千燈會の夜
07



朱に五歳以前の記憶は存在しない。だから彼女は自分の母の顔を知らない。ただ時折、祖父母が
凝視していることがある。
そんな時は恐らく自分は母に似ているのだろうと感じていた。
 八月の第一週月曜日は学校の登校日だった。久し振りに全学年が登校し、教頭の談話に耳を傾
せ、幾つかの宿題を提出する実に事務的な行事である。
部活で度度登校している朱には然して感慨も無い日だった。下校に際して昇降口へ行くといつか
の既視感のように智積が居た。
「帰るの?埋木、」
「先輩、御久しぶりです」
「あんたが未だ帰って無くて良かったよ」
短く艶やかな黒髪、襟足も爽やかに白い項が日に曝されていた。
「何ですか?」
「アタシが弾いてやろうと思ってさ」
「え、」
「ピアノだよ。未だ弾手決まってないんだろう?」
智積は三年生が引退するまでのピアノ奏者だったのだ。軽快な音を出す、名手だった。
「でも先輩三年生じゃないですか、」
「引退した人間が弾いちゃいけないって法は無いだろう?受験の息抜きにもなるしさ」
笑った顔に思わず見惚れた。
「そして別の案件、」
食指ひとさしゆびを鼻先へ突き付けられる。
「あんた、千燈会に行く?」
 隣町との境に塵如寺と云う浄土宗の寺がある。
塵如寺は盂蘭盆会の祭を主催してい、それは千燈会と呼ばれていた。
奇妙な祭である。
寺の門前通りでは灯を入れた吊り灯籠を処狭しと飾り、参加者は皆、面を互いに声を掛け合うこ
とを禁じられたいた。
奇祭である。
また塵如寺は埋木家の菩提寺と云う浅からぬ縁があった。
「誘ってくれているんですが?」
「そう」
猫のように笑った。
媾曳あいびきのお誘い。如何かな?」
食指が揺れる。流石に戸惑った。
あの祭は─────苦手なのだ。
「千燈会は丁度…母の命日で…あの…」
指がすっと落ちる。
「それって、駄目ってことよね。お母さんの命日?本当に、」
「本当です」
智積は朱を凝視しながら、男のような仕草で顎を一撫でする。
「ふうん。そうか。アタシはまた、てっきりあんたの叔父さんと一緒に行くのかと思ったよ」
「禎兄さん?」
「『叔父さん』、だろう?………ま、いっか。アタシはまたあんたに振られたわけだ」
じゃあね、と手を振る智積に朱は頭を下げる。
 千燈会はもう直ぐなのだ─────。
朱は訊ねるべきか、否か。ずっと決めかねていることがあった。
五歳以前の記憶は無い。
然し、それは正確ではない。
たった一つの例外の為に。

あれは千燈会の出来事だ─────

……母が死ぬ以前の記憶であるのかも知れない。ただそれも推測で、時系列は判然としない。
漠然と感じるだけだ。
闇夜だった。
浴衣を着て、面を被り、こっそりと家を抜け出した。
四辺はただ暗く、手を繋いでいる事でしか、「彼」を確認出来なかった。
何故大人の伴も無く二人だけで千燈会に出掛けたのかは分からない。
 







 橋の向うに朧ろに見える吊り灯籠が無数の人魂のように見えていた。夜風に揺らぎ、
「此方に御出で」と子供たちを招いているように見えた。
「彼」が力を込めて手を握った。
握る「彼」の手が冷たい。見上げる。黒色のような浴衣に狐の面を着けていた。
長い襟足にじっとりと汗が浮かんでいた。自分も面を着けている。傍からは子孤の兄弟に見える
だろう。
「此の橋を渡ったら決して喋ってはいけない。話し掛けられても口を利いちゃいけない」
面に穿たれた双つの孔から覗いた黒い睛が必死な強さで凝視する。それに首肯く代わりに「彼」
の手を一層強く握った。
不意に強さを和らげて、優しく笑う。
「手を離しては駄目だよ」
今度は首肯いた。
石橋を踏み出す。
一歩。
また一歩と進む。
橋の下は真っ黒だった。灯一つ無い橋の下には暗黒が拡がっていた。幽かに聞こえる水音が其処
を川だと報せている。
 橋の終りに近付くと、その通りが人でごった返していた。
思い思いの衣と面に身を窶して、能くその人々は分からない。
「彼」は手を引いて、通りを左へ向う。人の隙間が無いほどに込み合っていて、背丈も充分でな
い身は混雑に埋もれる。
「彼」の存在は握られた手でしか確認ができない。
誰もが周囲に無関心で、自分の進む方向ばかりを見詰めていた。

─────静かだ。

そう思って、寒気がした。
奇妙な心持がした。
此れ程人が居ると云うのに、四辺は静かなのだ。
不図─────誰も口を開かないことに気がついた。
何だか─────居心地が悪かった。
人がいる静寂。
君が悪い─────
灯籠を吊るした道は僅かに右へ傾く。
道以外は全て闇に融け込んでいた。

次第に鉦の音が聞こえ出した。
鈍い低い音で、些かも響いていない。
内に隠る陰気な音だ。
 前方に人が着が出来ている。其処だけはぷっつりと灯籠が途切れていた。
面を着けた人人が小さな門から出入りを繰り返す。
門には竪額が掛っていて寺号が記されていた。





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