信仰告白・8


 閨事を共にした後の、気だるい倦怠から先に現実を知覚したのは、どち
らが先だったのだろうか。
 気も遠くなりそうな悦楽を叩き付けられて、忘我の態にあった白鳳が明
確な意識を取り戻した時、その総身は自らを攻めさいなんだ男の腕の中
に抱かれたままだった。
 「……っ」
 らしからぬ失態に、弾かれたように上体を起こしかけ……同時に軋んだ
悲鳴を上げて抗議の訴えを返す体に、それまで自身が挑まれていた荒淫
のほどを知る。咄嗟に寝台に突っ伏しかけた白鳳を、それ気付いた青年の
伸ばした頑強な腕が極自然な動きで支えた。
 結果として……なすがままに乱されて脱力した肢体は、その陵辱者の
腕により深く抱き込まれる形となる。

 「白鳳さん……大丈夫ですか?」
 情交の最中、解放を求めて流した涙で濡れたままの面を臆面もなく覗
き込まれ、平時の調子を自分から取り上げるその飄然とした様に、苛立
ちにも似た衝動が視線を背けさせる。それでも、誰のせいですかと小さく
返せば平時のままの穏やかな声音が、苦笑交じりにすみませんと詫びた。

 「すみません……でも、どうしても途中で引きたくなかったんです」
 「…セレスト?」
 汗で張りつく前髪を、手持ち無沙汰のように何度もかきあげてくる様が、
泣く子をあやしているようだとぼんやり思う。それでもあしらわれている
と憤りを感じるより先に、寄せられた手のひらの感触を心地よいと感じ
てしまうから…結局白鳳には、反駁の言葉が選べなかった。
 押し黙ったままの相手に何を思ったものか、青年は再び笑う。

 「貴方はこれまで、ずっと一人で生きてきた人だから…一人で悩んで
  一人でそれを打開して……そうやって、自分の声しか聞こえないと
  ころでその意志を確固たるものに変えてきたような人だから……だ
  から、本当に賭け値なしの、赤裸に近い所まで踏み込んで向き合
  わないと、貴方の底意には触れられないと思ったんです」
 結果として、いきすぎてしまった感は否めませんが―――悪びれも
せずにそう続けられて、その衒いのなさに聞き手も苦笑するしかない。

 「……放っておけばよかったじゃありませんか。それこそ、明日にも
  この国を出て二度と会う事もないだろう相手に、何をむきになって
  いたんです」
 「むきにもなりますよ。時間がないと焦らされた分、尚のこと。……あ
  のまま別れていたら、次に会えた時も、貴方は他人の顔をするで
  しょう?」

 問い掛けに問い掛けで返されて、出鼻を挫かれた居心地の悪さに
緋の双眸がニ、三度瞬かされる。応えを待つでもなく、独白のように
紡がれた青年の続く言葉に、刹那ほどの間その虹彩は見開かれた。
 「いつか、どこかで旅路を辿る貴方と再会した時……貴方に、そん
  な顔で見られたくなかったんです。だから、反動が貴方を傷つける
  事を承知で、貴方を守る壁を叩きました」
 「……っ」
 「貴方の旅は、貴方自身にしかその行程を歩めない。貴方の背負う
  ものを、他のなにものも肩代わりする事はできません。だから、貴
  方は貴方の思う通り、この先も歩いていけばいい。そのためにどれ
  ほど非情になろうと、その代価を払っている貴方の事を、誰も責め
  る事はできないでしょう」
 だけど―――言って、再び空で焦点のかち合った双眸の碧が、つと
情動の色を覗かせる。

 「だけど……そうやって、一人肩肘を張って誰の手にも縋らずに、歩
  く毎に道のりの険しさに自ら血を流しているような……そういう貴方
  の姿が、傍目にあまりにも頑なで、不安定で―――それがどうしよ
  うもなく気がかりだと…そんな風に、言ってはいけませんか?」


 喉元を無意識についた呼気を、飲み下す音を殺す事は、果たしてどの
位成功したのだろうか。せめてもの矜持で、かち合った視線を自分から
背ける事を堪えながら、突き付けられた動揺が早鐘となって鼓動を煽る
のを、白鳳は痛いほどに意識した。

 そんな相手の衝動を知ってか知らずか、訥々と言の葉を紡ぐ語り部の
語調は変わらない。
 「……俺は…正直、怖かったですよ。貴方のそういった一面が。貴方は
  受け流すという事をしないから…突きつけられるものをどこまでもどこ
  までも真っ向から受けとめて…しなる事を知らない潅木のように、い
  つか根元から叩き折られてしまうのではないかと…」

 酷く穏やかな…深い宥恕に凪いだ、海の色を宿す二つの虹彩。この同
じ目をした男に、今の今まで自分は責め苛まれていたのだということが、
この身で味わわされて尚、どこか実感として知覚できない程の違和感が
あった。
 それでも、総身に刻み込まれた倦怠はまぎれようもなく…その差異に、
より一層この胸襟を乱される。

 そんな聞き手の衝動を知ってか知らずか、語り部となった青年は凪いだ
語調をそのままに、ゆっくりと言の葉を続けた。
 そして…

 「言葉に出して助けを求めたところで、本当の意味では誰も貴方を貴方
  の戦いから救えないかもしれない。…だけどそうやって、剥き出しに
  なった本音をぶつけても、貴方の中の何が損なわれるものでもない
  事を……俺は、貴方に知ってほしかった」

 そして―――応えを求めない穏やかな壊術に、ただ黙したまま語り部
と向き合う白鳳の緋の双眸が、次の刹那大円に見開かれた。


 「俺達は……これからも、付き合ってはいけませんか?普通に会話し
  て、普通に酒でも酌み交わして……お互いに別々の道行きを歩んで、
  それでもたまには旅路の途中で普通に再会したりして―――そんな
  風に、極あたりまえの関係を、俺達は作ってはいけませんか?」
 「セレスト…」
 「壊すとか、どちらかがどちらかを懐柔するだとか、そんな風に後ろむき
  な情動ばかりではなくて…そういった、どこにでもあるような衒いのな
  い友人同士に、俺達はなれませんか?」


 ねえ、白鳳さん―――続く男の言葉には、夜陰に垂れ込めた閨の記憶
に酷く似つかわしくない清雅な響きが滲み出ているかのようだった。
 「……俺は…貴方の事が、好きですよ。貴方の言動はいつでも飄々とし
  ていて、どこか得体が知れなくて…それでも、今まで俺の回りにいな
  かった質の貴方にどれほど振りまわされた気分を味わっても…腹の
  底から不快だと感じた事は、本当に一度もなかった」
 だからこそ、このまま終わらせてしまいたくない……
 
 衒いなく、自らの情動を言葉に置き換える青年のよすがが、荒れた生活を
常とする身に、酷く新鮮なものとして知覚される。
 セレストは、この国の権威の象徴である王家を自身の命を以って守り仕え
る騎士だ。その限りなく貴い誓約を主筋と交わしたその時も…彼は、こんな
清しい声音で自らの剣と忠意を捧げたのだろうか。

 得難い存在である事を、今更のように胸襟に命じられた心地がする。この
男の得難い厚意が、大逆に手を染めたこの身上にいまだ差し出されている
事そのものが、奇跡であるかのようだった。


 それでも、向けられた言葉に、自らほだされる訳にはいかなくて…自分を
抱き込んだままの男の腕の中で軽く身を捩るようにしながら、意図した声音
で相手を煽る。
 「友人というのは…ここまで来ておきながら、ひどく不自然な言葉じゃあ
  りませんか?私が二度とこの国で悪さに及ばないように、体を繋ぐ事
  で私を戒めたのだと言ってしまったほうが、余程簡単でしょうに」
 よりすれからした物言いで、より聞き手の失望を誘うように。
 だが……それでも尚、青年はその首を縦に振ろうとはしなかった。


 「俺は、まず貴方と友人になりたいんです。対等な友人関係を築くのに、
  畏まった取り決めは要らないけれど…だけど、お互いがお互いを認め
  合っていなければ成り立たない、最初の相関だと思うから」

 含みを持たせるかのように一端言葉を切った青年の体に改まった仕草
で向き直られ、二人分の体重を受けたままの寝台がぎしりと軋む。
 「夜が明けて、この宿を離れたら…俺達は、また別々の道行きに返る。
  だけど約束を交わす必要もないくらい、当たり前に再会して、当たり
  前にお互いの現状を語り合って…たまにはお互い、鬱積を吐き出し
  合ったりして……そういう、友人として当たり前な関係を、ここで貴方
  と築いてから別れたかったんです」

 閨事の名残に濡れる、白磁の頬へと伸ばされた男の大きな手の平が、
これ以上ないほどに優しい仕草でその緩やかな曲線を描く輪郭を撫で下
ろしていく。
 すみませんと…その夜何度目かの贖罪の言葉が、薄明かりに照らし出
された夜陰の中へと浸透した。

 「男の本能を逆手にとって、無理強いしてすみませんでした。でも、腹
  の底からの言葉を誰かにぶつけても……貴方の中で、何も失われ
  はしなかったでしょう?」
 「…っ」
 「自分の全てを曝け出しても…貴方の歩むべき道は―――いまでもちゃ
  んと、貴方の目の前に残されたままでしょう?」

 貴方はなにも、変わりなどしなかったでしょう―――?


 刹那―――胸襟をざわりと満たした衝動を、なんと名付けたらいいの
か…白鳳には、判じる事ができなかった。
 限界を無視された激しさで挑まれた、情交の後遺による居たたまれな
さと。向けられる言葉に最中の追憶を煽られるかのような、胸襟を焼く焦
燥と。
 そして……そして、賭け値なしにこの眼前に差し出された、男の厚情
に触発されていく、自らの心弱さに対する自虐の念と……


 「白鳳さん…?」

 これは、閨を共にしたその最中だけ、無意識下の甘えを許される本能
的な衝動ではなかったから……性を同じくする者としての矜持が、向け
られた眼差しから半身ごと自らの容色を背けさせる。
 それと気づいた青年が、閨事の最中のように無理やりに向き直らせよ
うとすることはなかったが…向けた背が、胸襟をせりあがってくるものに
不規則な震えを帯びるのを、白鳳は相当の労力を持って自制しなけれ
ばならなかった。


 振り払っても振り払っても、差し出す事をやめようとはしない、得難い
尊い、癒しの手。何一つ見返りを求めないその無償の宥恕は、俗世を
生きる人間の、最も貴い聖性の象徴であるかのようだった。
 ………ああ、そうだ。こんな得難い厚情に、自分もかつて、触れた事
がある。

 例えば母が。あるいは父が。若くして常世に召された両親が、それこ
そ当然のように自分と弟に与えつづけてくれた、それは世にただ二つの、
慈愛の手―――
 当然そこにあるものとして、臆面もなく衒いもなく、差し出された父母
の手に守られて生を紡いだ時間が、この身上にも確かにあった。

 だが、それは父母性という人の身の聖性が生み出しせしめた、得難
い尊い、癒しの手。そのどちらもを失ってしまったこの身が、同種の厚
情を与えられる事など終生あるまいと、そう肝に刻みつけながら生き
てきた。
 既に成人も間近であった自分はともあれ、当為まだ稚いばかりであっ
た小さな弟の、あまりにも早過ぎた別離の記憶がただ哀れで…

 それでも…親ではない自分には、その同種の慈愛を弟に分け与え
てやる事ができなかった。
 どれほど愛そうと思っても、兄であるこの身が親の目で弟を守ること
はできなくて―――互いの年齢差もあり、不器用な愛情を示す事しか
できなかったそんな日々の矢先、あの悪夢のような事件が起きたのだ。

 あれから五年。いつ訪れるとも知れない終焉の時をひたすらに待ち
望みながら、倫理も無視した後ろ暗い旅路を辿る日々は、いつしかこ
の身上から―嗜好云々という意味合いではなく―人としての健全性を
取り上げた。
 そうあらねばと自らを追い立てた結果としての自身の有り様を、振り
返る事はあっても悔恨におぼれた事はない。それでいつか解放の時
が訪れるのなら、世論が説くお仕着せの倫理になど殉じたいとは思
わなかった。

 だが…それでも事あるごとに、常軌を逸したこの身上が、けして世
に祝福される存在ではなくなってしまったことを、否応無しに現実とし
て突きつけられるから―――
 だから……


 自分を守るために自ら作り上げた壁を、敢えて叩いたとセレストは
言っていた。そうまでしてでも、この胸襟に巣食うものに触れたかっ
たのだと。
 ああ…確かに、これ以上ないほどに見事なしっぺ返しであったと
思う。これほどに直球で、胸襟を穿つ返し手を、自分は他に知らな
かった。
 どのような柵を背負おうとも、投げ出す事の叶わない生なら、生き
ぬくより他にないから……だから、それと承知でこの身を覆う防御
壁を叩き壊そうとする青年の行為が痛みとなる。
 素裸の心で相手と向き合う事は、自身の中に余人を受け入れる
余地さえ残せるのなら、けして難しい事ではないのだろう。そうして
人は自らの世界を広げ、真に自らの理解者となり得る存在を自身
の中に認識していく。それを立ち位置の如何で友人と呼ぶのかもし
れないし、あるいは性別によってはそれをこそ生涯の伴侶として、
互いを求め合う結果を招く邂逅となる事もあるのかもしれなかった。

 だが…そのどちらも、今の自分にはあまりにも縁遠いもので。
 
 生ある以上は、この現世を生きられるだけ生き延びようと、腹に決
めた。そうした居汚い妄執にしがみついてきたからこそ、この生はこ
こまでの存続に耐え切れた。
 だが―――それでもそれは、あくまでもこの身一つを対象とした欲
の現れであったから…

 自分と、弟と…それだけで、支える腕は二本とも使いきってしまう。
それ以上を背負おうとしたら、もう両の腕がへし折れるのは時間の
問題だった。潰えられない理由がある以上、そしていまだ果ての見
えない旅路にある以上、そんな時間勝負の生き様はけして許されな
い。
 それでも尚…突きつけられる痛みを飲み下し、自ら課した枷を外し
てしまえと、青年は告げるのか…

 母のように。父のように。それがお前に必要な事ならばと、自らを
仇役とする事も辞さない、捨て身の厚情。
 人の社会でも、動物の生きる野生の世界でも…世の庇護者達は
時満つればそうやって、我が子の育成を促すために最も厳粛な慈
愛を注ぐ。そして一層の成長を遂げるためにその庇護の手を振り払
われた子供は、突き放されたという衝動を覚えつつもそれとは別に、
彼らから向けられた確かな愛情を肌で感じ、その情けに応えるべく
懸命の研鑚に励もうとするのだ。

 それはさながら、父のように。母のように。
 セレストがこの身に向ける情動は、方向性こそ違えどそういった厚
情にひどく似ていた。
 二親を失って以来、終生この身が享受することはないと思っていた、
深い尊い慈愛の記憶―――


 ああ、なんて―――

 身を捩った体勢のまま、敷き布に押しつけた形となった頬桁の奥
で…身を持て余すほどの情動を、吐息とともに白鳳は噛み殺した。

 出会いの日から、今日のこの時まで……自分と彼の青年の間に、
どれほどの接点が穿たれてきたというのだろう。
 一度目は、ただの偶然だった。互いに微妙に目的が絡み合う旅路
の中で、必然的に接触の機会が増えるのは至極当然の事であった
かもしれない。
 だが、その後ことある毎に意識的な接触を図ってきたのは、きっと
先に懐柔されてしまった自分のほうだった。

 寄ると触ると同性である自身をかき口説こうとする、笑えない性癖
の持ち主―――いつでも困ったような顔をしながら自分と向き合っ
ていたこの青年が、まず自分に下したであろう総評はおそらくそん
なもので……
 それだけの出会い。それだけの相関だった。
 人の身の卑小さを振りかざすようにして濁世を生き延びてきたこの
身が、そこまでの深い情けをかけられる理由など何一つ有りはしな
いのに…

 なんて―――得難い為人を、彼の存在は衒いなく見せつけてくれ
るのか…


 「―――白鳳さん。言質が必要なら、何度でもいいますよ」
 「…っ」

 けして横暴なやりようではなく…しかしそれでも、逃れ様のない仕
草で、両の頬脇を覗き込むように覆い被さってきた男の腕に挿まれ
て…衝動に僅か歪められた容色を、否応無しに眼前の青年へと向
きなおさせられる。
 青年は―――互いの優劣を感じさせない凪いだよすがのまま、た
だ静かに、笑んでいた。

 「貴方は……貴方が思っているほど、世界から孤独を強いられて
  いる訳じゃない」
 「セレスト……」
 「誰と関わりを持とうが、誰に底意を晒そうが…貴方は変わらず、
  この先の生を歩んでいけるんです」

 臆する事はないのだと…そう言外に告げる、深く静謐さを帯びた
言霊のような吐露。

 「白鳳さん。貴方はただ、貴方の望むがままの旅を……それが貴
  方の人生に必要なものであるなら、誰も貴方の道行きを阻み
  はしない。だから、貴方が世界に対して、堅く凝っている必要
  はないんです。……貴方が旅路を辿る空の下で目にするもの
  を、この国に生きる俺が見る事はありません。俺は貴方ではな
  いから、いつでも同じ目線で生きていく事はできないけれど…」

 それは、他人の視点の気楽さから紡がれた、態のいい常套文句
とも受け取る事ができるものであったのに……向けられた青年の
真摯さが、それを白鳳に許さなかった。

 「だけど……ことある毎に、きっと俺は貴方の事を考えます。大過
  なくすごしているだろうか、旅の行程は、少しは終わりに近づい
  ているだろうか。……酷く苦しい選択に、直面していたりはしな
  いだろうか…」
 「……っ」

 職種柄か、およそ言いよどむということのない平時の青年を知るも
のの耳朶に、俄かには信じがたいほどの重さで以って浸透していくそ
の独白の語調。
 それは……この夜陰の中、ただ一人の聴衆となった白鳳にとって、
他のなによりも自身の胸襟を揺らがされる吐露だった。

 青年の言葉が指し占めすものを知るのは、同じ現場で一件に関わ
り合った、仕掛け人であるこの身だけだ。

 選択と、青年は言っていた。
 この国…この世界と、自身の掲げる大望を秤にかけた、生涯一度の、
大博打。眼前の青年やその主筋の少年と、この身一つを頼りのよす
がとする弟の……、どちらか一方の命を選ぶより他になかった、二律
背反の選択肢。
 そして―――自分は、あの騒動に身を投じる道を選んだ。自ら抱え
込む大過の重みをこそ選んだ。

 結果として、あらゆる采配の妙に助けられた自分達は、誰一人命を
落とすことなく、この現実の中を生きている。だが、それは本当に奇跡
としか呼び表し様のない事で……

 あのまま予定調和のままに騒動が締結していたら、今は勝者側の
人間となった青年が、こうして私的に自分と向き合っていることなど
ありえなかった。存えて、顔を合わせる機会があったとしても…その
時にはもう、自分達の相関は簒奪者とその虜囚へと、あるべき姿を歪
められていたことだろう。
 その顛末を知りながら……まるで、日常の些細な過失を苦笑交じ
りの咎めるかのように、終わりよければとこの青年は、糾弾の手を引
いてしまうのか……

 そして……そんな仕掛け側の抱いた衝動を過たず察し受け入れた
者でなければ、けして紡がれることのない言葉の重み―――


 「白鳳さん…」
 衝動の重さが喉をふさいでしまったかのように…合の手一つ返すこ
ともできない相手の不様を窘めるでもなく、青年はゆっくりと言の葉を
重ねた。
 「別の土地を旅する貴方の道行きに、俺は何も手助けすることはで
  きないけれど…夜が明ければ、俺は貴方を送り出すことしかでい
  ないけれど……だけど、貴方があんな風に辛い選択を強いられる
  ことがないように、いつでも俺は、祈っています。貴方が強いられ
  た痛みの分だけ、貴方が俺やこの世界に抱いてくれた好意を…
  俺はけして、忘れません」
 「…セレスト」

 そして……
 「貴方の旅が、少しでも健やかなものであるように…少しでも早く、
  貴方の払った代価が報われるように…そう、心から祈っています」

 そして……続けられた青年の、どこまでも深く、尽きるということの
ない宥恕の言霊に…
 ―――胸襟の奥底で、何かが壊され、弾け飛んだ音を…白鳳は、
聞いたような気がした。


 「……白鳳さん?」
 賭け値のない厚情を、言葉ほど雄弁に物語る容色に、ただ案じるよ
うに覗きこまれて…否応無しに見返す視野が、情動の織りなす薄幕に
歪んだ。

 自らの命と矜持を守りぬくために、何度も何度も積み上げ塗り固め
してきた、虚栄という名の防護壁。
 叩き壊され、心許ない残骸ばかりになったそんな自制の名残が、欠
片となって眦を伝い落ちていく。
 性を同じくするものとして、それは不体裁の極みであるはずなのに…
不思議と、それを隠そうと思う気持ちにはならなかった。


 無事で、健やかでと…他には何も望まない、無心の祈り。
 そんな風に、打算を越えた場所から惜しげもなく差し出し手を延べる相
手が、これまで自分にはいただろうか。
 以前は、そんな衒いのない相関を誰かと築いた時分もあったような気
がする。けれどもそれは、靄がかけられたように、遠い追憶の彼方の存
在で…

 「…み……せん」
 「白鳳さん?」
 「……すみ…ませんでした…」

 自分はこういう風にしか生きられないのだからと…そう自ら言い聞か
せて、それを自身の暗躍に対する詭弁めいた贖罪の言葉に挿げ替え
た、どこまでも自分本意の、免罪符。
 それと知っていながら…けしてそのことを糾しようとはしないこの男の
得難い厚意に―――どれほどの恣意で以って、自分はすがり続けて
きたことだろうか。
 いっそその飲み込まれた憤激のままに、この身を断じてしまえと理性
はいつでも訴えて…それでも、突き付けられた現実はそれを自分に許
さなかった。

 凌ぐよりなかった。飲み下すより他になかった。それでも生き延びる事
を、自らに課したのであれば。それなのに…
 結果として、腹の底に積もりつづけたこの遺恨を……苦もなく汲んでし
まうこの男は…

 「…すみません…セレスト……っ」
 箍が外れたように上がる嗚咽に、意気地もなく声音を途切らせながら…
埒もなさないと承知の懺悔を、幾度となく繰り返す。
 なにを、今更に告解すると言うのか。取り戻し様もない、贖いようもない
大過に手を染めて、なおも避けては通れないであろう未来の裏切りの予
見に戦慄さえしながら、どんな詫び言が自身に許されるというのだろう。
 それでも、むけられた双眸の碧はあまりにも平時のままで…この相関
は、今でも変わることなく、出会いの時のままで……

 熱にうかされたうわ言ででもあるかのように、口をついて出るのは片言
の懺悔ばかりで…そのやるせなさが新たな雫となって両頬を伝い落ちる
のを、白鳳は押しとどめることができなかった。
 そんな痴態を咎めるでも揶揄するでもなく、ただその発露を拭い取ること
を目的とした骨太の指が、衒いなく眦へと寄せられる。同時に降りてきた
唇に刹那の間触れられて、閨の最中でもそれを自分に施さなかった男の
行為に、なおのこと衝動を煽られる。
 戯れのように束の間掠めただけのそれが、程なく耳朶へと移行して…
それでも、青年は泣くなとも謝るなとも言わなかった。


 「俺達は…また、会えますよ。貴方がそう望むなら、いつでも、どこでも……」

 人と人との関係なんて、何度だって作りなおせるものなんですから……
言って、微かな吐息と共に寄せられたままの耳朶を打つ声音が―――僅
か笑った。
 「必要な時には、いつでも声をかけてください。隷属させるだとか、征服
  するだとか、そんな理由ばかりを探さないで…ただの、気心の知れた
  友人として、気楽に再会しましょう」
 「セレスト……」
 「待っています。俺は俺のあるべき場所を守りながら、貴方との基軸が交
  わるのを。―――貴方が、俺を「呼んで」くれるのを」

 深く胸襟を満たしていく、耳に染んだはずの男の声音。それは、口にす
るもの如何で三文芝居の常套文句にも劣る、低廉な馬脚を現しかねない
ものであったはずなのに……
 向けられた一語一語が…脛に瑕もつ身には過ぎた聖性を帯びた福音と
なって、総身を打ち据えるかのようだった。

 それこそが、らしくもない行為に及んだ青年の思惑だったのだろうか。自
身の様相が相手の目に触れることのない互いの体勢に、白鳳は腹の底で
感謝する。
 遮るものとていない、開かれた視野のその先で―――簡易な意匠の施
された宿の天井の木目が、せりあがってくるものに酷く歪んで見えた。


 そして―――
 「・……約束を、白鳳さん。俺が貴方に腹を立てた理由を忘れないでくだ
  さい。貴方には、この地と再び接触する行動力もあれば、過ぎるくらい
  に明晰な知性もある。どうすれば自分で自分を救えるのか、その言葉
  もちゃんと知っていた。―――知っていて、また言葉を飲みこむような真
  似をしたら……今度は平手じゃすみませんよ」
 それは、言葉面だけを捉えれば、ひどく横暴な脅迫の言葉であるように
も取れた。そもそもあれだけの乱行に及んでおいて、釘を刺すべき箇所は
そこではないだろうと、どこかに残していた冷静な部分の自分が苦笑する。

 それでも……即座に否と告げることは、白鳳にはできなかった。


 お前のためを思ってのことなのだと…そう前置くことで、全ての横暴がま
かり通るなら、この世にはあらゆる咎が立証しえなくなる。それでは人の世
の秩序が成り立たないからこそ人の世には細部に分れた律令があり、そ
れを遵守することを前提として、時世には正義の提議付けがなされてい
た。
 暗躍を繰り返す自分の悪行が明るみに出れば、この手は簡単に後ろに
回る。それを承知の上と、そんな風に嘯くことで自らを正当化しようとは思
わなかったけれど…少なくとも、犯罪者の自覚がありそれに似つかわしい
振る舞いを肝に命じているからこそ、自分はここまでの息災を勝ち得たのだ。
 セレストが自分に仕掛けた行為は、傍目にはれっきとした暴行だった。
いわゆる「手を汚しなれた」自分のような人種であればともかく、無自覚の
違憲者ほど、放置に二の足を踏む存在もない。扱いを誤れば、法治国家
の意義に関わる、由々しき事態を招きかねなかった。

 だが……その根幹に全く我欲を感じさせるものがないのであれば、それ
は往々にして、罪状として立件しえない。
 そして、思うが侭の粗暴に及んでいながら―――青年の行為には、心
理的な部分での欲というものが、まるで存在していなかった。


 身一つで乱世を渡る自分にとって、体を繋ぐという事はその相手を篭絡
し、隷属させる手立ての一つに過ぎなかったから…あるいは、思いあった
者同士が互いの絆を深めるための通過儀式の一つであるのだと、そう理
性で得心するだけのものであったから…
 こんな風に……相手の深淵に沈むものを無理やりにでも引きずり出し、
解放を強いる荒療治にすらなりえるのだと……自分本意の関係ばかりを
作り上げてきた自分には、この身に受けてみるまで解らなかったのだ。

 それをなし得たのは、無私の芳情によるものに他ならなくて……性を同
じくするからこそ知覚せざるをえない青年の自制に、白鳳は戦慄する思い
だった。
 そして―――そこまでの無我を貫いてまで、彼が自分に伝えようとした
心が……酷く重く、壁を壊されて無防備になった胸襟にのしかかる。


 誰かと、打算を越えた親交を深めようと思った事はない。過ぎた情も過ぎ
た義理も、ときにこの暗躍の足枷となる事を、本能的に自分は知っていた。
 だから、戯れで終わる事のできない相手なら、一定の距離以上を歩み寄
ることは絶対の禁忌で…自ら定めたその細則だけは、けしてたがえない自
負が自分にはあったのだ。

 だが……どうしたというのだろう。壁を叩き壊し、胸襟の奥底までも土足
で入り込もうとするこの無自覚な珍入者の存在が…どうしても、この身は不
快だと思えない。
 この生を生き延びたいと思うなら、自身の在り様に二の足を踏む事は、
断崖の深淵を自ら覗き込むようなものだ。その畏怖と衝動が…きっと自分
を変えてしまう。

 母のように。父のように。
 もうこの身が受け取る事などありえないと思っていた、得難い尊い、無我
の宥恕。跳ねつけても跳ねつけても、けしてそれを差し出す事をやめなかっ
た、ただ一人の断罪者。


 ―――変えられて、しまう。
 この手に総身ごと縋ってしまったら…もう自分は、引き戻る事ができなく
なってしまう。
 だが…だけれども……

 「…裏切りを……」
 「白鳳さん?」
 「……私は、いつかきっと、また貴方を裏切ります。差し出された貴方の
  手を、私はきっと、この手で傷つける……それでも……?」
 それでも、約束を―――?

 水を向けられ、青年がその居住まいを正す。自然再び向き会う事となっ
た双眸の碧が、束の間もの言いた気にニ、三度瞬かされた。
 深い海の色を宿す虹彩に、ゆらりと浮かび上がっては消えていく、情動
の波紋。
 だが…それでも、青年は、否とは口に出さなかった。


 「―――構いませんよ。それが、貴方にとって本当に必要な時になら」
 「……っ」
 「その時には…俺も俺の納得がいくまで、貴方との決着をつけますから。
  うやむやのままもの別れするのは、性にあわない。それを覚えてい
  て頂けるのなら…構いません」
 「セレスト…」
 「白鳳さん、俺は応えましたよ。……約束は?」

 呼び水となったのは、自分のほうで…だから、それがどれほどの機微
を潜めたものであれ、白鳳の側から話題を打ち切る事はできなかった。
 心情的に、逸らす事も許されないままひたすえられた視野の向こうで、
目に見えない緩やかな搦め手を伸ばす断罪者が、凪いだよすがで自分
の応えを待っている。

 諾とでも、否とでも―――自分が答えを返さない限り、青年はいつま
ででもこのままこの身を解放しないだろう。そして、断じられているよう
でありながら、その実選択権はあくまでもこの身上にこそあった。

 ここで否と応えても…激した青年が、この身に報復する事はないのだ
ろう。彼はきっと、諦めたように笑んで夜明けと共に自分を国境の外へ
と送り出すだけだ。
 どうか気をつけてと―――どこか釈然としないよすがでそんな風に餞
るだろうその語調まで、容易に想像がついてしまう。

 誰と関わりを持とうとも、変わることなく自分はこの生を歩んでいけるの
だと、そう告げられた言葉が胸襟で反芻する。それは逆を返せば、ここ
でこの得難い救済者と断絶しても、道程に支障はないということだ。
 それなら、自分は一言否と切り捨てて、再び自身のあるべき姿を取り
戻せばいい。
 …解っている。何度も繰り返した自問に、どう応えるべきなのか、理性
では解っていた。
 それなのに……


 ああ…変わらないなど嘘だ。こんな風に、何かを自分と切り離して考
えてみる事に、痛みを覚えた事など自分にはなかったはずなのに……
 こんな衝動を覚えてしまった刹那から―――自分は既に、負かされ
ていたのに……


 軍配の形を自ら認める事は、性を同じくするものにとって筆舌につくし
がたい恥辱だった。それも、張り合った相手が年若なのであれば、尚
のこと。
 それなのに……なんという、不心得である事だろう。喫した雌雄を受
け入れる事よりも、この得難い差し出し手を振り払う胆力を自身の中に
掻き集める事のほうが、余程困難で痛みを覚えている自分がいる。
 どうしようもなく、ただ痛くて……同性ゆえに残された最後の底意地を、
手放す誘惑に自制が揺らいだ。

 「白鳳さん?」

 駄目押しであるかのように、繰り返しかけられる呼ばわりの声。
 常と少しも変化を感じさせない様相でありながら、それでも黙秘だけ
は許さないと言外に告げるその深い声音に……ついに、白鳳の中で
禁忌と我欲との均衡が崩れた。


 「………はい」

 続く応えの声は―――室内にたれこめた夜陰を辛うじて揺らがせる
ほどに、酷く心許ない響きを以って周囲の空気に浸透した。



 「―――――約束、します…」



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