千燈會の夜
08



「彼」との手の間に汗の感触が生まれた。冷たい「彼」の手に汗が浮かんでいるのだ。
驚いたように、「彼」を見上げようとすると、他の人人に阻まれてそれは適わない。
不意に、「彼」と己の間の人が退く。
手が振り解かれた。
「彼」…少年は、握った手を振り解き、駆け出した。
彼の下駄が音を発てて、転がった。
また人の波が押し寄せる。
その下駄さえ、人込みに埋もれた。

―――――取り残された。置いて行かれたのだ。

否、其処に居る人人が人なのか―――――判らなかった。誰もが仮面を着けて、一言も話すこと
はないのだ。
 鉦の音が続いている。
鈍い鈍い、音だ。
地中から響いているような、そんな暗い音だった。
地獄で科人が、妖物に苛まれている様を連想させた。
 少女は泣き出す。
もう二度と、駆け出した「彼」が帰って来ないことを悟って―――――








 泣き喚く時自分を誰が連れて帰ったのか―――――知れない。ただ朱にはあの千燈会の記憶だけが残っているのだ。
初めは何の記憶なのか判らなかった。
 法事で塵如寺近辺に連れて行かれた時に、朱は怖くなって泣き出してしまった。だから最近になるまであの界隈に近付くことさえ出来なかったのだ。
果たしてあの少年が誰であるのか、判らない。
消えていなくなってしまった少年の話など聞いたこともなかった。
「彼」は面を着けていたし、その所為で声はくぐもっていた。そして祭の最中、口を利くことは容されていないのだ。
あれは誰だったのか。

 「ただいま…」
家へ帰ると迎えてくれるのは、加賀だ。
彼女は朱が生まれる前から此の家に勤めている。
少女時代に此の家に女中奉公に出て、嫁入りするまでは住み込んでいたとも云う。
十数年しか生きていない朱に比べて「埋木」との関わりは遥かに深いのだ。
「おかえりなさいませ。如何でしたか、」
「化学の宿題を忘れてた」
肩を竦めると、加賀は微苦笑を浮かべて「全く、お嬢さん…」と咎めるような口調を作った。
「もうすぐ千燈会なのね」
朱の呟きに、加賀は驚いた顔を見せた。
「どうなすったんです?あのお祭嫌いだって泣いてたのに」
「何時の話よ、それ」
小学校にも上がっていない時分の筈だ。 「いつまでも近付かないでいるもの何でしょう?今年は言ってみようかなって思って」
「あらまあ、どんな心境の変化でしょうね。じゃあ、御面と浴衣を選びましょうか。後で御納戸
へいらっしゃって下さい。箪笥をお出ししますから」
智積のことを不意に思い出す。
またも不義理をしてしまった。智積は気安い先輩で好意を寄せているが、彼女とあの千燈会には
行けない。
朱は禎と赴こうと思っているからだ。
面を被って、口を利かないのでは、朱がいたとしても智積が気付くことはないだろう。
着替えもせず離へ行く。
露地は乾涸びていた。
既に誰もが此の離の存在を顧みない。
離の戸を叩くが反応は無かった。
禎は耳聡みみざとだ。
彼の睡る部屋の前を通るだけで覚醒するような人物なのだ。
反応が無いと云うことは、此処にはいないと云うことだ。
少し考えたが、朱の跫は西の座敷へ向かっていた。

 「兄さん?」
襖を開けると、矢張り其処に禎がいた。丁度、母蔓が頸を吊った鴨居の真下で。屈みこんでその
箇所へ見上げているのだった。
「やあ帰ったんだ」
朱は矢張り此処へ入ることを躊躇う。跫が前へ進まない。
常だったら朱が此処を開けた時点で立ち上がり、出て行こうとするのに、禎は其処に屈んだ儘頸
だけを回し優しく微笑んだ。
彼の前には白い花が箱焼の花入れに活けられて飾られていた。
「それ…」
何処かで見た事のある花だった。
「昼間に外を出歩くの、久々でね。この暑さには閉口するよ」
小さな白い花。三枚の瓣。黄色い中心に、大降りな三枚の葉。
それは―――――
「六代先生の処で貰ってきたんだ」
禎が云った。
そうだ、六代の玄関の飾り棚でみたのだ。 「姉さんが好きだったんだよ。此の花。彼女は胃腸も悪かったからね、此の根は胃腸薬にも成る
んだ」
禎が母のことを語るのは珍しいことだった。
「さあ、もう出ようか。朱が我慢をしているなんて可哀想だ」
違う。
我慢をしているのは禎だ。
此の部屋に朱と共にいることを彼は我慢していた。そしてそれに耐えられなくなったのだ。
黙って朱は廊下に出て禎を待った。
部屋から出て来た禎の手には、白い花は無かった。
花は屍者に手向けられたのだ。
 空は青く貫けていて、遠くに積雲が見えるばかりだった。
二人は適当に廊下へ座り込んだ。
「兄さん、千燈会に行かない?」
朱はもっと自分が必死になるかと思った。
悲愴感が溢れるまでの決死の覚悟でその科白を口にするものと思っていた。
けれど現実には積雲を見詰め、青い空を眺め遣っていた。
禎は雨戸の為の柱に背を凭れて静かに頸を降った。
その顔は飽くまで穏やかで少しも戸惑った様子はない。
「行かない」
「なんで?」
相変わらず朱は空を眺めていた。湿った風が吹き込む。
心地好い。
「千燈会は…怖いから」
漸く朱は叔父へと目線を転じた。
穏やかな顔をしている―――――と感じた。





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