(3)貧乏しても遊びは一流


 文楽の修業はほんとうにつらいものですが、それと一しょに貧乏のつらさというのがついてまわります。私が大序になったとき、はじめてもらったお給金が15日払いで50銭、1月で1円です。いくら物の安い時分でも月1円では食えるわけがありません。しかもその50銭を「神さまへおまつりするんやで」というて渡されたものですからひどい話です。役付になって15日払いで3円50銭、これで家賃2円50銭の家へ住んで、そのころもう子供があったんですから、食えたものではありません。紋下一人と座員300人の給金が釣合うたといわれるくらいで、松竹のやり方とこの世界の封建制がおよそご想像つくと思います。私も永い間、親元から仕送りをうけて、それで生きてきたような始末です。

 終戦後のある日、突然進駐軍のオーバクレ少佐という方が文楽座に見えて座員全部集まれといわれる。何事かと思ってぞろぞろ集るとこんど労働基準法というのができたが、知っているかときかれる。誰もそんなもの知りません。少佐はアメリカの芸能人と労働基準法について説明され、わたしたちの待遇をきいてよくそんなことでがまん出来るものだとあきれて帰ってゆかれた。そこで私たちも相談し、いろいろ組合法のことなども勉強して組合をつくることになりました。私は委員長に推されて松竹といろいろ掛合いをはじめたのですが、松竹は組合員をどんどん引き抜いて別の組合をつくらせました。これが文楽を二つに割った原因で、私たちの方は三和会、引きぬかれた方が文楽因会となり、それぞれ40余人の座員をもつにいたりました。今はどちらの会も組合をつくっていません。松竹側ではしきりに一つになれと言っていますが、一つになれば整理ということで首切りがおこなわれるにきまっており、もともと二つのものが競い合うところに芸の上達があるのですから、このままの姿で進んだ方がよいのではないかと考えています。
 

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