しけしけ餃子野郎とは

ペンネーム 根本たけし  “自称”フリーライター
本名 根本岳司(←この字が読めない人が想像以上に多く(正解率約20%)、ペンネームで名前を平仮名にした)
1970.9.9栃木県鹿沼市生(現在住)
作新学院高等部(現作新学院高等学校)S63年度卒〜城西大学理学部H4年度卒
                     〜東京アナウンス学院放送アナウンス科H7年度卒 両投左打

☆資格☆
珠算3級 英検3級 アナウンス検定3級 と、3級止まりなのが人生そのものを表現(ドッカ〜ン!)
普通自動車運転免許 フォークリフト運転資格(この免許を使って日銭を稼いでいます)

☆北関東Hot競馬応援サークル坂路調教代表として活動☆
競馬の同人誌作成が主な活動でしたが、後述の通り、競馬ライターとしては08年夏に引退。ただのしけしけなフリーライターとして活動しております。
競馬同人誌連合会代表 競馬同人誌のサークル連合会の代表を務めてます(年功序列で代表(ドッカ〜ン!))

☆ライフワーク☆
北関東Hot競馬(をメインとした地方競馬)なんだけど最近はちょっと競艇の方が(ドッカ〜ン!)・千葉ロッテマリーンズ・おジャ魔女どれみ・パチスロ・貧乏旅行

☆エネルギー源☆
餃子(みんみん鹿沼店がホームグラウンドです)

☆同人活動について☆
・サークル坂路調教の発足の経緯
 東京アナウンス学院時代に、何となく「競馬について語ろう」というてきとーなサークルを結成。クラスメイトと3人で発足。サークル名を坂路調教とした。サークル名の由来は「競馬の坂路調教のように敢えて困難な坂道を乗り越えて自らを鍛えていく」という意味・・・を後付設定(ドッカ〜ン!)。
 その内の一人が、同人誌に興味を持っていて「自分たちで何か同人誌を作ろうか」という話になる。とりあえず95年春のコミックレヴォリューションの申し込みをする。上記のサークル員は最初乗り気で、私は乗り気でなかったのですが、時間が経つにつれその気持ちが逆転。結局イベント当日は私一人で参加していたし(ドッカ〜ン!)

・デビューから
 上記の通り、デビューは95年春のコミックレヴォリューション。デビュー作はオフセットで「ロイヤルアスコットハンドブック」というゲーセンのコイン競馬ゲーム『ロイヤルアスコット』の攻略本(A5 32P)。それとコピー本で「サクラっ子クラブ」というサクラ軍団(冠名サクラの競走馬の総称)の中央競馬での戦績論評や観戦記を綴ったものでした。
 以降は、レヴォ・コミケ・SCシティに参加(ジャンルはスポーツ・競馬)していたのですが、レヴォの競馬ジャンル縮小などを理由(*)にレヴォから撤退。年々参加者が減少傾向にあったシティからも撤退し、年に2回のコミケのみの申し込みとなりました。他にイベント参加は自らが主催となる競馬同人誌まつりがあるのですが、これは別の機会に。
 一応ジャンルは競馬で「サクラっ子クラブ」を定期的に発行。年末のコミケのみ「サクラっ子クラブオー」という名前でオフセで発行していました。これがメインなのですが、当時人気だった「赤ずきんチャチャ」のキャラを競走馬に見立てたパロディ小説「うらら学園ダービー」や、当時放映中だった「ウェディングピーチ」と全くの同名の大井所属の競走馬「ウェディングピーチ」を融合したパロディ小説「愛天馬伝説ウェディングピーチ」など、併せてよく分からないものを発行していましたが、97年あたりから競馬オンリーで一本化しました。

(*)盟友である南関東競馬倶楽部(MKC)と同時に申し込みをした所、坂路調教落選・MKC当選で、蓋を開けたら当選した競馬ジャンルサークルはMKCだけだったという不遇措置に、もうレヴォには『この手のジャンルは不要になってきたな』と感じ、一連の競馬ジャンルサークルは撤退した。レヴォも最初の頃は競馬サークルが多数参加していた。

・サクラから北関東へ
 上記の「サクラっ子クラブ」を発行していた時は東京在中でしたが、実家に戻ってから地元の宇都宮競馬をメインとした北関東競馬に頻繁に行くようになり、また、全盛を誇っていたサクラ軍団もサクラローレルをピークに下降気味で、ネタを集めるのにひと苦労。逆にだんだんと宇都宮競馬をメインとした地方競馬にどっぷりとハマり、その「サクラっ子クラブ」のワンコーナーとして取り上げていた宇都宮競馬の紹介コーナー『下野国から』(*)を独立させてサクラっ子クラブをその中のワンコーナーにするという立場を逆転させての発行に変更したのが2000年の春。栃木の競馬をメインとした地方競馬の本として内容も様変わりしました。

 ますます地元の競馬にハマり、もっと地元の競馬を知ってもらいたい→もっと手にとってもらいたいと、その年の冬から表紙を見栄え良くカラーに。価格は跳ね上がったものの、捌ける冊数も跳ね上がった。この頃からイベントはコミケと主催する競馬同人誌まつりのみとなる。また、自分の本を『意見書』として競馬場に提出(**)するようになったのもこの頃からです。

 高崎競馬場にも自分の本を提出していたのですが、当時名物局長として君臨しておりました金井達夫高崎競馬事務局長(当時)より、「何で高崎も扱っているのに下野なんかな」と指摘され、一応栃木メインなので・・・としていましたが、この頃から高崎所属馬のレベルがあがり、高崎を多く取り上げる事もあり、2001年冬より名称を「
北関東Hot通信」と変更しました。以降年2回のペースで発行してました。2005年、宇都宮競馬場終了と共に、発行ペースは年1回となり、2008年夏をもって北関東Hot通信は最終号として発行しました。以降の予定は、不定期ながら旅行記など発行しつつ、競馬も絡めるかもしれませんが、競馬としてはこれをもって終了します。

(*)北の国からをもじって「したのくにから」と読んだり、「しもつけのくにから」と読んでも可。ちなみにメールアドレスの「hck-sc」は坂路調教(hck)とサクラっ子クラブもしくは下野国→しもつけかんとりー(sc)を意味してます。
(**)これはMKCが発行した『日本競馬総論』という競馬評論の作品を関係者各位に提出したというエピソードを聞き、『ただ一方通行に批評するだけではなく、然るべき所にその声が届かなければ意味がない』と共感し、それならば自分も・・・と思い、そうするようになった。



・北関東競馬での活動
 自分の書いた作品を競馬場の事務所に持ち込み、必死に意見提出と自分の売り込みを繰り返しておりましたが、宇都宮競馬場ではお役所仕事の対応レベル(人によっては違いましたが)。それでもめげずにPRを続けていました。
 とある日、表彰式のために下に下りていた実況アナの藤弘一氏に声をかけたのがきっかけでした。新宿ロフトプラスワンで行われた、競馬同人誌連合会有志によるトークライブ用にビデオメッセージを頂こうとしたら「
喋らせてくれ」と突然の出演決定(ドッカ〜ン!)。以降親交をもつようになり、色々内部との繋がりを持っていきます。

 直接競馬場への意見書を提出しておりましたが、かなりの長文で
直接県知事宛で提出した事があります。社交辞令のお礼の御葉書を頂きましたが、これが大変な事に発展。その内容を県から競馬場に通達。県知事からの命令かと思われたらしく、意見の中にあった「競馬場職員は競馬を知っている人間で構成すべき」という案が結果的に採用(ドッカ〜ン!)。急遽競馬場配属の募集がかかり、異動してきた人も。県の人事を動かす事態となることになったのは・・・・・・・笑いました(ドッカ〜ン!)。
 インターネットの発展により、さらに進化へ。メインで実況を担当しておりました大川充夫氏により『宇都宮競馬場公式サイト』の開設により、徐々に競馬場のファンが集結。もっと競馬場を盛り上げるために何か出来ないものか?集まった面々でできあがったのが『
ファンが作るうつのみや競馬情報誌 U駿』でして。U駿にてライターとして活動をしておりました。その時「プロの肩書きが欲しいから1回100円でいいからギャラをくれ」と要求(ドッカ〜ン!)。という訳で一応「プロのフリー競馬ライター」の肩書きがあるのです(大ドッカ〜ン!)。どんなことを書いたのかは、リンク先のバックナンバーを読んでください。それっぽいのが私です(ドッカ〜ン!)。すみません、U駿では一般人向けの結構余所行きの文章を書いていたので、毒っ気のある私らしい文章は見られません(ドッカ〜ン!)。


以下気が向いたら書き足します


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