Vol.19 13/Feb./03


芽おこしの雨



 
立春も過ぎて、緑が戻り始めた庭の芝生の上に、朝から柔らかな雨が降っている。

 「ねえ、ちょっとここへ来て見てごらん。水仙の葉っぱがずいぶん伸びた」

 母が窓辺で弾んだ声をあげた。

 言われるままにかたわらに立ち、窓の外に目をやると、なるほど、石塀沿いに植わった幾株かの水仙が、細長い葉を15センチばかりにすいと伸ばし、お行儀の良い幼稚園児のように、仲良く並んで雨を受けている。

 「ほんとうだ。あら? 花壇の隅っこ、あれは百合の芽でしょう? 何だかずいぶん株が増えたみたい」

 「そうよ、だってお父さんが、去年、あんなに丹精していたのだもの。
 あのずっと後ろがシャクヤクでしょ、その手前がシャクナゲ。
 それから木蓮の根元がミヤコワスレ。
 あ、カモミールの芽も出てる! ほら、見て、あそこ。 
 いつの間にか消えちゃって、お母さん、がっかりしてたのよ。
 ちゃんとこぼれ種が生きていたんだわ。いじらしいねえ」

 父が愛した庭に、銀の糸のような雨は、音もなく降り注ぐ。
 それを眺める私たちは、それぞれの思いに浸りながら、窓辺に肩を寄せて立っている。

 「春先の、こういう雨を、‘芽おこしの雨’っていうのよ。ひと雨ごとに暖かくなるわね」 私にというわけでもなく、母はうれしそうに呟いた。

 芽おこしの雨−−−。 

 なんてすてきな響きだろう。
 地中や木の梢で凍てついている若い芽を、長い眠りからそっと呼び起こす、春のさきがけの優しい雨だ。
 いつかおばあさんになったとき、傍らにいる誰かに、私もしみじみと言ってみたい、「ほら、芽おこしの雨よ。やっと暖かくなるわ」。

 今年はことさらに寒い冬だった。

 それでもたっぷりと水分を吸い、やがて雨上がりの陽射しに温められて、ゆっくりと植物たちが動き出す。虫や小さな生き物たちも目を覚ます。

 もし、本当によい耳を持っていたならば、地にも水にも空にも溢れる、無数の生命の息吹が聞けるのに。それはどんなにか、賑やかなことだろう。

 外はどんなに寒くても、植物はちゃんと「とき」を知って再生している。
 人間だって、きっと同じだ。眠りのとき、目覚めのとき、出会いのとき、別れのとき、成長のとき、衰退のとき…。 
 運命なんてものに、そうやすやすと降伏する気はないけれど、宇宙や自然の掟になら、私も喜んで身を任せよう。40億年の生命の歴史が、ずっとそうであったように。

 父の死後、母は急にふた回りも小さくなって、一気に十年も歳をとってしまったようだ。
 その母のうえにも、新しい季節は巡ってくる。

 早く、早く、春になればいい。


身近な日本語の美しさ


 それにしても、雨にもいろいろあるものだ。

 煙雨
(えんう)、霧雨(きりさめ)、小糠雨(こぬかあめ)、麦雨(ばくう・麦が実る5月頃に降る雨)、五月雨(さみだれ)、村時雨(むらしぐれ・ひとしきり降っては止み、降っては止みする雨)、驟雨(しゅうう・にわか雨)、秋霖(しゅうりん・初秋の頃に降る雨)、時雨(しぐれ・ときおりサアッと降って通り過ぎる初冬の雨)に氷雨(ひさめ)…。

 「涙雨
(なみだあめ)」は、涙ほどのわずかな雨。と同時に、情緒的な文脈でも、悲しみを表す表現として使われる。訪ねてきた恋人を引きとめるかのように降る「遣らずの雨(やらずのあめ)」も、なんとも切なく色っぽい。

 雨ではないが、やはり自然現象に因んだ「たそがれ」という語も、身近な美しい言葉だ。
 もともとは、「誰そ彼」と書いたらしい。夕方の薄暮のなかで、人の顔が見分けられず、「あそこにいるあの人は誰だろう」というところから、生まれた言葉なのだろう。ススキがなびく淋しい野原で、今にもキツネがコンと鳴きそうだ。
 これと対を成すように、まだ薄暗い夜明けを表す「彼者誰時
(かわたれどき)」などという言葉もちゃんとある。

 私たちの言葉というのは、なんと豊かなのだろう。日本語に限らず、どの民族の言葉も同じだ。それぞれの地域の自然や、そこに生きる人々の精神風土のなかで、長い時間をかけて育まれてきた言葉は、けっして暗記すれば使いこなせるようなものではない。

 先日、近所のスーパーへ行ったら、4、5歳くらいの幼児が二人、奇声を上げてフロアを走り回っていた。と、思うと、すぐ前を歩いていた母親とおぼしき若い女性が、長い茶髪を翻して振り向きざま、凄まじい形相ですかさず子どもたちを一喝した。

 「チョロチョロしてんじゃネェよ! 人に迷惑かけんなって言ってんだろっ!」

 子どもたちはピシッとおとなしくなった。入り口付近に立ちふさがり、おしゃべりに熱中していたおばさんたちまで、見事に一発で黙ったほどだ。

 お世辞にもきれいな言葉遣いとは言えないが、私は断然、こういうスジの通った‘かあちゃん’のファンだ。
 長屋の井戸端や農家の庭先で、昔の逞しい日本の母親たちは、案外こんなふうに子どもらを躾けていたのかもしれない。

 言葉は常に人と共にあり、新陳代謝を続けている。身近に自然がなくなれば、芽おこしの雨という言葉さえ、使えなくなる日がくるのかもしれない。言葉に敏感になるということは、環境や暮らしにも敏感になること。そんな思いが強くする。

End of Vol.19


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