千燈會の夜
01



 小さな山門を潜って、左手の舎利堂を横目に、正面の金堂へ向った。此の寺は地獄絵
の寺として、幾分、名が通っている。毎年盂蘭盆の八月はつきに入ると、金堂の半蔀が押し開け
られ、月の間は誰でもその地獄絵を観覧出来るようになっていた。
 霧が立ち籠めている―――――。そんな絵だった。黒い霧だ。否…それは黒煙であろう
か。その黒煙が一面を埋めていた。その合間合間に獄卒と思しきものと、虐げられている
人間があった。
 何と云うか―――――嫌な気分になった。
夏のひる下がりの気怠げな空気が尚それを増幅させた。
「ほら、御覧なさい」
綺麗な指先が絵を指す。
「人道にもとる行為はこうして罰せられるの…。あなたも気を着けなさい」
幽かに微笑んで、白い日傘をくるりと回した。
何故彼女が微笑むのか分からなかった。こんな陰惨な絵を見て、尚彼女は涼しげな顔でい
る。
彼女から目を地獄絵に向けた。
 人のようで人でない、どす黒く、また赤黒く、また黒掛った緑色をした皮膚に、幾つも
おもてを持ち、幾つものまなこを持ち、首に角を持った、牙を携えた大きな口…妖物ばけものが人間を取
り囲んでいる。大きな鎚で、かなはしを以て、人を打ち据える。籠の大量な炭を挿入する。
……丁度鍛冶かぬちの工程に似ている。虐げられている人々にもその妖物にも表情はない。否、
よく分からない。……不図恐ろしくなって彼女の着物の袖を掴んだ。
そして、見上げた。だが―――――思わず、手を離す。
彼女の目は真直ぐに絵を見つめ、口角は僅かに攣り上がり、彼女の周りだけが夏では無い
様な涼しい表情で其処に佇んでいた。
緩慢な動作で、彼女は此方を見遣る。日傘をくるりと回した。
日傘の陽光を鈍く遮った明るさの中、彼女は何も云わず、此方を見つめてただ微笑んでい
た。 何故だか、この地獄絵の向こう、内陣の暗がりの中で、虚空の悟りを微笑む仏像を
思い出した。 救うのか救わぬのか、分からない。何処か得体が知れず、ただ其処に在って、微笑むだけ
の存在に見えた。
一寸身動いだ。
彼女は、また、堂内の絵を見つめる。
繰り広げられる獄罰に愉悦しているようにも思えた。
悲しんでいるようにも思えた。
ただ彼女の心理は何れも知れない。
盂蘭盆会はもう間近だった。




* * *





「加賀さん、禎兄さん何処だか知っている?」
朱は廊下で出交わした年配の女性に訊いた。
「坊ちゃんでしたら、西のお座敷に…慥か…」
「あ、そう。有難う。…そうだ、加賀さん、兄さんも二十歳を越えたんだから、その坊ちゃんって
云うの廃めて上げて頂戴。可哀相だわ」
「はあ…そうでございますねえ。癖ですから直り難くて」
曖昧に笑って加賀と云う女中は去って行く。朱はその姿を見送って、西の座敷へ赴い
た。 「禎兄さん?」
声を掛けて、唐紙襖を開ける。
座敷の中は蒸していた。この真夏の昼間に襖を閉ざしていれば当然だろう。朱の声に
気が付いたのか、禎は緩慢に朱を見た。
「またこんな酔狂な我慢ごとをしているの?」
「……酔狂とはご挨拶だ。別に我慢もしていないし、此所は落ち着くんだ」
「気味の悪い…」
朱は広い空間の真中を渡した鴨居を見て眉を顰めた。
「酷いな、」
寂しそうに禎は呟いた。
「幾ら自分の親だからといっても…やっぱり気味は悪いものよ。酷いと云われようがこれ
ばかりはねぇ…。顔も覚えてないし」
ああ暑い、と唱えて、朱は開けた襖から離れる。
「何?」
「え、」
「僕に用があったんだろう?」
「ああ、ええ。そうなの。一寸お願いがあって」
朱の背後で禎は座敷から出て襖を閉める。禎は此の座敷で朱と共に在るのを嫌がる傾
向にあった。
禎は朱の背を押すようにして、西の座敷を後にする。
 彼の部屋は母屋と離れた庭の片隅にあった。庭を這う、椿で造られた垣根の向こうにあ
る。階から降り、下駄を突っ掛けて、垣根を越えて、離れへ行く。瀟洒な数奇屋造りのこじ
んまりとした建物である。
本来茶室として使われてるが、此の家では既に茶に興ずる者がなく、数年放って置かれたの
だ。不便ではないかと云う声に、水屋で茶くらいは沸かせると、成人した禎はさっさと此
所へ移り棲んだのだ。
 水屋口を開けて、禎は朱を招き入れた。
「左奥の小間に行ってて。一寸埃っぽいだろうけど。…お茶、要る?」
「紅茶だったら頂きますが、」
「あ、そう。…賞味期限切れてないといいけど…」
どうやら禎は紅茶を好まないようだ。




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