信仰告白・4


 ゴボリ……と自ら吐き出した気泡の一つが、ゆらりと頬桁をかすめていく。

 同じ感触にニ、三度頬を撫でられて、半覚醒の意識はここが水中である事を、おぼろげ
ながら知覚した。
 同時に、沸き上がるいくつかの疑念。

 何故、水の中で呼吸の制限を受けていないのか。あからさまな感触がここが地表では
ない事を自分に教えているのに、露ほどの冷たさも感じないのは何故なのか。むしろ水幕
に守られた水面下にあるほうが、外気に晒されない分だけ緩やかな体感温度を覚える事
もあると知識では解っていても、いまはそういった季節ではない。
 そしてなにより―――何故、自分はこんなところにいるのか……

 眠りから醒めきっていない総身は酷く重く、閉ざされた瞼を持ち上げる事すら相当の労力
を強いられた。
 ぼんやりと開かれた視野に飛びこんでくる、不明瞭な光景。ゆらゆらと焦点の核がぼや
けるのはきっと水流のためで、おぼろげな光源の元、自らが断続的に吐き出す空気の塊
だけが、やけに鮮明な像を形どっては弾けていった。
 微かに漏らしたつもりの嘆息さえ泡となって、水の中で霧散していく。
 それを見るとはなしに目で追う内に―――鮮明さを取り戻しつつある意識は、じわじわと
ここに至るまでの追憶を手繰り寄せ始めた。


 ―――カナン様……
 まず、脳裏を掠めたのは自らが付き従ってこの冒険を共に歩んできた、主筋に当たる少
年の安否だった。
 ダンジョンで離散してから、もう随分と時間が過ぎてしまったような気がする。一人渦中に
残されて、彼は無事に地上へと帰りつくことができただろうか。
 彼にとっては生家であり、本来の拠り所であるはずの城内には、クーデターの疑惑を被っ
たままでは戻る事ができないのだ。庇護を求める場所がない以上、せめて自分達が現在
の拠点にしているあの宿に戻って、嵐が過ぎるのを耐えぬくしかない。
 それでも、『相棒』が窮地に陥っている現状を知って尚、自身の保身を選べるほど彼が捌
けた気性をしていないことも、長付き合いの自分には解かってしまう。
 ……こんな事態を想定できなかった、自分の落ち度だ。自身の情を切り捨ててでも生き
延びねばならない時もあることを―――彼の置かれた身分を考えれば、自分は良心の呵
責に耐えてでも教えておかなければならなかったのに……

 どうか、無事でと……そう祈る資格さえ持てない人質の我が身を、セレストはひどく苦い
思いで省みなければならなかった。
 こうしている今も…どこにいるのだろう、あの少年は。

 この冒険に身を投じて以来、ギルドに認められた魔法戦士として、彼は充分にその実力
を磨いてきた。魔法を得手とする分だけその戦闘能力には侮れないものがあり、自分の
助けなしにはダンジョンを進む事もできなかった脆弱な少年は、もはやどこにも存在しない。
 それでも、この地に集結しているのは最強クラスの戦力を備えた人外ばかりだった。『レ
ベル』と引き換えに、こちらの安否を脅かす敵からこの身を庇護するアンクレットが、その
内の一体に反応した事からも、それは証明されている。
 二人がかりならばまだしも、このダンジョンに彼一人というのは、あまりにも分が悪すぎた。

 キャラ屋へ戻れば、護衛の役に耐えうるだけの人外を借り受ける事もできる。しかし、自
分達が分かたれたあの深奥部から地上に戻るまでの行程は、けして近しいものではなかっ
た。
 せめて地上までは、独力で戻れるものと信じたい。この場にたどりつくまでに出会った、
あらゆる神秘の加護が、その身を守りぬいてくれると思いたかった。
 それでも、実際に、この身で『敵』と相対してきたからこそ、押し寄せる衝動は尽きる事が
なくて―――

 『カナン、様……』
 口に出して、そう呼んだつもりだった。しかし言の葉は瞬時に気泡と化して水流にかき消
され、残された焦燥ばかりが胸を焼く。
 せめて―――このダンジョンに足を踏み入れる際、保険として護衛役の人外を借り出して
いれば……



 と、刹那―――

 『……っ』
 護衛という言葉に、触発されでもしたものか……次の瞬間、セレストの記憶によみがえっ
たのは、何をおいても自らが守りおおさねばならない主君の姿ではなかった。


 上背の割には、細身と呼べる部類に入るのだろう。その総身を纏う、赤を基調とした民族
衣装を思わせる長衣。羽毛のようなもので作られた白いショールとの対比はそれだけで人
目を引き、さらにそれを纏う当人の気性が悪目立ちに拍車をかけていた。
 白銀の頭髪と、相反するように対を成した緋の双眸。種の判別がつかない小動物を大切
そうにその肩口に止まらせて、いつも嫣然と微笑んでいた、不詳の麗人―――

 ―――そう、彼も…あの青年も、自分と不穏な別れ方をした、消息の定まらない一人だった。


 『……さ…』

 それが腹の底であれ―――名を、呼ぶ事はどうしてもできなかった。そういえば、こんな
風に、思いを馳せて口にのせた事のない呼び名だったと…ただそれだけの事で、平時に
おける自分達の相関が窺い知れると、ぼんやり思う。
 だが…それでも自分が今、あのダンジョンの一角で袂を分ったままの青年のよすがに思
惟を傾けてしまうのも確かで……

 自らが命を科しても守護すべき、尊い血脈の継承者。その存在をけして忘れた訳ではな
くとも、こうして胸襟に余人が入りこむ余地を自身に許していることが、自分でも不可解だと
思う。
 だが―――
 
 痛みに感じたのは、その名を呼べなかった事だろうか。彼の存在に思いを馳せる自分を、
主に対して後ろめたく感じた自身の負い目に対してだろうか。
 だが、それでも…脳裏を掠めた細身の青年の安否に、自分は確かにこの後ろ髪を引かれ
ていて…


 ……気の毒な男だと思った。そして実際に、面と向かってそう吐露した。成人を果たして
いる、それも年長者に向かって告げるには、あまりに不躾な言葉であったかもしれない。
 それでも、彼の青年を取り巻く全てが、酷く自滅的に思えて…悪党然として振舞う彼に、
そんな自虐を止めさせたくて―――せめて怒りなりとも、彼が自身の情動を晒す姿を、自
分は引き出してしまいたかったのだ。
 それでも、束の間その衝動が見え隠れしたのを最後に…彼は再び、平時のようにその擬
態めいた容色を取り戻してしまった。

 自分では駄目なのだと、そう自らを納得させる事がひどく胸に重くて……
 
 王家に仕える騎士として。この身の存在意義を以って、国と王家に無用の波風を立てた
彼を、糾弾する事は不可能ではなかった。情とは根底を別にする部分に培われた自身の
忠意と職責は、それほどに重い。

 だが、それでも―――冷徹に全てを断じてしまうには、あの青年はあまりにも不憫すぎ
た。彼の『悪事』の根幹にあるもの…その証憑とも呼べる存在を、自分はもはや、この目
と耳で、確かめてしまっている。
 不心得者として手にかけるには―――あまりにも、悲しすぎた彼の人の魂。


 貴方は―――気の毒な、人だ…
 彼の存在に向けて、自分が突き付けた言葉の一句一句が、追憶の底からよみがえる。
その言葉に束の間激情を覗かせた青年のよすがも、ただ一言報復のように返された、切
ない底意からの叫びも…

 それは……彼の不憫さに向けられた、都合のいい同情にすぎなかったのかもしれない。
そこに居合わせたものならば、自分ではなくとも彼に伸ばす差し出し手を惜しみはしなかっ
たかもしれなかった。
 解っている。そればかりの事を以って、自分は自分の胸襟にしこったものを、感傷と片付
ける事もできるのだ。

 だが―――

 同情もある。おそらく彼に向けられた思いの大半は、そんな欺瞞めいた自己満足による
感傷で…
 だが、それでも…

 こんな情動を、自尊の塊のようなあの男は認めないだろう。同じ男として、守るべき存
在を背負うものとして、ここまで歩みを続けてきた彼を、自分も過小評価はしたくない。
 それでも―――同情して何が悪いと、そう声高に叫ぶ自分が、そこには確かに存在し
た。


 自分は同情する。彼の人がどれほど拒もうとも、自分は何度でも同じ言葉を繰り返す
だろう。
 ただ一人で宿業を戦う抜こうとするあの孤独な魂の―――けして肩代わりはできない
と知っているからこそ、自分は頑なにそうするのだ。

 感傷でも構わない。自分は彼ではないのだからと、そう割りきって他人の立ち位置を
選ぶくらいなら、この情動に、いっそそんな埒もなさない名前をつけられたほうがましだ。
 それに―――



 それ以上自身のもの思いを言葉にしたら、立ち戻る事ができなくなりそうで―――瞬
き程の刹那、セレストは続く言の葉を躊躇った。

 それを認める事は、恐らくはこの身を形成する自意識の、根幹を揺るがされるほどの
大事であり…迫りあがる衝動を、咄嗟に飲み下してしまいたい衝動に駆られてしまう。
 だが…それでも……


 ”私達を、助けてくれるんでしょう……っ!“
 ふとした隙をついて、幾度となく耳朶によみがえる、青年の切迫した叫びの声。
 あの声を…自分はどうしても、うち捨ててしまうことができなかった。

 同情もする。感傷と呼ばれれば、きっとそれまでなのだろう。
 だが、それでも……



 それでも―――
 この身に何の感慨も抱かせない『他人』にまでこんな負い目を覚えるほど…自分は人
のいい気性はしていないー――




 ゆらゆらと、不明瞭な光景を形成する視野が歪む。
 ここがどこであるのかまでは、いまだ身動きが取れず総身の感覚を取り戻しきれてい
ないこの身にはわからなかった。
 それでも、自身が敵中に拘束されているのだという事だけは、思惟を傾けるまでもなく
得心できたから―――


 王子の安否も、白鳳との『決着』も―――全てはこの場より脱してからのことだ。まず
は我が身を守りおおさなければ、自分は自分が得難い存在として思い定めた者達を、
守り筋を通すどころか再び見える事すら敵わなくなる。
 まずは、ここから抜け出して―――


 ―――全ては……それからのことだ…



 吐き出した呼気で、ゴボリと水流が乱される。
 総身の完全な覚醒を焦れるような思いで待ち望みながら―――主君や件の青年がそ
うであるように、大きな分岐を迫られている自身の立ち位置を…セレストは、この時確か
に知覚していた……




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