信仰告白・5


 王冠簒奪の一件によってもたらされた、城内の喧騒の爪あとを、その一部分のみを
抜き出して隠滅させていく作業は、人手のない当事者達にとっては相応の重労働だっ
た。

 どれほど気風の穏やかな国家であれ、また、時間に換算すれば実に微々たるもの
であるとはいえ、その転覆を謀った謀反人を身内に抱えておきながら、一切の記録を
残させておかなかったはずもない。城下にまで捜索の手が伸びなかったのは、ひとえ
に初期動作を誤ることなく立ちまわれた自分達の運気の賜物であったのだと、背筋の
冷える思いでセレストは神に感謝した。

 まず、一番に抹消しなければならなかったのが、公式文書として毎日の提出を義務
付けられている騎士団の業務日誌と近衛隊の警備日報だった。この二つの文書には
それぞれ一部毎に通番が打たれている為、適当な理由を捏造して書損扱いとして処
理し、新たに改竄文書を偽造しなければならない。こういったことは組織の人間である
セレストの領域であったから、彼が主となって諸作業を終えた後に王家側の人間であ
るカナンが兄王子の筆跡を真似て、署名証印を施した。

 次に、自分達が城を空けていた数日間を周囲にいぶかしまれないよう、城内の要所
要所に偽りの痕跡を残して回った。例えば昨日今日に出されるべき洗濯物の量である
とか、そういった、本当に些細なことを。
 この数日間、自分達の姿をさもこの城内で見かけたと錯覚させるような偽りの記憶を
植え込み、その思い込みによる証言を有事に誘発させるための、各関係機関とのそれ
らしい会話を交わしておく事も忘れない。
 とはいえ、偽証は偽証なので、その内の一人でも日記など私的な記録に残していれ
ば全ては元の木阿弥とかすのだが…この空白の合間に起きた事が事だけに、王家に
仕える立場にあるものが迂闊な証憑を自ら作るとも思えなかった。
 仮に勇気ある人物がある種の愛国精神から事の真相に迫ろうとしても、主筋の存在
であるカナンが多少なりとも圧力をかければ、それで大概のおさまりがつくだろう。
 そこにかかっているのが愛する家族の安寧であれば、それがどれほど「らしくもない」
行為であれ少年が二の足を踏むことはまずあるまいし―――それに、おおらかな国風
であるが故に認識がおざなりにされがちではあるが、ルーキウス王国は王家を唯一絶
対の指導者にして為政者に掲げる、れっきとした専制君主国家だった。

 最後に懸念されたのは、その為政者と呼ばれるこの国家の人々が私的に何事かを記
し残してはいないかということだったが…幸いにして、国主であるリプトン王をはじめ、彼
らに日記をつける習慣はない。
 その中でただ一人の例外といえるのが筆まめで知られたカタリナ王妃の存在であった
が、幸か不幸か彼女もまた里帰りの最中である為、そもそもの現場に居合せていなかっ
た。
 第二王子の権限で、殆どの公式文書であれば一度はカナンの手を通るから、そういっ
た書類についてはいくらでも隠蔽できる。
 様々な運気に助けられ、帰城して彼らの待つ玉間から一端辞した二人はそれだけの作
業を効率良くこなしていった。

 そして―――現在でき得る全ての工作を終えた頃には、ルーキウスの蒼穹は既に夜
の帳に覆われようとしていた。




 久方ぶりに家族と顔を合わせての夕食を終え、最後の口裏合わせに騎士団長のアド
ルフ・アーヴィングとの非公式の謁見を試みてから自室へと引き上げたカナンは、部屋
着をくつろげる手間さえ惜しいというかのように、入室するなり大仰な仕草でその総身を
寝台の上へと投げ出した。
 スプリングが大きく軋み、上等な羽毛作りの上掛けが乱暴な所作にバフンと音を立てる。
 当然の職務として、平時の様に護衛を兼ねてここまで付き従っていたセレストの眉宇が
束の間曇り―――しかし結局、何を小言めいた事を口にするでもなく、彼は少年が居汚く
寝そべる寝台の傍らまで歩み寄ると、手にした夜着を静かに置いた。

 ―――疲れているのだろう。それこそ、泥のように。
 ここ数日、急激な環境の変化に満足な休息も取れずにいたところに、今日になって駄目
押しのようにダンジョンでの単独行動を強いられた。挙句その双肩に国家の存続を賭けた
大博打にまで及んだのだ。探索も、けして胴元総取りが許されないその賭けも、成長期に
ある少年の心身にどれほどの負荷を背負わせた事だろう。
 それでも自意識の特出したこの主に、幼い時分のように着替えの手伝いなど申し出れば
特大の雷が落ちる事は必至であったので、セレストは寝台に懐いたままの華奢な肩をそっ
と揺さぶった。

 「カナン様…今日はもう、お召し替えをなさってお休み下さい。相当、お疲れのご様子です
  よ」
 「……ああ…さすがに今日は……疲れた…」

 水を向けた言葉に一切反駁しないばかりか、自ら限界を口にする王子のよすがに、再び
青年の眉間に深い皺が寄せられる。例えば風邪を引き、高熱にうかされているような時で
も弱音の言葉を極端に嫌っていた過去の少年を知るが故に、彼が本当の極限状態にある
ことが嫌が応にも窺い知れた。
 失礼しますと言い置いて、寝返りを打った少年の上体をゆっくりと抱き起こす。
 「ほら、カナン様……お風邪を召してしまいますから…」
 誘導に逆らうことなく、引き起こされるまま重心をこちらに預けてきた少年の体を支え、回
した手で覚醒を促すべくその背を軽く叩く。
 今一度と繰り返した三度目の呼びかけにも反応が返らず、ごり押しのできない立場上い
よいよセレストが途方にくれかけた頃…腕の中で、収まった少年の体が出し抜けに大きく
伸びた。

 「―――んぁ……ああ、解った解った…もう寝る」
 差し出された夜着に腕を通す少年の仕草は、それでもやはり睡魔に抗いがたいのか酷
く緩慢だった。
 ようやっとの事で着替えを済ませ、少しは意識が戻ったのか、澄んだ青の虹彩が倦怠を
振り払うかのように瞬かされる。

 「…もういいぞセレスト。お前も下がれ、今日はご苦労だった」
 むしろお前のほうが疲れているだろうと、言外の労わりを覗かせた辞去の命に、同様に
言葉に出さない謝意を込めて、青年も一礼する。


 だが……青年にはもう一つ、自らの主に立てなければならない伺い事があった。

 「……あの、カナン様…」

 それを口にする事は、心身の労苦を労って今夜の御役御免を言い渡した少年に対し、
相応の気骨をおらなければならない事だった。
 だが…それでも、今夜を逃せば恐らくは、自分はもう二度と、彼の存在との邂逅の機
会は望めない。



 「……今夜…どうしても片付けておきたい所用があるのですが…」

 意を決して続けた言葉に、少年の感情豊かな双眸がもの言いたげにニ、三度瞬かされ
るのを…不敬を承知で、セレストは気付かない振りをするしかなかった。







 国外れへと続く街道を通りすがる人影は、とうに途絶えていた。
 新月の月明かりに照らされて、薄ぼんやりと輪郭を浮かび上がらせる田舎道を慎重に辿
りながら、それでも白鳳は周囲に何度目かの視線を巡らせる。

 夜半であれ、街中を集団で連れ歩くにはあまりに悪目立ちが過ぎる人外の従者達は、
既にそれぞれ単独で国外の拠点まで避難するよう命じて別れている。自分がクーデター
の主犯格として手配されているであろう事は想像に堅くなかったから、彼らを先発として
自らは早々に宿を引き払い、時が満つるまで夜陰に潜んでいた。
 小さな城下町を抜け出すのにさほど時間を要するはずもなく、また人目を忍んだ脱出行
が取り立てて難儀だとも感じない。それでもさすがに国境を示す外門が遠目に見えた刹
那は、お尋ね者であるという緊張に背筋が伸びた。
 
 何しろ、自分が転覆を謀ろうとした国家の要人たちに、この面はあからさまに割れてい
る。知らぬ存ぜぬで検問をやりすごす事はまず不可能だった。
 獲物の特性を考慮に入れても、単身で一度に相手取れるのはせいぜいが三、四人といっ
たところだ。それ以上を欲張れば、必ずどこかで要らぬ足がつく。
 やはりあれこれ二の足を踏む前に、弟だけでも先に従者達と脱出させておくべきだった
だろうか―――そんなことを考えながら、それでもぎりぎりの距離まで様子見の足を運び…
次の刹那には、白鳳は脱力した。


 「……スイ、行こうか」

 国境地帯は、封鎖されてなどいなかった。
 それどころか……外門には、検兵一人、配置されていない。

 「なんの心配もいらないようだよ」

 動揺が声音に滲み出てはいないかと、外門を見上げながら無意識に自身の唇を湿す。
 この国の治安は、どうなっているんだろうね―――揶揄した口調で続けながら、それでも
語尾が、尻上がりに震えた。


 このルーキウスという国がどれほど呑気で長閑な気風をしているとしても……国家に牙
むいた大逆者に対してお咎めなしというのはあまりにも不自然過ぎる。あれだけの暗躍に
及んだ自分がいつまでも国土に留まるはずもないのだから、今日にでも当然相応の封鎖
体勢がしかれているものと思っていた。
 だというのに…どうしたことなのだろう、この不自然なまでの平穏さは。

 敢えて対象を一端泳がせることで、捕獲の確率を上げることはハンターである自分も用
いる常套手段だった。この国にもれっきとした警備機関がある以上、自分の背後に見え
隠れする「黒幕」の存在まで芋蔓式に検挙するために、こういった手配が為されていても
おかしくはない。相手が神の使いを名乗る八翼であることなど知りえようはずもないのだ
から、国とすれば人の世の権勢が及ぶ存在として、自分達を十把一絡げに処断してしま
いたいところだろう。

 あるいは―――本当に、見るがままの光景を答えととるか、だった。
 多少の裏工作を施したとはいえ…王冠強奪の一件で事実無根の濡れ衣を着せられた
第二王子とその従者が、それでも最後まで城下を自由に動き回れたのは、各関係機関
による初動捜査の遅れによって情報の伝達が停滞していたからだった。外部からある程
度手を加えられる状況下にあったとはいえ、機関の元来の体制に相応の「穴」がなけれ
ば、隠蔽工作の効果はない。
 そういえば、一時的に滞在時期が重なった為に出会い、そして自分の暗躍になし崩し
の形で一役背負わせた盗賊団の頭領も、以前この国では犯罪行為が容易いと嘯いて
いたことがあった。
 治安に対する、住人同士の不文律の信頼関係を根幹に抱えた国では、やはり有事を
想定した自衛という意識が薄いのだろう。その網の目をこうしてくぐれば、政治犯にすら
なり得る存在だとて労せず逃げ延びられるということか…。

 だが……それは、あくまでも首謀の面が割れていないということが大前提だった。国
の要人に顔を知られ、事の経緯までもを語り聞かせた状況下で、さすがにその理屈が
通るとは考えられない。
 

 だとすれば……残された可能性は、もう一つしかないように思われた。
 王家の人間の中で、事件の全貌を把握している人間はただの二人だけだ。その二人
が揃って口を噤み、隠蔽のための口裏合わせに及んでいるならあの城下で、真相を知
り得るものは存在しなくなる。となれば、当然外部に犯人捜索の手が伸びることもない
だろう。
 だが…それは……

 「―――見逃された…?」

 誰に、とも、なんのために、とも…口に出して自問することはできなかった。
 それを為し得る権限を有する少年と、その従者の立ち位置を鑑みれば、この状況を
認可したのがどちらなのかは自ずと想像がつく。同様に、少年の従者であり守役であ
る件の青年が一件に対し、どのような立ち位置を守っているのかも。

 政治的な、駆け引きというものもあるのだろう。仮にそれが表向きの姿であれ、この
穏やかな気風を建国以来守りつづけてきた小さな農業国に、無用な汚点は残したく
なかったというある種の愛国心と……そして、心安く日々を過ごす王家の人々に、最
後まで「蚊帳の外」にいてほしいと考えた彼らの配慮と…
 それら全てを波風立てずにすませようと考えれば、渦中に身を置いた主従が揃って
口を噤んでしまう事が、最短にして最善の事後処理であったのかもしれなかった。
 だが……

 だが…相手は国家だ。例えば家族を思うように、知己を思うように、個人単位の感
傷で全てを闇に葬り去ってしまうには、事はあまりにも深刻過ぎる。
 けして「親」の目だけではなく自身の主君に接しているあの青年が、こういった機微
において少年の感傷に目を背けるとは思えない。八翼は今も世界のそこここに息づき
ながら、目覚めの好機を耽々と待ち構えているのだ。ニ翼を逃した挙句にその先棒担
ぎまでも野放しにする危惧を、なによりこの国を愛する青年が失念しているはずもない
のに。

 それとも―――


 それ以上を言葉にして知覚するにはあまりにも胆力が足りなくて…ぶるりと一つ頭
を振ると、白鳳はともすれば堂々巡りに陥りかける自問を吸気と共に腹底深くに飲み
こんだ。

 どちらにせよ…当時者間で、あの一連の騒動をなかったことにはできないのだ。そ
れをこうして、敢えて不問に処す形で事後処理を収束しているのだとしたら、それは
先触れであるこの身をも黙殺する心積もりがあるということなのだろう。
 断罪者にその思惑があるのならば、この身が罪に問われて拘束を受けることはな
い。そのかわり、一件に対してのあらゆる陳述の術もまた、自分は取り上げられたと
いうことだ。それをこそ代価に強いられたのだと、そう考えればいい。

 結構なことだ。これで自分と、彼らの間に微妙な線を繋ぎ始めていた相関は精算さ
れたのだ。後はこの地に足を踏み入れた当初の姿のまま、自分は自分の旅を、再
び続けていけばいい。
 いつの間にと思ってしまうほどに、この小さな国にこの身が残した寂寥のようなも
のは積もり積もっていたけれど…
 結構なことだ。結構なことではないか。これで自分は、この地での柵の全てから解
放される。本来あるべき姿に、戻ろうとしているだけのことなのだから。
 気の遠くなるようなこの旅の、更にその終着の先にこそ、自分の真に求めているも
のはある。人の身に過ぎた望みを知覚してしまったその時から、自分は自分に許さ
れてきた拠所の全てを、その代償に差し出す覚悟でここまで歩いてきたのだから……

 「……行こうか」

 踏ん切りをつけるかのように胸襟に蟠った呼気を大きく吐き出し、白鳳は国境の外
門へと一歩を踏み出した。


 ―――刹那…

 「待ってください」
 「……っ」

 出し抜けに、無防備な背を打った押さえた呼ばわりの声音に、赤の長衣に包まれ
た総身が大きく竦む。
 耳朶に馴染んだその声に……弾かれたように背後へと向き直った双眸の緋が、
次の刹那暗がりを揺らがせた人影に、声もなく大円に見開かれた。
 「……やっぱり…逃げるんですね」
 「……セレスト…」


 国境警備の名目のためか、外門付近におざなりにしつらえられている騎士団の詰
所。平和呆けが過ぎるのか、本来の役割を果たしていない常時無人の建物のその
影に……

 ―――平時よりは幾分機嫌の悪そうな様相をした平服姿の知己が、こちらを半ば
ねめつけるようにしながら、静かに佇んでいた。









 鈍い白銀の月明かりが、凛然と夜陰を照らしだす。

 八翼の一人、フォンテーヌとの国の命運をかけた雌雄を決した後、休息らしい休息
を取る間もなく今まで事後処理に追われていたのだろう。隠しきれない疲弊の色を
その容貌に滲ませながら、それでも険しい表情で、セレストはそれまで背を預けてい
たと思しき詰所の外壁から、ゆらりと総身を離した。
 そのまま一歩を踏み出され、無意識の内に白鳳が同じ距離を後じさる。そのよすが
が相手の癇に障ったのか、次の刹那には大股で一息に歩み寄られ、眼前に迫った青
年の総身に、我知らず伝った汗が背を濡らした。

 それでもそれ以上の不様は自分に許せなくて、向き直る形となった青年に向けて居
丈高に顔を上げる。

 「…こんばんは、セレスト。大分、お疲れのようですね」
 「ええ、どなたかのおかげで、帳尻合わせに大忙しですから」
 「それはそれは。…そして、雲隠れしようとしている主犯の一人を待ち構えるのもお
  仕事の内という訳ですか。なにも貴方を先頭に立たせなくとも、他の騎士で用は
  足りるでしょうにね。…人使いの荒い坊ちゃんだ」

 お疲れ様な事ですね―――言って、自分と殆ど上背のかわらない男の姿を意図し
た不躾さでながめやる。程なくして、その白磁の容貌にうっそりとした笑みが上った。
 「貴方が、それを言いますか?」
 「すみませんね。人様の事情を鑑みていては、危ない橋など渡れませんので」

 極力言葉少なに応えを返してくるのは、自身の情動をそれでもこちらに気取らせま
いとする、青年なりの意地なのだろう。事実自分は、我を忘れた彼にその激情のまま
撲殺されてもおかしくはない程の裏切り行為を重ねてきたのだから、それでもこうして
まがりなりにも対話が成り立っているのは彼の鋼鉄の自制による賜物だった。
 向き合った相手に対する配慮の欠片も汲み取れない、冷淡で端的な口調。それは
あまりにも自分の知る青年らしくはなかったが、その影に見え隠れする男の憤りが、
白鳳にはむしろありがたかった。

 抱く望みを捨て去ることができない以上、ここで追っ手の手にかかる訳にはいかな
いのだ。捕縛されることも、断罪の刃にかかることもできないのならば、余計な情け
をかけられることはこの胸襟に巣食うしこりを無為に育てるだけだから…
 それならば…憤激のままに詰られ、撲打されることを享受するほうが余程いい。

 だが…故に、殊更相手を煽ろうとする白鳳の揶揄に、セレストは挑発されようとは
しなかった。

 「白鳳さん」
 変わらぬ容色で、変わらぬ声で…それでも、青年は静かに首を振る。
 「…追っ手は、来ませんよ」

 それは、動揺にざわめく胸襟の奥底で、どこか予想していた都合のいい言葉だっ
た。それでも、身勝手な思惑が具現した事に対する動揺に、皮肉げに笑い返す口
許が引きつりそうになる。
 「それは、坊ちゃんのご厚意で?」
 「まあ、そんなところです」
 「…それはそれは。では、ありがたく甘えさせていただきますよ。こちらも旅暮らし
  の身ですし…もう、お会いすることもないでしょうが…」

 それは……命存えたと言う安堵よりも、これでこの土地に自らが関与する理由を
失った事に対する、都合のいいある種の寂寥が言わせた言葉だったかもしれない。



 あの時―――封じられた迷宮の奥底で、神と人との雌雄を分けたのは、本当に
奇跡のような偶然だった。

 セレストを人質に取られたカナンが自らの意志と責任において選び取った一か八
かの賭けは、彼の血脈に受け継がれた幻獣使いとしての紙一重の好機が、あわ
やのところでその明暗を喫した。
 第二王子がただの一体であれ、幻獣を召還し得たのも、彼の流した血により目覚
めた聖幻獣が、彼を仮主と認めて協力を誓ったことも…そして、無事にパーティーと
して合流を果たした彼らと聖なる守護獣が、八翼の一人であるフォーンテーヌを退け
ることができたのも…全ては、何一つ確証のない賭けの相乗効果によるものであっ
たのだから。

 あれだけの代価をこの青年や、その仕える少年に強いておきながら…自分にでき
たことといえば、この身に束の間与えられていた、神の使いの名を持つ人外の庇護
を用いて、眠れる主の胎動により綻びを見せた迷宮の風化を僅かばかり防いだくら
いだ。それも、冒険者として揺るぎ無い胆力を兼ね備えた今の彼らにとっては殆ど
無用の世話焼きであったことだろう。
 例え刺し違えてでもと、そう誓った自らの悔恨の記憶は、彼ら主従が自力でその
命運を切り開いた刹那に蟷螂の斧と化した。あまつさえ、セレストが奪還されたあの
刹那、激情したフォンテーヌの猛攻の巻き添えを恐れた従者によって、自分は強制
的にあの場から引きずり出されていたのだ。
 朦朧とした意識の片鱗で、微かに捉えたように感じたフォンテーヌの絶叫によって、
青年達が無事生き延びたらしいことをかろうじて知った。もしも逆の結果が引き出さ
れていたなら、間違いなく激した自分が八翼に背き、その咎を断じられていただろう
事を思うと、それと知って自分をあの場から引きずり出したオーディンの不服従をせ
めることもできない。

 結果として―――自らが姦計に陥れながら、何一つ贖罪の術を持てない自身の
卑小さだけが、見苦しく残された。




 それならばと、相手が心底愛想を尽かすであろう、卑小の極みをせめて演じていた
いと思うのに…向き合った青年の双眸にはいまだに変わることのない公正さが滲み
出ているかのようで、そのことが尚のこと白鳳を苛立たせた。

 「ここを出て……そして、貴方はどうするつもりなんですか?」
 「…セレスト?」
 「ずっと聞いてみたいと思っていました。この地を離れて、また旅路を辿り…モンス
  ターのコンプリートを終えたその後に―――貴方が望んでいることは、一体なん
  ですか?」

 機会があれば、またいずれ……そう臆面もなく嘯いてみせるのに、何故この男は
厭悪の色も露に自分という存在を黙殺してはくれないのだろう…
 あからさまに眉宇を顰めても、向けられた双眸の碧は反らされる事がなかった。
 そして…
 
 「…………報復を…」
 そして…応える気配も見せない自身の無愛想に頓着する素振りすら見せず、セレ
ストはゆらりと一歩の距離を踏みしてくる。
 刹那―――互いを隔てる数歩の距離に蟠った大気が、音を立てて凍りついたよう
な心地がした。

 「…報復を、狙っているのではないんですか。貴方とスイ君を、この呪術に陥れた
  存在に」




 「……っは…」

 それが嘲笑として相手の耳に届いたのかどうかも自身で判別できないほどに…喉
をついた声音は酷く心許ない響きを以って、周囲の空気を震わせた。
 「……あの坊ちゃんの空想癖も侮れないと思っていましたが…貴方もなかなかのも
  のですよセレスト…っ…」
 「白鳳さん」
 「あの時…フォンテーヌの手中に捕らわれていた貴方なら、今は解るでしょう?この
  世界には、人知を超えた「もの」が確かに存在する。弟をこの姿に変じたのは、そ
  ういった人の世の常軌を逸した存在なんですよ。人の身に過ぎない私に、何がで
  きるというんです?」

 白鳳の反駁を、合の手をはさむこともなくセレストは受けとめる。
 「それでも…」
 けして逃げる事は許さないと…向けられた双眸が、言葉ほどに物語っていた。
 「―――それでも……結果として、弟さんがその姿になったのは、人知を超えた呪
  いによるものだったかもしれない。でも、それだけではないんでしょう?貴方達兄
  弟をその呪いに導いた、人為的な……もしかしたら作為的な、なにか要因があっ
  たのではないんですか」

 「………もし、そうだとしたら?」
 「白鳳さん?」
 「もしも、私が解呪の術のみならず、貴方の言う報復を目的とした旅を続けている
  のだとしたら…貴方はどうするつもりなんです?」

 杞憂なのだと…埒もない仮説に過ぎないのだと、自ら打消してくれればいい。
 これ以上を―――これ以上の否定の言葉を重ねる事は、どうにも自制が続きそう
にもなかった。

 「穿ち過ぎですよセレスト。私はそこまで命知らずじゃない…この子を人の姿に戻
  してやることができれば、旅の目的はそこで終了です」

 こればかりは…それが例え、この身と引き換えにしても愛してやまない、小さな
弟だとて踏み入れさせる事のできない領域だった。
 これは、今の自分という存在の根幹を支える生存証明のようなものだから…だ
から、それを自分以外の存在に触れさせるわけにはいかない。


 だが……

 「終わりではないでしょう?貴方の中では」
 「…セレスト?」
 「他の誰が…スイ君自身がもういいと言っても、貴方の気持ちに収まりはつかな
  いのではないですか?―――この先スイ君が元の姿に戻っても…そこに至る
  までに費やされた時間は元には戻らない。…育ち盛りの数年間です。貴方の
  見ることのできなかったスイ君が、その中には数知れないほどいるんでしょう。
  そのことを…貴方が終わり良しで片付けられるほど割りきりがいいとは、俺に
  はどうしても思えません」

 だが…言外に込められた拒絶に、勘のいい彼が気付かないはずもないのに…
いつにない強固さで、セレストは食い下がる事をやめなかった。

 「解呪も報復も、貴方が望む以上俺に止める権限はありません。これは貴方の
  人生で、貴方の旅だ。他の誰も肩代わりできない以上、身勝手な感傷を貴方
  に押しつける訳にはいかない。…そのくらいの、道義は弁えているつもりです」
 「それなら……!」
 「だから…俺が知りたいのは、聞きたいのは、その先です。スイ君を元の姿に戻
  して…そして、貴方達にこんな命運を背負わせた存在に対する報復に走って…
  その全てが終わった時、貴方はどうするつもりなんですか?」

 青年のこんな言葉を、自分は以前も耳にした事があるような気がする。
 あれは確か、つい最近の…自分の暗躍が明るみに出て、はっきりと敵味方の線
引きができてしまった直後、相対した自分達が交わした会話。
 ―――胸襟をざわめかせる衝動に、我知らず、白鳳はあとじさった。

 「今はまだ、いいかもしれません。それだけの、単身背負ってしまったものがある
  以上、貴方はけして倒れないでしょう。例え何を犠牲に払ってでも、貴方はきっ
  と、生きていける。…俺や、カナン様を山車に使ってでも解術の足がかりを求め
  たように」
 「…っ」
 
 責めている訳ではないのだと…声音に込められた響きが、言外に聞き手の反駁
の否定する。結果として口を噤むよりなくなってしまった白鳳の前で、セレストは静
かに言葉を続けた。

 「ですが…全てが終わって、その双肩に背負った荷物が完全におろされた時…貴
  方は、今度は何をよすがにして生きていくんですか?…いえ。生きていけるんで
  すか?」
 「貴方の生き方は、あまりにも刹那的だ。貴方はきっと、俺なんかよりずっと頭が
  よくて、人のニ手先、三手先を見こしながらものを考えているような人なのに…ど
  うして、そんなに捨て鉢な生き方をしているんです?…今回のことにしてもそう
  です。スイ君のことで焦る気持ちは解りますが、貴方なら、他にいくらでも上手
  く立ちまわれる方法を考えられたんじゃないんですか?」
 「これじゃあ……これじゃまるで、スイ君の解呪が終わった後の人生を、初めか
  ら考えに入れていないみたいだ」
 「セレスト!!」

 刹那―――白鳳の中で、情動が音を立てて弾けた。

 それまで、多少警戒の色を見せながらも大人しく肩口に収まっていた弟が、肝
を潰したように地面に飛び降りたのが視界の片隅に映ったが…頓着している気持
ちの余裕が、持てなかった。
 この外門で顔を合わせた時とは反対に、数歩の距離を足早に詰め寄ると手加減
も忘れて相手の襟元を掴み上げる。
 
 「スイがこの場にいるんですよ!?この子に聞かせていい話ですか!」
 だが…初めて見せたであろうと自分でも思う程の憤激を真っ向から叩き付けても、
凪いだ青年の面には動揺一つ伺えなかった。
 のみならず、見返す虹彩の碧が、逃げを許さない真摯さに眇められる。

 「言われて動揺することなら、貴方のどこかに、その自覚があったということで
  しょう?」
 「…っ」
 「本当は、貴方自身が一番解っているはずでしょう。このままではいつか、目的
  の全てを果たし終えた時に貴方は自滅します」


 「……この子を…置いて…?できるはずがないでしょう。どんな手立てをつかっ
  てでも生き延びますよ、私は」
 「確かに…今のスイ君が側にいるうちはそうでしょうね。でも、彼が本来の姿に
  戻ったら…どうですか。十五といえば、もうある程度の自活はできる年だ。保
  護を受けてルーキウスの教育機関に就学してもいいし、その気があれば働き
  口のいくつかはすぐに見つかるでしょう。―――解っているんでしょう?呪い
  を受けた当時の、彼はもう十歳の子供ではないんです」

 物わかりの悪い子供に、苦笑交じりの大人が要点を噛み砕いて言い聞かせて
いるような語調だと、我知らず高揚する意識の底で、ぼんやりとそう思う。
 いっそ、冷酷な程の声音で以って、セレストは同じ言葉を繰り返した。

 「貴方がいなくても……元に戻ったスイ君は、生きていけるんです」
 「黙りなさい!」

 訥々と言の葉を紡ぐ相手の、倍もの激しさで怒鳴り返す。
 あまりにも余裕のない、自分らしからぬ失態であるとは思う。それでも、こうし
て最も原始的な手段を用いて相手の口を噤ませない限り、最低限の自制すら
自らの中に保てる自信が、今の白鳳にはなかった。

 「……本当に…とんだお人良しですよ貴方は。人の機微に無遠慮に触れる真
  似をして……貴方がここまで余計な世話を焼くと知っていたら、戯れごかして
  こんな身の上話をするんじゃありませんでしたよ」
 「それを望んだのは、貴方のほうだ。俺が無遠慮で不器用なことは認めます。
  …でも、そうされたかったんでしょう貴方は。酒の席で身の上話を語らい、
  埒もない与太話に興じ、お互いの弱みを自然に容認できるような……そうい
  う気の置けない相関を、貴方は自分以外の誰かとの間に求めていたんでしょ
  う?」
 「私が。この私が。…そんな甘ったれた、感傷に浸りながらこれまで生きてきた
  とでも?」
 「してきたんです。認めないと言い張るなら無意識下の願望だと言い換えてもい
  い。それでも……それほどに、そんな当たり前のことを切望してしまうくらいに、
  貴方は―――ずっと一人で生きてきた人だから」

 思考が纏まらない。突きつけられる言葉に対する、理屈の通った反駁になって
いるとは自分自身思えなかった。
 それでも……自分が一言語る間に二言返してくる、この男のいつにない饒舌を
放置する事がどうしようもなく、恐ろしい。

 そして……
 そして…問答の当初に白鳳がおぼろげに感じ取った衝動は、懸念と言う形となっ
て、最悪の互換性を形成した。

 「―――可哀想な人だ」
 「……っ」
 「そんな寂しい生き方に馴染んでしまった貴方は…可哀想な、人だ」



 刹那―――自らの総身がせりあがる衝動に突き動かされるのを、白鳳は押さえ
ることができなかった。
 眼前に佇むこの男から、自身の身上を哀れまれたのは何もこれが初めてではな
い。そして、その一度目は自らの抱く負い目もありどうにか踏みとどまれた。
 だが……今は……

 虚空を閃いた手が、次の刹那情動のまま対象に向けて振り下ろされる。
 容赦のな撲打の音が―――夜気の深閑に浸透した。

 基礎訓練を繰り返した男の体は、渾身の力を以っての殴打にも重心ひとつ揺ら
がされることがない。瞬時にそれと察して身構えたのか、唇を切ることもなく勢い
を受け流したその双眸が、それでも僅か伏せられる様を…持て余した衝動を拳の
形に握りこみながら、白鳳はやりきれない思いで見遣った。
 と、刹那―――再び虚空でかち合った双眸の碧に、剣呑な光が宿る。

 「……っ」
 さすがに、一国が抱える正騎士の、いわば幹部格を勤めるだけのことはあると思
う。手加減の感じられない勢いで横顔を張られ、瞬間意識が遠ざかった。
 構えてはいたものの、性格的に相手が殴り返してくるとは思わなかった動揺に、
ニ、三歩蹈鞴を踏むようにあとじさる。
 殴打の痛みによるものだけではなく…晒してしまった不様に、白磁の頬が朱の色
に染まった。

 だが……きつくねめつける視線をものともしないよすがで、対峙した青年の面にど
こか不敵な笑みが浮かぶ。

 「…俺なら、殴り返せないだろうと思っていましたか?ご期待に添えなくて残念で
  すが…腹を立てているのは、俺も同じですよ、白鳳さん」
 「……ええ、そうでしょうね。その事については、私も文句をつけるつもりはありま
  せんよ」

 むしろ、大逆を働いた自分に、この青年が激昂する事に、なんの不条理もない。
こうして殴打の一つですむなら、むしろ向けられた厚情にこちらが膝を折らねばなら
ないところだ。
 それでも、敢えてそんなものいいをするセレストはやはり平時の彼らしくはなくて…
返す言葉も、どこか挑発めいたものになってしまう。
 そんな白鳳の言葉に―――今度こそ、セレストは常の彼がそうであるように笑んで
見せた。

 「……本当に、解ってないんですか?白鳳さん」
 「何がです」
 「俺が怒っているのは……貴方が、俺達を陥れたことではありませんよ」
 「…では、なんです?」


 向き合っているのは平時と変わらぬよすがを見せる青年であるはずなのに…互い
を取り巻く夜の冷気が、その体感温度をさっと下げたように、白鳳は錯覚した。
 そして……

 「……そうですね。そういえば以前、貴方は俺を、自分のものにしたいと言っていま
  したよね。―――あれは、少しは本気で言われていたんですか?」
 唐突に話題を挿げ替えてくる青年に、思わず不信の念をあからさまに晒してしまう。
それでも、ここで引いたら自分の負けだと、白鳳は仕向けられた話題から降りると言
う選択肢を選ぶことができなかった。

 「…ええ。本気でしたよ、少しはね」
 「……そうですか。それなら…」

 そして…
 続けられた知己の言葉に……埒も為さない片意地を張ってしまった自身の強情
を―――白鳳は、腹の底で後悔した。

 「………俺と、寝てみますか?あなたの望み通り。そうすれば、見えてくるものが
  あるかもしれませんよ」

 吹く風が…出し抜けに、その激しさを増したような気がした―――



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