実際何も聞いていない。
禎が云ったことは、彼女が自分の恋人でないこと、だけだ。
「じゃあ、私帰ります」
「気を付けて帰れよ。寄り道しないように。知らない人にほいほいついてくなよ」
最後に漸く教師らしいことを云って朱は苦笑した。
砂浜に跫を取られながら朱は元来た道を戻る。千本木は朱の後姿を見詰めていた。不意に朱は振り返った。
「先生、」
随分遠くなった千本木に声を張り上げた。
「私、お父さんに会いたいんです―――――」
それだけで朱は二度と振り返らなかった。








 外灯の無い闇中を勝手口へ行く。
三和土へ入って行く。此の自分に正面から言えへ上がることは流石に躊躇った。勝手口を開ける
と、加賀が夕食後の食器を片付けて居る最中だった。
「あらお嬢さん。お帰りですか?」
「加賀さん…」
「お嬢さんがこんな時分に出歩くのは感心しませんよ。こっそりと此処へ入ってくるなんて以て
の外です」
咎め言葉だったが口調は軽快だった。 勝手口に錠を下ろすと、土間にはりだした框へ腰掛けた。その間加賀へ手を止めることも朱を見
ることもしない。
「加賀さんて働き者よね」
声を立てて加賀は小さく笑った。
「何を言うんですか。私は家政を賄う為に此所へお勤めしているんですよ」
「私兄さんについて廻るような、お兄さん子だったじゃない。だから此所でこうして加賀さんの
仕事みるの初めて」
祖父母に代わり、主に朱の世話を看たのは叔父の禎であり、加賀であった。朱は特に禎に懐き、
余程のこといがいでは加賀の許に行くことさえなかった。





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