千燈會の夜
05



床の枕元には文机がある。その上には小振りな薄青の萼紫陽花が飾られていた。花房の裏から
六代は写真立てを取り出した。
朱に差し出す。
未だ若い六代の横に緊張した面持ちの少年が立っている。二人とも優しい面立ちだった。
「ピアニストなんですか?」
飾られた賞状は皆某かの発表会で表彰されたものだった。
「否、手の腱を切ってしまってね。弾けなくなった」
それ以上六代は続けようとせず、また朱も聞かなかった。
「埋木くん…禎くんは承知してくれたかい?」
「あ、」
朱は本来の用件を漸く思い出した。
「いいえ、無理でした。あの人、もう弾く心算は無いって」
「そう。優しい音を出す子なのに。勿体無い」
朱は思わず笑った。
「何かな?」
「だって先生、禎兄さんのことを子供のように言うから。あの人もう大人なのに」
六代の年齢からすれば禎も未だ子供なのだろう。
「本当はそれを伝えに来たんです。先生の助言も無駄に成っちゃったって」
時計が鈍いくぐもった音を奏でた。
見れば針は八時を指していた。
「すみません。もうこんな時間なんですね。申し訳ありません、こんな時分にお尋ねして。
先生夕餉にも手を着けないで」
「否否。実は今日の夕食は苦手でね。ついでに此の暑さに食欲も無いんだ。端から喰べる心
算は無かったんだよ」
悪戯好きの少年のように笑う。朱は此の老先生が好きだった。
立ち上がると、六代が申し訳ないと言った顔をした」
「玄関まで見送りも出来ないが、気を着けてお帰り」
「はい、失礼します」
頭を下げた。
 玄関の戸を閉めて歩み出す。此の辺りは人家も疎らで寂しい道野辺だ。外灯だけが頼りで、
けれど此の道は朱を落ち着かせた。
古沢町から線路を越え、旭町の役所前の十字路を過ぎると肩を掴まれた。一瞬躰が緊張した。
振り返ると、息を切らせた男性が項垂れていた。
「兄さん、」
禎だった。
彼は顔を上げる。いつも涼しげな顔が苦い。
「…心配した…。女の子がこんな時分まで帰って来ないから…」
咎める声も切れ切れだ。
「御免なさい」
謝ると禎は姪の背を軽く叩いた。
「いいよ。無事で…良かった」
二人は歩き出した。傍からはどうみえているだろうか、と朱は一寸思いを巡らせた。
「兄さん、当ても無く此の街を探したの?」
そんなことではいつまでたっても朱は見つからなかっただろう。
禎は不意と目を逸らす。
「千本木から電話があった」
「…先生、から?」
朱は黙った。
訊ねるべきか、否か―――――迷った。
「全く彼奴が『先生』なんて夜も末だ」
「そんな人なの?」
卒の無い人に見えた。
「能く大学に行けたもんだって呆れられるくらいだ。彼奴は運が良くてね。賭け事に滅法強い
んだ。物覚えも好いし、第一要領が好い。だから勝って勝って勝って、常勝の千本木って呼ば
れてたもんだよ。『女の子』が好きでね、遂には君の処の先生だ」
「千本木先生に『朱』って呼ばれた、」
「知り合いに対して他人行儀に出来ない奴なんだ」
「私、知り合いじゃないんだけど。千本木先生のことを知ったのってつい先刻よ」
「…僕がいつも君のことを朱って呼んでいるから感染ったんだろう」
この叔父があの千本木と並ぶ様子を想像したが如何にもそぐわなかった。
二人は其の儘暫く無言で歩いた。護国神社の脇を抜け表門橋を通り、内町の中濠を渡る。
次第に闇が濃くなって行く。家家の燈しさえも見えなくなる。在るのは森と外灯ばかりだった。
闇はあの老人を思わせた。  中濠を杉、内曲輪に到ると周りには森ばかりだ。嘗て並び合っていた屋敷は廃屋と化し既に
人は無い。森は広がり、黒洞洞としたが滲み、その中空にぽっかりと御城ばかりがあった。
築地を巡らせた大きな門が見えた。埋木の往年を偲ばせる。今はもうその大門を開くことも無い。
通用にはその脇の潜り戸を使っていた。築地も辛うじて旧態を留めるに過ぎない。錠は下りて
無く、戸を潜り石畳を踏んで前栽を抜け玄関へ到った。
 家内は人が起きている気配は無かった。祖父母はもう就寝したのだろうか。最近頓に彼らの
寝付きは早い。そして恐らくは孫が帰宅していないことにさえ気付いていないだろう。
  立派な飾り棚が迎えてくれる。けれど其処には何も無い。既に機能を失って久しい。過去
の遺物に過ぎないのだ。…この家で期待することは出来ないのかもしれない。

あの、白い峻烈を。

じっと朱が棚を凝視めていると、禎が声を掛けた。
「着替えておいで。夕食未だだおう?用意しておくよ」
意外な言葉だった。
この家では食事の時分に現れない者には、用意されないのだ。加賀は既に帰ってしまっている。





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