千燈會の夜
09



否、禎の生活こそが穏やかだった。
 禎の友人は大学を卒業し働き、七十歳の六代は此の夏まで教師を勤めた。だのに禎は大学卒業
後此の家に引き隠り、家から出ようともしない。千本木が云うには嘗ては喫していた煙草も辞め、
もうピアノも決して弾かないと云う。
…まるで幾許もない老人の余生を見ているようだった。
穏やかな顔をしている禎。
「怖い…?」
「千燈会は奇妙な祭だろう………静かな祭だ。人は沢山いて、通りに吊るされた灯籠で周囲は明
るい。だせれど、皆仮面を掛けて、口も利かない。聞こえるのは静かな雑踏と、低く響かない鉦の
音だけ。あれはね、迎えの鉦って言うんだよ」
不意に空が翳った。
見上げれば青い空なんて何処にも無かった。上空は雲に覆われて
何処かで一声、霹靂がした。

「あ。雨…」
「…大丈夫だよ。俄雨だ。すぐに明るくなる」
降り出した雨に濃い土の臭いが香った。
「なんで厭なの?怖い、とか云われたって…分からない」
「面を被って、口を利いては成らないのは、何でだと思う?」
「さあ、」
驟雨が地面や木々の葉や屋根や石を叩きつける。
家内を走る跫音が聞こえる。加賀が洗濯物の取り込みに急いているのだ。その跫音のする間、二
人は黙っていた。
「────還って来るんだよ」
叔父の声が雨音に紛れて途切れ途切れに聞こえた。
「死んだ人たちが還って来るんだ。彼らは面をつけてあの人込みに紛れているらしい。……だか
ら口を利いてはならないし、面を外しても成らない」
「………死んだ人に会えるの………?」
禎は雨の景色を一眺めして、肯いた。砌に庇から雨滴が落ちて、その跳ね返りが四方へ散った。
縁側から垂らしていた朱の素足が雨に濡れる。
「……私…会いたい、な」
再び空を見ている。
「お母さんに…」
禎は何も答えなかった。此の驟雨に聞こえなかったのかもしれない。朱はそっと目を閉じた。
復、何処かで霹靂がした。

 西の座敷で縊を括って死んだ母────

朱は憶えていない。朱には五歳以前の記憶がないのだ。母の顔さえ覚えていない。元より母と云
う存在を知らない朱に、母の死という感慨はまるでない。
ただ────それでも、否────だからこそ、逢ってみたいと、ずっと思っていたのだ。
 禎の言った通り、間もなく空は霽れ上がった。
既に周囲は、夕闇に押し包まれて薄暗い。朱の隣に禎はいなくなっていた。朱は加賀と選んだ浴
衣を着ていた。華やかなものに抵抗ある朱は、黒地に赤い小花が散った浴衣を着ていた。それも
母のものである。
御納戸部屋の長持の衣装は全て母のものだった。
帯は真珠色に裏は薄紅色、下駄の鼻緒はくすんだ黄色だ。
居間で祖父母が入ってくるのを待っていた。
祖父母は朱に無関心だった。食事を共にしていても何も話さない。食卓は無言で過ぎる。
ただ、蔓のことに関してだけ、彼らは生きているようだった。
 直きに居間に入って来たのは祖父だった。頭は白髪に覆われて頂は薄く、面長でエビ茶色の長
着姿だった。厳しい顔は相変わらずだ。彼は孫を一瞥しても、声も掛けない。手にした新聞を卓
に広げた。
声を開けてくれるまでじっと待とうかと考えたが、すぐに翻した。
そんなことを待っても仕方無いのだ。
決して在り無いことなのだから。
「お祖父さん、」
声を掛けるが、彼は新聞から目も逸らさない。
────落胆はない。
いつものことだからだ。
「一寸、松原に行ってきます。加賀さんに伝えて下さい」
祖父から返事も無かった。
未だ耳は遠くない。








 朱は庭へ降り立ち、屋敷を出て行った。
所々ににわたずみが出来ていた。
外堀の欅通りを左に折れて、真直ぐ進むと、弘道館と云う剣道場と、百景亭と言う嘗ての藩主の
別邸の前を通る。
人影は疎らだった。
欅並木は御堀の終りと一緒に無くなり、道は僅かに下り始める。
真直ぐに続く道は歩行者を湖へと導いた。
 松原ちは湖の汀に広がる松林のことだ。
砂浜を右へ向った。
松が立ち並ぶ方向に背の高い人物の黒い影が見えた。
それが待ち人であることはすぐに知れた。
「すみません、呼び立てして」
朱は千本木の前に立ち頭を下げた。
彼は学校と変わらない恰好で煙草を吸っていた。
但し眼鏡は無い。
千本木は左眉を器用に吊り上げて、傍に双つ並んだベンチと共に傍に有った吸殻入れへ煙草を放
った。
「可愛い恰好だねえ」
独特な笑い方をして、朱の浴衣を褒める。
「先生は眼鏡掛けてらっしゃらないんですね」
ああねぇ、と千本木は嘯きつつ、目線を湖へと転じた。
湖の遙か対岸にみえる低い山はもう黒く塗潰されていた。
「あれね、伊達なの。俺が教師になるって言ったら柄じゃないとか散々周りに云われて、眼鏡で
も掛ければ別だろうと思って」
「…先生って安易なんですね」
「おや、手厳しい」
千本木は少しだけ笑った。
禎も千本木が教師になることを反対した一人だろうか。先日の禎の口ぶりを思い出す。
酷く親しげだった。
「お前、化学の宿題忘れてただろう、」
「あ…。知ってるんですね。百地先生から訊いたんですか?」
百地は朱の化学教科担当教諭だ。千本木は朱を横目に見た。
「もしかしたら。もしかしたら、俺が化学の先生だから忘れたんじゃないかって思って。だから
此のお誘いは意外中の意外」
「邪推もいい所ですよ、」
「あ、やっぱり」
「第一なんで私が、先生が化学の先生だからって、宿題を忘れなくちゃ成らないんです?」
憤懣が積もる。
当て付けがましいおとをするほど、子供に見えるのだろうか。
「俺は化学の先生なんかやってるけど。大学では心理学を専攻してたんだ」





continued on 千燈會の夜 10