泣く男、怒る男
「もう、ヤダァーーーー」
深夜、相も変わらずパソコンに向かっているところへキリコがやって来て、情けない声をあげながら私のベッドにダイブした。大きなため息をつくなり、「あたしさぁ、スガッチと別れようかと思うんだ」。
スガッチは、生誕21年目にしてキリコが獲得した、ひとつ年下の彼氏だ。付き合い始めて1年ほどになる。私は仕事を放り出し、椅子をくるりと回して「なになに?」と、キリコのほうへ身を乗り出した。こういう話は大好きだ。
「別れるって、そりゃまたどうして?」
「だってさ、スガッチって、なんか頼りにならないんだよねぇ」
私の枕を抱えて丸まったまま、キリコは深刻な顔でいう。
「いつ遊ぼうとか、どこへ行こうとか、決めるの全部あたしなんだ。意見を聞いても、『う〜ん、何でもいい』みたいな答えばっかで、付き合ってるって気がしないよ」
キリコとしては、スガッチにイニシアチブを取ってもらいたい。何事につけもっとテキパキ決断し、リードしてほしい。そこで本人にそう談判したところ、スガッチはあっさり答えた。「あ、それはムリ」、と。
そのいつになく爽やかで明快な即答に、またまたキリコはムカツイタのだという。そのときの気分を思い出したのか、憮然としているキリコに、「ふん、ふん、それでどうしたの?」と私は続きをせっつく。
「だからあたし頭にきて、じゃあ別れるって言ったんだ」
「で? スガッチは何だって?」
「どうもこうもないよ。あいつ、わーわー泣いたんだよ!」
「へ? 泣いたの?」
「うん、‘わーわー’泣いた! どう思う?」
「どう思う?」と言われても…。それはこんな私でも、思いがけない男の涙にドキッとしたことはある。そこにはきっと、女の私には測り知れない深遠な意味や、想像を絶する苦悩があるに違いない。そう思って、かつて私は男の涙の前にたじろいだ。
実は深遠でも何でもないことで、男も気軽に涙を流すと知ったのは、だいぶあとになってからだ。男が泣いても別に違和感は覚えない。いやむしろ人間的でいい。感受性の豊かな人なんだわと惚れ直したり、なぜだかかえって男らしさを感じることさえある。
しかし、別れ話に‘わーわー’泣く男というのは、どんなものなのだろう? 残念ながら、実物にはまだお目にかかったことがない。ひょろりと人のよさそうなスガッチの顔を思い浮かべ、「チェッ、見たかったな」と思うが、さすがに口にはできない。
代わりに、「それだけキリちゃんのことが好きなんじゃないの?」と言うと、
「違うよ! スガッチは、『彼女がいる自分はスゴイ!』って思うことが好きなんだよ」
そうキリコはいつになく鋭い洞察力をみせた。
「ふうん。それじゃキリコは、スガッチのどこが好きで付き合ったわけ?」
「やさしいからいいかなって、思ったんだけどなあ…」
私は心のなかでニヤリとする。
「その‘やさしい’っていうのが曲者なのよね」
「どうして?」
「女にはやさしいけど男には冷たい。若い女はチヤホヤするけど、年寄りには冷淡。やさしくて優柔不断、やさしくて無責任。ただの腰抜けや能無しや女たらしを、やさしい男だとカン違いすることもある」
「ああ、そうか。そうだよね! 本物のやさしさって、簡単にはわからないもんね」
「うん、でもね、男はみんな強くなくちゃならないって決め付けるのも、かわいそうな気がするな。スガッチがイニシアチブを取れないなら、キリちゃんがリードしたってかまわないんじゃないの?」
「そりゃそうだけど…。でも、やっぱりカレシに頼りたいよぉ」
そう、キリコの言い分はよくわかる。とかく女は男に、自分よりも強く、賢く、生活力があることを求め、男もそのように振舞おうとする。ほとんどの動物に共通の「種の保存」にまつわる本能なのか、はたまたどこかの段階で後から刷り込まれるものなのか。よくわからないけれど、私のなかにもやはり同じ意識はある。
「たしかに難しいよねえ」と私が思わずため息をつくと、キリコは待ってましたとばかりに、ガバッとベッドの上に跳ね起きた。
「ねぇ、ねぇ! じゃあさ、今夜はレンアイについて語り明かそうよ! うふっ、ヨーコちゃんの理想の男性ってどんな人?」
やれやれ、切り替えが速いというか、深刻になりきれないというか。この子がこんな風に、念入りに塗ったマスカラの目を輝かせるなんて、そうはないことだ。
日本経済の動向や国際情勢、政局の行方などについては言うべくもなく、いい加減に部屋を片付けろ、洗濯物を取り込め、5千円貸してくれ、疲れた哀れなおばのためにコーヒーをいれろ、肩をもめ、3千円でもいいから貸してくれ、といった私のささやかな願いにすら、目を輝かせて反応することなど皆無なのだ。
「私の理想? ふん、係累のない資産家で、80歳以上。90歳以上ならなお可」
「もうっ、ふざけないでよぉ!」
こんなことで、なぜ怒る?
取材で出かけた都心のホテルのロビーで、知り合いの男性とバッタリ会った。年賀状のやり取り以外、お互い3年以上もご無沙汰だ。
「わあ、久しぶり!」というので仕事のあとで待ち合わせをし、食事をしようということになった。シーフードのグリルが食べたいというと、横浜方面に雰囲気のいい海辺のレストランがあるという。
さっそく車で出かけたのだが、大雑把な彼は、何ヶ月か前にたまたま一度入ったことがあるというそのお店の、店名すらもよく覚えていない。
「行けばわかるよ。任せなさい!」と自信満々だが、勘だけが頼りだ。
この時間にしては高速は空いていた。湾岸線の夜景もきれいで、気分がいい。「何かお勧めBGMはないの?」「あ、もうランドマークタワーが見えてきたね」と、ご機嫌ではしゃいでいる間はよかったが、横浜の繁華街を抜けてから道に迷った。
「この辺なんだけどな」
彼はブツブツ言いながら車を走らせる。が、いつまでたってもそれらしきレストランに行き着かない。
「なんかすごく殺風景なとこへ来ちゃったわね。こんなとこに、レストランなんかないんじゃない?」
「…わかってる。いま方向転換するとこ」
私はお腹が空いてきた。
「ねえ、石川町のほうへ戻らない?」
「・・・・」
「私、中華でもいい」
「もうすぐだから!」
二人とも口数が減り、車内にイライラ感が立ち込めてくる。「通行人か、信号待ちのタクシーに聞いてみれば?」と言っても、相手は黙殺の構えだ。
遠くにコンビニの青いサインが見えた。
「あそこで車を停めて! 私、ちょっと聞いてくる」 反射的にそう叫ぶ。と、彼は怒った。
「いいから、もうっ! ちゃんと道はわかってるって!」
「なによ、私に八つ当たりしないでよっ」
「うるさいな、黙ってろよ! 嫌なら降りてもいいぞ」
その言い方は何なんだ! 力になろうと思っただけなのに、なぜ怒鳴られなければならないのか。
ご要望どおり車を降りて、ドアを叩きつけてやればスッとするのにと思ったが、こんなどこだかわからないところから自力で帰るのはいやだ。しかたがないので、ムッと押し黙ったまま助手席のシートに沈み込んだ。
沈黙のドライブは、更に5分ほど続いた。それから彼はいきなり、「あ、ここだ!」と呟き、ハンドルを大きく切って横道を抜けると、やっとのことで車を停めた。
「ね、だから、任せとけって言ったでしょ」
すっかりご満悦の彼は、スズキのグリルをつつきながら、勝ち誇ったように言った。狩猟の性である男の脳は、地理に関して女の脳とはデキが違うのだそうだ。それにしてはずいぶん迷ったものだと思うけれど、料理はおいしいし、3年ぶりの友だちとの再会だし、ま、この際、何でもいいや。
それにしても、男が怒るときというのは、ときにその涙以上に不可解だ。
「そう、そう! うちのダンナなんか、『石油ストーブに石油を入れて』って頼んだだけで、ヘソを曲げたのよ。そのあと半年も、私と口をきかなかったんだから。半年よ、半年! 信じられないよ、まったく。気に入らないことがあるならあるで、そう言ってくれなきゃわからないよねえ」と、結婚している女友達がぼやいた。
それを聞いていた、結婚と離婚を繰り返している男友達が、「いちいち言わなくても、女房なら察してやりなよ」と言う。
「キミの言い方が高飛車だったんじゃないの? 身も心も疲れて帰ってきたダンナに、いきなり命令したりとか、いたわりが足りないんじゃないの?
そのシーフードの彼の気持ちも、オレ、わかるなぁ。『あんたは役立たずだから、あたしがもっと賢い方法を教えてあげる』って、そう言われているみたいだもん。そりゃあ、男は意地になるって。
だいたい女は無神経なんだよ。男っていうのはプライドの生き物で、キミたちが思っているよりデリケートなんだぜ。そのプライドを傷つけられれば、どんな男も怒るよ」
女友達と私は、「フン!」と顔を見合わせながらも、内心、ちょっと自分を振り返っみたりもするのだった。
キリコとスガッチは、いったんは仲直りしたようだった。しかしそれからしばらくして、「スガッチとはどう?」と訊ねると、「え? とっくに別れたよ」と、キリコはケロリと言った。
「へえ! そうだったんだ。で、スガッチ、泣かなかった?」
「泣いてたよ。でもいいんだ。実はあたし、ちょっと好きかなぁって思う子がいるんだよね、エヘヘ」
私は少々お疲れぎみだ。ま、せいぜいキリコにがんばってもらうことにしよう。
End of Vol.21
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