千燈會の夜
04



家路の道すがら、自分が紙を握り締めていることに気が付いた。
千本木が書いてくれた六代の住所だった。流石に今の時分になっての訪問は迷惑になる
だろうか。
埋木の屋敷は金亀町でも内曲輪に在る為、家に近付くに連れ、次第に人家は乏しくな
る。外套の細い燈りが数メートルごとに並んでいる。家の着くまでの道程此の外灯は幾
つ有るのだろうか。
紙を強く握り締めて、朱は身を翻した。
「六代先生の処へ、行こう」
汗ばんだ手の中で丸まった紙を伸ばす。
書かれた住所は外町そとまちの古沢町にある。御濠より内に住まう者は内町うちまち以外を総称して
外町と呼んだ。
遠い。朱の跫で、片道一時間はかかるはずだ。








 旧い鄙びた民家だった。玄関の引き戸に嵌め込まれた硝子が歪んでいる。時間を偲ば
せる代物だ。意を決し、朱はその引き戸を開けた。埃の匂いがした。だからと掃除
が行き届いていないわけではない。飴色をした上り框とその奥の飾り棚には白い延
齢草が古銅の鶴頸に供えられていた。
 その小さな白さは暗がりにあって峻烈だった。
朱が見惚れていると、奥から人の気配がした。
「何方さま?」
女性の声に六代の妻君かと思ったが、如何にも若かった。現れたのは三十路に掛るかと
思わせる女性だった。朝顔を写した濃藍のうらんの浴衣に垂らし髪、そして跣だった。白い
踵。朱の制服姿に目を大きくした。
藍の青さが頬に撥ねて、何処か青白く見えた。
「まあ、学生さん、」
「あの…」
「ああ、せんせいに会いに来たのね。丁度せんせいお夕餉の時分なの」
一方的に女性が話すのに圧されていると、奥から老人の声がした。
「寸暇お待ちになっててね」
一度奥へ消えたが、直ぐに顔を出した。
「せんせいがお上がりになって欲しいって」
「あの…でも、お食事なんですよね。私、出直します」
「是非上がって欲しいって仰ってるの、せんせい」
困ったようないとけない顔をする。帰ることは罪悪に感じた。
「じゃあ、お邪魔します」
靴を脱いで框を上がると、床板が冷りと心地好い。廊下に燈りは無く、その先の部屋か
ら漏れる灯に心成しか安堵した。
 床が延べられていた。
白い敷布に上肢を起こした老人が食事にも手をつけずに、窓の外に拡がる闇を視てい
た。
「さあさ、学生さん、お座りになって。麦茶でも持って参りましょうね」
床の脇に梔子の座布団を勧められる。些か躊躇い朱は廊下に立ち尽くした。
女性が居なくなると、老人はゆっくりと闇から朱へ目線を彷徨わせた。
白目の部分が黄色が掛って見えた。老いの姿だ。
「おや、埋木くんか。能く来たねえ。その恰好は学校へ行っていたようだね」
老人…六代は座布団を軽く叩き、座れと促された。朱は怖々おずおずと従い、座布団を避けて畳へ
正座した。
「此所が能く解ったね」
「学校で当直の千本木先生に聞きました」
千本木と六代では祖父と孫のような歳の差だ。
再び六代は窓の外を見遣った。其処に何が有るのか。
 暗い。其処までも窓の外は暗かった。闇が口を開けて此の老人を飲み込もうとしてい
るようにも見えた。
「お待ち遠さま。一寸温いけど御免なさい」
女性はお盆に硝子碗を載せて遣って来た。琥珀色の液体が揺れていた。
「氷を切らせてしまって温いのよ。お世話係失格ね」
最後は六代に向かって云った。稚い彼女に朱は些かの違和感を覚えた。
「お前、もうお帰り。後のことはできるから、」
老人は女性へ優しく云う。何だか勘繰ってしまう様な濃やかな優しさだった。女性も柱
の時計を見遣って「はい、」と従順に首肯て前垂れを取った。
「ゆっくりとしてらしてね。せんせい、あたしばっかりがお話し相手じゃ退屈のような
の」
腰を痛めてから外出は無いのだろうか。床を出ることも無いのか。白い敷布は清潔で、
女性が親身に成っていることを窺わせた。
 「暑いねえ、」
女性が居なくなって静かな中でぼつりと呟いた。幼子に戸惑っているようであった。朱
も「暑いです、」と応えたが次に言葉が紡げなかった。
恐らく、千本木のことがなければ何の躊躇いもなく、様々な話を出来たはずだ。
何故此所に来たのか―――――
朱地震にも分からなくなっていた。
「今日智積先輩も一緒に来る筈だったんです。でも私が行かないって云って。でもやっ
ぱり六代先生の処に来るべきだって思って…」
「『べき』?」
六代は素早く開けの言葉を見抜く。それに答えられなかった。朱が俯くと六代は何も言
わず辺りを無言が支配した。
沈黙と云うものは居心地が悪い。
そっと顔を上げると、六代はまだ窓の外を見ていた。何も無いただの闇を。庭の気配さ
え今は感じさせない、無明の闇を。
朱は一寸部屋を見渡した。
鴨居に飾られた幾つもの額が目に入った。中の賞状は黄ばんでどれも時間を感じさせる
代物だった。六代のものだろうかと、氏名を確認すると慥かに六代の苗字が見え
る。
だが、それは別の人物の名前だった。

六代千畝ろくしろちうね

「息子、だよ」
六代が呟いた。何だか覗きをしたような後ろめたい気分になった。





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