退化する日常・5  



 件の生物学者が持ちかけてきた話というのは、翠明の気の早い留学話だったのだという。



 「先生は、より効率良くスイの資質を伸ばすためには、あの子をより専門的な学校に入れるべきだと
  仰ったんです。幸いにも、先生が生物学を修められたという、隣国にある学校は生物学の権威が講
  師陣に名を連ねる名門中の名門なのだそうで……この国との国交も盛んですし、学校側に交換留
  学生の受け入れ制度もあるんだそうです。それになにより、先生の紹介という形をとれば、スイは国
  費留学生という名目での留学が許可されるという、願ったり叶ったりなお話で……」

 言葉を重ねる内に喉の渇きを覚えたのか、それとも何らかの動作を間に入れることで、沈みがちにな
るその場の空気を変えたかったのか……白鳳は、通りすがった店員に先刻のものと同じ銘柄の酒を注
文すると、それまで手持無沙汰のように玩んでいた空の杯を手渡した。

 「……信じられますか?国の定める義務教育すら受けることのできなかったあの子が、一足飛びに国
  費留学生ですよ?話を持ち出した先生ご自身が、前例のない事だと仰っていました。そして、だから
  こそ、能力を持ちながらこれまで日の目を見ることのできなかった有望な後進達のためにも、ぜひと
  も前例という先触れになってほしいと……」



 ここにきて初めて、セレストにも、白鳳の鬱屈の理由に合点が行ったような気がした。

 ようやっとの事で、人並みの生き様を取り戻したただ一人の弟の、あまりにも早すぎる才能の開花。そ
して、その才能の受け皿として提供された、あまりにも度外れた規模の「進路」。
 翠明の年頃ともなれば、就学機関を卒業して立派に自活している少年も数多く存在した。留学の話を
持ち出した生物学者にしてみれば、彼の才をより切磋琢磨するためならば、「親元」を離れての修学など、
障壁になるという意識すらなかったのだろう。
 だが―――白鳳にしてみれば、翠明は数年来に渡る試練に打ち勝って、ようやくその手に取り戻した
存在なのだ。これから二人の間の空白を埋めていこうとしていた矢先に弟を手放せと言われれば、動揺
に浮足立つのも無理はない。


 なんと相槌を打ったものかと、言葉の接ぎ穂を探すセレストの懸念に反して、運ばれてきた追加の杯を
一口嚥下した白鳳の、続く語調は至極穏やかなものだった。


 「この国は、典型的な農業国家でしょう?農耕法や、土地に適した植物の品種改良などの研究は盛ん
  ですし、そのための学校にも不自由しない。スイが学ぼうとしている生物学と植物学は、必ずしも無関
  係な分野ではないし、その土台となる知識はこの国の学校で充分に身につけることができます。です
  が……」

 それでは遅いのだと、件の生物学者は語ったのだという。


 「私は……正直なところ、そういった英才教育で、あの子をコチコチの学者稼業に就かせることには、反
  対なんです。これまで人並みの人生を歩んでこられなかったからこそ、多少無駄に思えても、玉石混合
  の経験を通して、豊かな人間性と感受性を養って欲しい。……まあ、放蕩な兄の口から言えた事では
  ないんですが。せめて私を反面教師にして、実のある人生を送ってほしいと思うんですよ」
 「白鳳さん……」
 「それに……これを口にするのは、王家に仕える立場の貴方にとっては面白くないことでしょうが……国
  費留学生の留学条件の中には、帰国後国の定める何らかの専門機関に就いて、留学先で得た知識
  を国のために活用するという、いわばお礼奉公的なものも含まれていますから。もちろん、留学にかかっ
  た諸経費を返納すればお役御免になるわけですし、その程度の貯えはあるつもりですから、そこまで
  重く考える必要はないのかもしれませんが……なんとなく、あの子の将来を人質にされているような
  息苦しさがあって」


 兄弟二人でお世話になっているこの国に、報いたくないと思っているわけではないんですが―――言っ
て、どこか気まずそうに杯を煽った語り部の横顔に、セレストはかける言葉が見つからなかった。



 白鳳本人に揶揄の気持ちはなかったのだろうが、自らが「コチコチの英才教育」上がりであるセレストに
とって、彼の言葉は様々な思いを去来させるものだった。


 王家を唯一絶対の主と戴く、王宮近衛騎士団。その長たる存在を父に持つセレストにとって、王家とは
敬虔の対象であると同時に、ひどく身近な存在だった。幼い時分より遊び相手の名目で側近くに控えてき
た、この国の第二王子の護衛に任じられた時も、恐縮しつつも至極自然の「進路」であると受け止め、拝
命した役目を疑問に思ったことはない。
 それはきっと、セレスト自身が定められた温床で「純粋培養」された存在であるからこそ、抱く感覚なのだ。

 国のために知識と労力を提供するという、「お礼奉公」に抵抗を感じるという白鳳の気持ちが、だから、
理屈では納得できても、正直なところセレストの感覚には共鳴してこない。おそらくは公式の場での上司
でもある父も、自分と同じ感想を抱くことだろう。

 それは自分の所為でもなければ、白鳳の所為でもない。お互いに生まれ育った環境が違う以上、生じる
違和感は致し方のないことだ。互いの価値観を押し付けあうことができない代わりに、譲歩はしても互いの
言動の結果に責任も持てない。言葉の響きは悪くても、それが、「他人」というものなのだ。


 ただ一人の弟を自分の手元から放すか放さないか……その岐路に立たされている白鳳の複雑な心中は、
彼ではない自分には想像でしか分かり得ない。だが、おそらくは酷似した岐路にかつて立たされたであろう
存在になら、心当たりがあまりにもありすぎた。


 夫を、息子を、近衛に従属させることになった当時の母も、きっと今の白鳳が陥ったのと同種の物思いを味
わわされていたのだろう。
 栄えある役目だと、口では湛えて見せても、ある意味民間から一線へだてた特殊世界に身を置くことになっ
た自分達のことを、母が案じなかったとは思えない。国情が安定しているとはいえ、役目柄それなりの危害
を被ることもある伴侶と息子への心痛から、母がルーキウス王家に対し、後ろ暗い思いを抱くこともあったは
ずだ。それは、同じように民間側の人間として、自分と父を見ている妹にしても同じことだろう。



 危惧もあるだろう。肝心な時に、「家」ではなく「主家」を選ばざるを得ない自分達に対し、物言いたい事は
数知れないだろう。
 それでも、母は妹は、父と自分に一度でも、除隊してくれとは言わなかった。
 様々な思いを胸の底に押しとどめて、自分達の「出勤」を、いつでも笑顔で送りだしてくれた彼女達の姿が
……今、自分の横で杯を傾けている白鳳の背中と重なって見えた気がした。




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