―――ザァ……ッ
満開の常緑低木の花弁が、吹く風に乗せて惜しみなくその芳香を放つ。
風足の合間を縫い、咽返るほどに立ち込めるその幻想的な花の香は、この大陸の
春の風物詩だ。野を渡る風の向きが変わり、いつしか熟し破蕾したその花片を、木々
が壮胆に手放して見せるようになると、大陸に暮らす人々は本格的な春の訪れを知
る。
春―――それは冬の厳しい寒さを耐え忍んだ多くの民草がその訪れを心待ちにす
る季節であり、またその穏やかな暖気は彼らにとって希望の象徴でもあった。
人ならざる存在を世界の主軸として構成されている「魔境」と、人の世界が微妙
に次元を違えながらも陸続きで共存を続けてきたこの大陸では、その盛衰の均衡
を一定に保つことが存続の絶対条件だった。種族間の大掛かりな抗争も辞さない
覚悟があればともかく、どちかの勢力、文化が特出した発展を遂げれば、崩された
均衡が大陸の安寧の歴史を大きく作り変えてしまう。
双方共に尋常の範疇に収まる程度の覇気はあっても、人も魔の者も、互いに対
する牽制よりは、自らの足場の確かさをこそ重んじながら生きてきた。そう言った互
いの気風が、人も魔も、その範疇をあるべき姿に保とうとする。
結果として―――およそ数百年という歳月を、大陸は必要最低限の開発を受け
入れながら、緩やかな発展を繰り返してきた。
真に要されるものだけを取り入れ、傍目にどれほど便がよく映ろうとも、それが
拮抗を崩し環境に悪影響を及ぼすものであれば割りきって切り捨てる…一見退
廃的にすら感じられるであろう、先人達のそんな尽力が現在の大陸と、変わらぬ
勢力分布を作り上げた。そして、民族の血に根づいたそんな愛国の心が、子々
孫々に至るまで同種の不文律を遵守させていく。
幻獣使いである救世の英雄、ルーシャスを祖とするルーキウスと、その近隣に
拠を構える地方都市国家は、人の範疇である大陸東部に群生する国家の中で、
もっともその理念を色濃く受け継いだ国土であるといえる。
伝来する文化、風物詩を恭しく次代へと引き継ぎながら―――人々は、大勢を
損なうことなく与えられた日々を生きていた。
大陸の東南部。群生諸国の一角に国土を構える、大陸有数の商業都市。
春の景観の見事さにも定評のあるこの国では、住民総出で季節の訪れを祝い、
その恵みを称えることが習わしとなっていた。
巡る季節の慶兆の、最たるもの―――堅く窄まっていた木々の若芽を綻ばせ、
ひいては満開の花を咲き乱れさせるその景観を、世帯、集落毎の規模で開か
れる酒席で以って、雑笑と共に歓待する、「花見」の宴。祝事と呼ぶには些か
世俗に塗れすぎた日々の喧騒の中で、彼らはそれぞれに、この季節の節目を
祝った。
ところで、花の宴と呼ばれるほどに酒勢の強い催し事に際しては、どうしても
酒を窘めない若年層は二の次にされがちな傾向がある。それでも、自らが宴の
主賓にはなれない事を初めから承知している彼らは取り立てて悲観するでもな
く、庇護者から許可された範疇の中で、子供なりの楽しみ方を模索していた。
だが―――それもまた、然るべき庇護の元に育てられた子供に限られての事。
頼る保護者を持たない未分化の存在にとって、世界から受ける制約は、目に見
えない分だけその果てというものがなかった。
寄る辺となる庇護者もなく、唯一根幹を同じくする血の絆につながれた、最
後の身内にすがり合う恭謙とした命綱。そんな風にして、世を渡る存在もある。
それでも生ある以上、どれほどの孤独の前にも人は順応し、息つく間もなく突
き付けられる日々を享受しなければならなかった。
生を繋ぐ事の責さえも、単身背負わされる重圧と引き換えに得る表向きの言
動の自由と、あらゆる言動を規制の元に束される代償に得る身の安泰と……
人は、どちらを以って人らしさと定義付けるのだろうか…
同時に双方の立ち位置を選ぶ事の叶わない濁世の住人達にとって―――そ
れは、二律背反の命題であったといえるかもしれない。
夢現を不安定に流離っていた意識が、ふっと浮上する。
まず視野に飛びこんできたのは、薄闇の中でもそれと解る、寝台の掛け布が
作り出す人身の輪郭だった。
現世に息づいて十有余年という歳月において、寝食の殆どを共にした、それは
近
しい親しい、共鳴者の姿。
見慣れたその姿を見るとはなしに眺めやっているうちに、半覚醒の状態であった
意識が再び追憶へと傾きかけている自らをスイは知覚した。
掛け布の端から零れ落ちた兄の頭髪の白銀がぼうと視野を侵食していく様に、
二、三度頭を打ち振って呆けていく意識をかき集める。
と、刹那。風の流れとともに鼻腔をくすぐった芳香に、翡翠の色彩を総身に戴く肢
体が反応した。
探るように周囲に巡らせた目線が、換気のため申し訳程度に隙間を残した宿の
窓辺で止まる。匂いの出所を確かめるようにわずか鼻を鳴らすと、表情の欠落した
細工物のような双眸が、それでも物問いたげに二、三度瞬かれた。
――――ああ。もうそんな時節となっていたのか
その芳香を風に乗せ、季節の移り変わりを人々に教える大振りな花弁の、白味
がかった薄紅色を思い出す。子供の手にも届く丈をしたその常緑木には、自分も
兄も、吉凶交々の思い入れがあった。
その花粉を糧とする虫達に、より早く開花を知らせるために自ら放つのだという
芳しい花弁の匂い。初春に花期を迎える草花の中で、もっとも強く匂い立つ特性
を持ったその花は、まさしく春の代名詞だった。
だから、自分達兄弟がこの花の香りを忘れることはない。心身に刻み込まれた
悔恨の記憶が、けして忘れることを許さない。
迂闊に近づきすぎれば辟易するほどに強烈な、その芳香は嗅ぐたびに、意識の
奥底に押し込めてきた記憶を否応なしに呼び起こしてしまう。
けして忘れるなと。過去を払拭することなどできないのだと。
自分達兄弟を襲ったあの忌まわしい呪いの季節が巡るたびに、兄の自虐は反芻
される。季節の訪れを告げるこの花が香る間、彼の眠りは乱される。
ひどく甘ったるい、それでいながら呪縛のように自分達に付きまとうその花香を、だ
からスイは腹の底から厭悪していた。
花の時期は、せいぜい長く見積もっても一月半ほど。だが、脛に傷持つ身の上
に流れる時流の速度を思えば、それはけして短い時間ではない。
夢見が悪いのか、寝台の兄が喉の奥で言葉にならない呻きをもらす。深く息を吸い
込んだ弾みで花香の充満する外気が肺を刺激したのだろう、乾いた咳を何度か繰り
返し、ようやく彼の呼吸は平静さを取り戻した。
そんな兄の眠りをただ見守るよりない、非力な小動物の外観をした今の身上では、
せめてこの香気を遮断するべく部屋の窓を閉ざすことさえ叶わない。
花の季節など―――一刻も早く過ぎ去ってしまえばいい。
表情というものを作ることができない能面のような獣の喉から、威嚇の様な唸り声
がついて出る。かつては家族と共に愛でた芳香で満たされた空気の中で、先端に
花を形どった細い尾が、不機嫌そうに左右に揺れた。
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