(4)貧乏話のつづきをしましょう


 私は野球と競馬が趣味なのですが、競馬に行くと帰りの電車賃がないときがよくあります。家内などは心配して、あれで舞台がつとまるかとハラハラするそうですが、かえって金がないときの方が出来がよいといますから、しょせん貧乏の性に生まれついているんでしょうな。貧乏もしますが、またよく極道もしました。私たちは芸者衆には持てるんです。先方もこっちの貧乏を知っておるから、2円60銭の花代を、半分わてが持ちますわ、てなことで遊ぶ。ですが文楽の師匠はだれでも、遊ぶなら看板をあげた者をいけと言います。つまり一流を相手に遊べ、貧乏はしても安物を相手にするないうことで、それが文楽座員の不文律です。

 私は29のときいまの家内をもらいました。江戸堀にいる姉の家へしじゅう出入りしているうちに、近所に住んでいたこれ(傍らの妻女たまさんを指して)をもろうたんです。そして近くに二階借りのわび住居をはじめました。

    ――――ここで一言奥さんに代わる―――――

 お父さんたらえらい人でっせ。わてが風呂から帰ると、うちの表のところでいきなりおなごはんと会うてはりまんね。何時にどこそこで会おういうて、ひそひそ話していなさる。わてお客さんやったら、二階に通ってもろたらどないどすと声をかけましてん、そしたらお父さんあわてなはって・・・・・。

       ―――――・・・・・―――――

 いやもうそのへんで、やめといてもらいましょう。
 修業の話で思い出すのは安達原三段目に”たださえくもる雪空の”というところがあります。あれをめばゑ大夫(荒木五郎氏)がなんぼやっても、師匠の広助が気にいらん。コセコセした語り方じゃというて怒る。お前のようなものは国元から仕送りしておる親が可哀そうじゃ、すぐ国へ帰れとまで言う。めばゑ大夫は身体をこわして、とうとうほんとうに国へ帰ってしまいました。それから何年かたって広助が私に『わしはめばゑ大夫をコセコセ語るとずいぶん怒ったが、可哀そうなことをした。いまではコセコセ語るものさえおらんようになった。みんな毒のまわりの遅いやつばっかりや』と言うて嘆いとりました。

 広助も十年ばかり前に死にました。摂津大掾の相三味線をつとめた人で、こうした名人はだの人が次から次へ死んでゆくと、文楽をつぐものがしまいにはなくなってゆくのではないかと、さびしい気がします。

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