千燈會の夜
02



 午后ごごの日差しも障子越しに、室内は仄明るい。禎は小間を書斎として使っている。此の
離れに人が訪れた時には小間に通すようにしていた。一畳ばかりの床には本が乗ってい
る。禎が小さな黒漆の盆に白い陶器を載せて現れると、少女は下地窓を開けて外気を取
り込んでいた。
「ほら、ご所望の物」
朱の前に盆を置く。
「賞味期限、大丈夫なの?」
「朱が以前お土産に買って来てくれた奴だよ。…大丈夫かな…?」
反対に訊ねられ少女は指を折って数える。
「ああ…辛うじて大丈夫だわ。ということは、此れ一保堂のなのね。嬉しい」
一保堂は茶の老舗である。以前から抹茶の一保堂はしっていたが、紅茶も扱っている
とは朱が買ってくるまで知らなかった。味は感嘆するほどだ。
二人は茶を服しつつ暫く無言だった。
「僕へのお願いって?」
「学校の合唱部で、夏休み明けに発表会があるの。先生に弾いて貰って、それに出るこ
とに成っていたの。でも先生…」
「待って。朱の処の音楽の先生って…六代半蔵氏じゃ」
「そうよ。今年七十歳のお爺さん。知っているの?」
うん一寸ね、と禎の歯切れは悪かった。然し知っているのも当然かもしれない。朱は内心
呟く。六代は長年異国の地の大きな楽団で指揮者を務めていた人物だ。如何な心境でか、
還暦を迎えた頃帰国し朱の通う女学院へ音楽教師として赴任したのだ。
「六代先生ね、腰を悪くして退職するの。もう御歳だし学校もご好意で居て貰ったから無
理に引き止めることも出来ないし。でも残された私たちにしてみれば、発表会の奏者がい
なく成っちゃったって云うことでしょう?」
皆を聞くまでも無く禎は溜息を尽く。
「僕はもう弾いてないし、無理だと思うけど」
「分からないじゃない」
「無理だよ。もうピアノを弾く心算は無いんだ」
広げた片手を顔の前で振る。拒絶の意志だ。
「決して?」
「決して、ない」
朱は白地あからさまな不満顔を見せた。屈託無く少女は自分の感情を曝す。禎はそうした朱を愛しく
思っていた。
「でも発表会は夏休み明けだから…気が変わったら言って頂戴」
咽喉を反らせて紅茶を飲み干し、ご馳走様と云って立ち上がった。
「此の部屋は暑すぎるわ。滂沱の汗よ、全く」
手を扇ぎ、後頭部で括った黒髪を跳ね上げる。項に浮かんだ汗に髪の筋が張り付いていた。
暑さへの苦情を呟きつつ去るその後姿を禎は朦りぼんやりと見つめていた。
彼女 . . は汗を見せない人だった。
そう思って目を閉じた。
 朱の跫音が遠退くと、床の横にある紹鴎棚じょうおうだなの地袋を開ける。紹鴎棚にも本が重ねられ
ていた。黄ばんだ白い封筒。消印も無く宛名も記されていない。捨てることも出来ないそ
れらを見遣って再び禎は棚の内へ放り戸を閉ざした。








   音楽室は校舎二階の一番西端にあった。此の時分陽光は強かに室内へ注がれる。埋木朱は
黒光りをみせるグランドピアノの前に座っていた。
辿辿しくピアノの音を出して行く。
楽譜は読めはするものの、指が動かない。
 家にはアップライト式のピアノがあった。だが、祖父母はその大きな楽器に触れることを
許さなかった。時折禎が二人の目を盗んで弾いているばかりだった。
 「埋木、」
名を呼ばれて、思わず朱は立ち上がった。
智積ちしゃく先輩、」
朱が籍を置く合唱部の一学年先輩だった。ぶっきらぼうな話し方をする、掻き上げることも
出来ない程短い髪をした美女だった。
「どうしたんですか?」
「どうしたも、何も、アタシが訊きたいな。此方コッチは模擬試験
だったんだよ、今まで。帰り際にピアノの音が聞こえるから来てみたんだが…」
楽譜と後輩を見比べて、智積は表情だけで笑う。朱は思わず赤面した。
ピアノ演奏は智積の必中の上手とする処だった。
「オニイサン、弾いて呉れそう?」
「それが…」
「血を頒けた妹のお願いも聞いてくれないのか?」
「……違います」
智積は困ったように微笑む朱を見た。
「違いますよ。禎兄さんは…彼は兄じゃありません。便宜上、兄さんって呼んでますけど。
正しくは叔父です。母の歳の離れた弟なんです」
日が橙に変わった頃、蜩が鳴きはじめた。
 埋木家は旧い家だ。嘗ては御城の老職を務め、今も御堀の通りに面した大きな屋敷に居
を構えている。
今はその屋敷にも四人の人間がいるだけだ。祖父母と叔父の禎、そして朱だけである。嘗
て幾人も居たと云う使用人も今は通いの人間が一人あるだけである。
 朱の母は彼女が四つの頃に亡くなった。自殺だった。母屋の西の座敷で、鴨居にくびを吊
ったのだ。
幾つもの憶測が飛び交い、それは―――――埋木の醜聞だった。
成人して尚家に留まり、引き籠もりがちな叔父の存在も、そんな結果なのだろうか、と朱
は常々思っていたのだ。
「先輩…六代先生、何処に棲んでいるか知ってますか?」





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