千燈會の夜
03



「どうして?」
「禎兄さんを引っ張り出せばいいって私に知恵をつけたのって、先生なんです。前に退
職の挨拶をされに来た時に」
何故、禎がピアノを弾くことが出来ると六代は知っていたのか、朱は知れない。
「さあ…アタシも知らないけど…。教職員名簿を見れば解るんじゃないか?」
「その教職員名簿って何処で見られるんだろう」
「図書室か職員室だけど、司書は帰っただろうから。当直の先生にお願いすれば?」








 智積の助言に遵い、朱は一階の東端の職員室に赴いた。
職員室は東西に長く、普通教室のほぼ三倍の大きさである。出入り口は二箇所、共に廊
下に面している。内部には教職員用の机が三列に並んでいる。左端には大きな空間があ
り校長の大きな机がある。
 職員室は雑多な様子だ。インクと紙、埃、誰が吸うのか煙草、そんな臭いが交じり合
って犇いていた。夏期休暇と言うこともあるのか、職員室は電燈は晧々としているが人
影は無かった。
「すみません、誰かいませんか?」
声を掛けると紙と本の埋まった中の二列目の左端辺りから黒い頭が突出した。
眼鏡を掛けた理知的な男だった。
彼は手招きする。近寄って行くと色褪せたジーンズに薄く細い縦縞の撚れた襯衣という
恰好の若い男が立ち上がる。琺瑯の灰皿に煙草を押し潰した。
「よう、埋木。どうした?」
直接教科の担当を受けたことはないが、化学の教諭だった筈だ。しかし教師とは担当教
科外の生徒の氏名まで憶えているものなのか、驚いた。
「はい、えっと…」
此の教師の名前なぞ端から覚えていないが、思い出す様子を見せた。
「千本木だよ。名前覚えてないんだろう?」
見透かして薄く笑った。
「すみません…」
「いいよ、普通覚えていないもんだ」
では何故朱の名を知っているのか、疑問が沸いた。己が地味で目立つ存在でないことは
自覚している。
「禎、元気?」
「はい?」
突拍子もなく出てきた名前に正直まともに驚く。
「やっぱり禎から何にも聞いてないんだな」
「あの…千本木…先生。先生は…兄さんと知り合いなんですか?」
「『兄さん』?禎は埋木の叔父だろう。高校の時に姪がいるとは聞いたが、妹がいると
は聞いていない。彼奴相変わらず浮浪浮浪ふらふらしてんの?」
浮浪浮浪ふらふらしてません。離れで耄っとしてますけど」
「ああ…相変わらずだねぇ」
苦笑に眼鏡の奥のひとみが細まった。此の教師と叔父はどれ程
の仲なのだろうか、気に成るところだった。朱には叔父の名を呼び捨てにするような友人
が彼に居るとは知らなかった。
「埋木はどうしたの?夏休みの学校なんかに来て」
「私、合唱部に入っているんです」
「俺、当直なんだけど、今日合唱部の練習予定なんか聞いてないよ」
と云って直ぐに千本木は納得したようだった。
「そうか、六代先生か。会いに行きたいわけね。あ…待って、住所はねぇ」
千本木は机の中から小さな便箋を取り出し筆を走らせる。筆を持つ左手とは反対の手には
火の点いていない紙巻煙草を弄んでいた。
視線を感じて千本木は眉を上げる。
「禎はもう吸わない?」
「煙草ですか?…見たことないです」
そう、と呟いて千本木は薄く笑った。
「六代先生に会いに行くこと、禎は知ってるの?」
何故千本木がそんなことを問うのか分からなかった。禎と六代に繋がりがあるとは思えな
かった。
昨日の禎の様子を思い出す。
「…いいえ、」
「あ、そう。そうだよねぇ」 能く分からない―――――。千本木が何を云っているのか分からない。然し此の男は朱も
知らない何かを知っているのだ。
「それ…下さい。私、早く六代先生の処に行きたいんで…」
千本木の机から便箋を奪い、身を翻した。その朱の肩を千本木は掴まえる。
「あのね、朱。此れだけは云っておくよ。…余り深く関わりあってはいけないよ。禎は朱
のことを本当に大事に思っている…」
何だか嫌な気分になる。
此の男は朱も知らない何かを知っているようで―――――
「離して下さい。…失礼します」
校舎を駆けて昇降口へ辿り着く。人の気配に顔を上げると、其処には智積がいた。
「埋木、どうした?何泣いてるの、」
「先輩…」
何故此所に居るのか。
「アタシも六代さんの処に行こうと思ってね。あーあ、汚いよ。涙と洟水で。可愛い顔が
台無しじゃないか」
智積はハンカチを差し出した。
すみません、と礼を入れて、朱はハンカチを受け取った。
「御免なさい…今日はもう、帰ります」
ハンカチで目を抑えると、智積は全ての興味を一瞬で失ったように朱に背を向け、手を振
って去っていった。
 暫し其儘、日が落ちるまで、昇降口の下駄箱の前で座り込んでいた。
暗闇の中に揺れる小さな灯を見つける。当直の千本木が見回りに来たのだ。朱は腰を屈め
て千本木に存在を知られないように学校を出た。





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