千燈會の夜
06



「兄さん、ご飯なんて拵えられるの?」
「おむすびくらい握れるさ」
信じられない言葉だった。だが禎も大学時代は此の家を離れていたのだ。そうした芸当も出
来ても怪訝しくはないだろう。それでも禎が家政に携わることなど考えられなかった。
 紺色の制服を脱ぐ。海兵の制服を流用した形だと言うその白い大きな衿が特徴だ。
嘗て普段まるで孫に無関心な祖母に、母が通った学校の制服だと見せられたことがあった。
そして矢張り孫に無関心な祖父は強制的に城町にある女学校への入学手続きを取った。
制服は母の時代から寸分も変わっていない。実際朱の着る制服は母の物である。
朱の部屋は南に面している。小さな双間続きの座敷であった。片方を勉強部屋として、もう
一方を寝室として使用していた。夕涼みに浴衣へ着替える。帯は簡易に兵児帯を使った。
 家内は静かだ。
広い家屋に四人と云う住人は少な過ぎる。物心着いた折から、家人の定数は変わっていない。
祖父母と叔父と己。
父母が無いことを奇妙に感じても、寂しいと思ったことは無かった。
居間には燈りが無かった。ただその向うの縁側に面した障子が開いている。朱の跫音に床から
頭が持ち上がった。禎が寝転がって団扇を煽いでいたのだ。
「此方だよ、」
手招きをされた。近付くと縁側に座布団も敷かず、寝転がった禎と不恰好な形をしたおむすび
が皿に乗っていた。
禎と皿を挿んで朱は座った。
「歪な形」
「そうかな?そんなもんじゃないのかな。おむすびって」
「おむすびってもっと奇麗な三角をしているものでしょう」
「そうかな、」
「でも、有難う」
何処にも燈は無かった。闇だけが四辺を埋めていた。庭の森の向うに鉛色をした御城の屋根瓦
が仄かに手って見えていた。
「…兄さんは…結婚しないの?」
「何故?」
朱は肩を竦める。
「質問に質問で答えるのってとっても卑怯だと思う。だって私が聞いているのは諾否で答えら
れる類じゃない。答えてから、私に質問しても好いでしょう?」
「こまっしゃくれた科白だ」
禎は苦笑した。
「そうだね、……否だ」
「何故?」
「結婚する心算がないからだよ」
余りに優しく禎が笑うので明けはおむすびを口にした。米を覆う焼き海苔とその皮下かたは濃
厚な塩の味がした。
「ちょっと塩っぱい、」
麦茶が一緒にあった。氷が中に浮き、硝子碗は汗を掻いていた。加賀がつくっていってくれた
ものだろう。彼女は麦から炒って茶を作るのだ。市販の物とはまるで風味が違った。
「好きな人が居るの?」
指に着いた塩っ気を舐めつつ訊ねた。
禎は驚いたように姪を凝視した。
「どうしてそう思う?」
先程指摘された卑怯な方法をまた禎は使用した。 「どうしてかな…。学校の皆がね、寄ると触るとそんな話をしているの。だから兄さんにもいる
のかな、って。それだけ」
単純な疑問だ。
「…今日六代先生の処へ行ってきたの…」
―――――今日、先生のことを聞いてきたぞ
禎の脳裏に黄泉還る千本木の電話。
―――――朱は何も知らないのか
不図朱はさちが俯き彼の団扇を煽ぐ手が止まっていることに気付いた。
「兄さん?」
禎が顔を上げる。
些か顔が青く見えた。
「ああ…いや。え、何?」
「だから六代先生のこと、」
白刃の先を歩むような心地がした。
「六代先生は何故兄さんのことを知ってるの?」
時間は連続している筈だ。いつも一定に流れ、澱みもない。須臾すゆは永遠に続く―――――
其儘、行くこともなく、返ることもない。
「…先生の処に女性が居なかったかい?」
「ええ、居たわ。まだ若い人よ」
「彼女は千本木の姉さんなんだ。先生のお兄さんのお孫さんでね、彼女はずっと先生のお
世話をしている。…僕が初めて御宅へお邪魔した時も、彼女がいたな」
「兄さんは―――――あの人が好きなの?」
「―――――いいや、何故?」
「…ただ、何となく。当て推量よ。もしそうなら。ロマンチックだなって思ったの」
彼女の頭の中にある図式が理解できた禎は、思わず苦笑する。
 闇は一層濃くなったようだ。風もなく、熱気が立ち籠めているようだった。こんな日は湖の
道野辺を歩きたいと思う。月が出ていればいいのに。汐のない筈の湖が僅かに小波を発てて、
その縮緬皺のような皆もに歪んだ月が浮かんでいる。
禎と朦り歩きたいと朱は夢想した。
「お風呂、もう冷めちゃったかな」
朱は立ち上がった。
居間から廊下へ跫を踏み出したとき
「お盆はもうすぐだな、」
禎の呟く声が聞こえた。








 八月は埋木家にとって忙しない月であった。
盂蘭盆会は朱の母、蔓が死んだ―――――祥月命日であるのだ。
朱に五歳以前の記憶はない。
だから彼女は母の顔さえ記憶にない。





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