信仰告白・3


 その刹那―――たしかに『そこ』に存在していた者を、伸ばされた搦め手に掠め取られるよ
うにして…世界は霧散した。


 装備を改めた折りに解かれたまま、石床の上に放置された皮作りの装甲。謀らずも生じた
束の間の刃傷沙汰の、今となっては物的証拠としてその場に転がるばかりの小刀と、それ
によって手傷を負った自分が流した僅かばかりの血痕―――

 ―――そんな無機的なものばかりが、このダンジョンに先刻まで拘留していた青年の、確
かにこの場に存在したのだという、辛うじて形となった証だった。

 「……セ…」
 緊張に干上がった喉を無意識に湿そうと、微かな音を立てて喉が鳴る。その動きにつられ
るように、件の青年に突き飛ばされたことで強く石壁に打ちつけられた背筋が鈍い痛みを訴
える。その打撲こそが自身を救ったのだと思い知らされているかのようで……瞬きほどの間
に眼前で展開された光景が偽りなどではなかったことを、白鳳は底冷えするような恐怖と共
に、悟らないわけにはいかなかった。

 「…セレスト……っ」
 ……何故、庇った。
 互いの立ち位置から鑑みても、自分を突き飛ばした刹那よりも数瞬は先に、あの青年には
この場に飛来したものが見えていたはずだ。
 矢傷による困憊で体の自由を大幅に制限された中でありながら、彼は瞬きほどの隙を逃す
ことなく、圧倒的優位にあった自分との形勢を覆して見せた。その判断力と肉体の反射神経
を以ってすれば、彼がこの窮地を回避するのも、不可能ではなかったはずなのに……

 冷静であろうとする側から、せりあがってくる動揺に膝が震えを帯びるのを…白鳳は、おしと
どめることができなかった。

 逃げろと、衝撃と緊張に掠れた声が繰り返していた。
 地上まで脱出すれば、彼がその存在意義の全てをかけて守り仕えてきた高貴な少年がい
る。口では守れと言いながら……ルーキウスにおける王子の権限と王家の権勢に、庇護を
求めろと彼は自分に告げたのだ。
 抱く望みのためならば、彼と彼の奉する王家の存在を敵に回すと嘯いた自分に向かって…
…それでも青年は、王家を頼れとそう言ったのだ。
 それが必要であるならば。次の接触で、自分は王子をこの姦計の最終段階の舞台へと引き
ずりだすだろう。代価を惜しんだが最後、手にすることが敵わない大望を具現化するためなら
ば、自分は自分のためらいの全てを捨てる。
 そんな自分に……『更正』は望めないと肝に刻みこまれるほどに見せつけた相手を前に、彼
は自分を脅迫した同じ口で、自分の誠意を試すような言葉を告げるのか……

 「……っ」
 筆舌に現す事のできない脱力感に、両の膝からカクリと力が抜ける。咄嗟に差し出された従
者の腕に体重を預ける羽目になって尚、総身を震わせる衝動は収まってはくれなかった。

 「我が君」
 「な……こんな…」
 「我が君、お体が…」
 「……こんな事が…望みだった訳じゃ…」
 「御気を確かに、我が君。どうか…」
 「セ…レスト……こんな…っ」

 気を静めるようにと繰り返すオーディンの言葉をどこか遠くに聞きながら、半ばその腕に抱え
られるような体制のまま、ゆるゆると首を振る。肩口に控えたままだったスイが心配そうにその
前足で触れてくる感触にも、白鳳は応えることができなかった。
 「……違う…こんな…こんな……」

 何を犠牲に払ってもと、その覚悟を以って腹の底に抱きつづけてきた、気の遠くなるような大
望。そのためならば、どれほどの得難い存在であれ等しく駒の一つに過ぎないはずであり、そ
の思いが自分を支えてきたからこそ、この旅は今日までの存続に耐え得たのだ。
 解っている。例外を持たないからこその、それは犠牲なのだ。自分の中に一つでも例外を作っ
てしまった時点で、それまで積み上げてきた代価は瓦解する。肝に命じて解っていたからこそ、
自分は自分の暗躍を振り返ることなどなく……
 なのに、今になってこんな……

 計略も最終段階を待つばかりとなった今になって、『身内』の目で自分を捉える得難い存在に、
自分は気付いてしまった。差し出された癒しの手が、日々自滅と綱渡りの緊縛に晒され続ける
ささくれだった胸襟に、どれほど心地よく、そして空恐ろしく思われたことか。
 差し出し手を取ることなど、許されないことは解っていた。だから自分は自分の存在意義の全
てをかけて、向けられた青年の厚情をはねつけて。そうして拒絶の言葉を重ねる度に、しがみ
ついた虚栄は少しずつ、自分の底意へと摩り替わっていって……

 欺瞞だと腹の底で自らを毒づきながら―――それでもそれが、この相関に溺れないための唯
一の自衛の術と肝に銘じていたからこそ、自分はその擬態の出来映えに、満足してさえいた。
 なのに、こんな……全てを投げ打つ覚悟を改めた今になって、こんな……・
 こんな光景を―――現実を見せつけられるために……自分は今まで、臓腑を焼くほどの痛み
を飲み下しつづけてきた訳ではない……!


 と、刹那―――
 「違わないんじゃないの?赤い兄ちゃん」
 「…っ」

 あらぬ方向から出し抜けに静寂を破った呼ばわりの声に……オーディンの腕に取りすがった体
勢のまま自失の態に陥っていた白鳳の背が、ビクリと痙攣した。

 幼少期特有の、澄んだ衒いのない声音。性徴を向かえていないが為に、その中性的な音色は
聖性すら帯びているのではないかと、自らは発育を終えてしまった大人達は時として羨望と、幾
許かの嫉妬交じりにそう揶揄する。
 歌を歌わせれば、性の敷居を持たないその神秘の声を、人は天使の歌声だと呼んで誉めそや
すだろう。
 そんな、第一次の性徴期も向かえていない子供の知己に、そもそもの交友関係が希薄な白鳳
が思い至るとしたら、ただ一人の少年しか存在しなかった。

 果たして―――弾かれるように向き直った視線の先には、この地に足を踏み入れて以来何度
となく接触を繰り返してきた、自身の『雇用主』が二人並んで佇んでいた。
 黒を基調としたスーツに身を包んだ、経営者然とした中背の男と、その傍らに常に寄りそう、さ
ながら男の被保護者であるかのような小柄の少年。国家の…ひいては世界そのものの転覆を
謀ったこの計略に一枚噛む契約を交わして以来、それは白鳳にとって馴染みとなった黒幕の姿
だった。

 声もなく……それでも眼前の存在に、自身の動揺をこれ以上気取られる不様は自分に許せな
くて、きつく奥歯を噛み締めるようにして自らの矜持にしがみつく。
 そんな白鳳のよすがに―――少年の外見を持った人外は、うっそりと嘲って見せた。

 「あんまり遅いからさぁ。待ってるのにも飽きちゃって、迎えにきてあげたんだけど―――」
 ―――何を、もたもたしてたのさ?
 言外に、こちらの不手際を揶揄する響きをこめて。それでも言葉の表面だけは、無邪気な子供
の持つ衒いのなさで、幼子の直情を演出する。
 傍らに立つ男の腕に絡み、自身の上体を持たせかけるようなよすがで、少年―――ユーリは楽
しそうに言葉を続けた。

 「兄ちゃん、あの青い兄ちゃんがお気に入りだもんねぇ。……ほだされちゃったりとか、しちゃっ
  たのかなぁ?」
 「…っ」
 「こわ〜い。…そんな顔もできるんだ、兄ちゃん。―――とんだ猫っかぶりだね。いい年してさ」

 くすくすと、けらけらと。弁えと言うものを知らない、子供特有の甲高い嘲笑が、ダンジョンの石壁
に反響する。雇い主に対する手駒の絶対服従の不文律を、後援なしには身動きの取れない旅暮
らしのこの身が忘れたことはなかったが・・…何度も耳朶を打つその声が、この上なく癇に障ると白
鳳は思った。
 そんな情動が、不心得にも面に表れでもしたものか―――それまで沈黙を守っていたいま一人
の男が、傍らの少年を窘めるように、軽く自身へと抱き寄せる。
 反意を露にした手飼いの不躾を咎めるでもなく……それでも、いつになく機嫌のいい笑みを口許
に穿いて見せるそのよすがに、彼が同胞の言葉を取り下げる心積もりがないことは明白だった。

 「ユーリ」
 話が進まないと窘められ、少年も、ようやくそれまで無遠慮に晒していた嘲りの笑いを飲み下す。
 それでも名残を匂わせる声音が……無言に徹することをせめてもの反駁とする白鳳に向けて、彼
が最も懸念をしいられている現状に対する『種明かし』を物語った。

 「―――なかなか、気の利いた演出だっただろ?ハッタリもさ、使える時に使っておかないとね」
 こういう姿してるとさ、状況を見計らわないとナメられるからね―――続けられた言の葉には、稚
い子供の姿を形取るが故の、この人外に平時から向けられる世間の色眼鏡の程がわずか偲ばれ
…それでも、与えられた情報に対する自己演算に手一杯な心では、それを汲み取れるほどの余裕
もなくて……
 始めから、応えを期待しての言葉ではなかったのだろう。これといって興をそがれた風もなく、少
年は軽く鼻を鳴らすと再びその独白を続けた。

 「……ほら。これ、なんだか解るかなぁ」
 言って、何気ない仕種でその懐から取り出されたものは―――つい先刻の衝動からいまだ立ち
返れてはいない者の双眸には、あまりにも鮮やかな記憶を残す、純白の羽根。
 手にしたそれをくるりと弄び、返された動揺の程に、ユーリは含みのある笑みを漏らした。
 「綺麗だろ?本当は、人間なんかにそうそう気安く見せられるようなものでもないんだけどさ。ま
  あ、『協力者』だからね。兄ちゃんは特別。―――これはね……俺たちを結ぶ翼の一つ。フォン
  テーヌの…八翼の仲間が残してくれた、道標のようなものさ」
 「…道、しるべ……?」
 「っはは…っ。能書きはいいからって顔だね。まあそう焦んないでよ」

 のろのろと自分の言葉を鸚鵡返す手飼いの衝動が胸にすいたのか、少年は年甲斐を感じさせ
ない狡猾さでその口許をニッと歪め、
 「……青い兄ちゃんは、今頃フォンテーヌの腕の中でおねんねさ。この羽根は、元の持ち主の元
  に『呼ぶ』からね。兄ちゃんがもたついているみたいだったから、回収してあげただけ。ちゃんと
  無事だよ。…今のところはね」
 「……っ」
 「仕事は手早く済ませないとね。―――あんまりふらついてると、クライアントに見捨てられちゃ
  うよ?」

 告げる言葉が、それを突き付けられた者の耳朶をどれほどの痛烈さで以って打ち据えるのかを、
充分に理解していると言外に物語る声音そのままに……それは楽しそうに、仕掛け人は哄笑した。


 刹那―――自身の胸襟をせりあがってくる情動を、なんと名付けたらいいのか白鳳にはわから
なかった。
 あの騒動のさなか、この場から跡形もなく掻き消えてしまった青年が、それでもひとまずは息災
であるのだという事実に、まずは湧き上がってしまった安堵。一時の保証なのだとわかっていなが
ら、それでもどこかで胸を撫で下ろしている自分に対する叱咤の念。

 今は無事なのだと念を押す以上、渦中にあるセレストの安否は、こちらの出方次第でどちらにも
転がってしまう。自分が真に手飼いに値しないと見限ったその時、彼らは髪一筋ほどのためらい
もなくあの得難い存在を手にかけるだろう。少年の言葉は、彼らの思うように動かなかった自分に
対する紛れもない恫喝だった。
 得体の知れない怯えにも似た戦慄と、隙を晒した自らの迂闊さに向けられた居たたまれなさと…・
 そして、それら全てを見越しているかのように自分を揶揄することをやめようとしない少年と、そ
れを黙認という形で後押しする黒尽くめの男に対する、名状しがたい憤激の情動と―――

 ……その一つ一つを腹の底に刻みつける度に、極限を訴える衝動で、頭の芯が冷えていくか
のようだった。


 眼前に立つ男達から協力を請われたあの時―――その意図するものの全てを知りながら、そ
れでも尚、鼻先に突き付けられた餌の大きさに諾と応えたのは自分のほうだった。国ばかりでな
く、世界そのものを売り渡す大過に身を染めておきながら、今更しがみ付くべき矜持もなにも、あ
るものかと…冷静な部分の自分が、そう自嘲する。
 それでも―――向けられた想い人の双眸に胸襟を焼き、背負う大過にこうして喘ぐ自らの卑屈
さを切り捨てられないのと同じように、不当な陵辱に憤激するこの矜持もまた、自分は生涯手放
せはしないから……

 だからこそ……せめてもの意地を以って、白鳳は自身の雇用主へと向き合い、震えを帯びる両
の手を拳の形にきつく握りしめながら、それでも潔く胸を張った。


 不当な扱いはけして許さないと、言葉ほどに告げる緋の色をした虹彩の強さに―――怖い怖
いと嘯きながら、それでも少年は笑う。
 「……でさ、話は戻るんだけど。―――違わないんじゃないの?兄ちゃん?」

 怯むどころか、相手に向けられた嘲りを隠そうともしないまま、―外見年齢的には―年甲斐もな
く仁王に立って見せる人外の中性的な声色に、束の間隠しきれないその本質が滲み出たような
気がした。
 「あのさ、なにが『違う』の?…こんなつもりじゃなかったって?青い兄ちゃんを、こんな風に巻
  き込むはずじゃなかったって?あの兄ちゃんの前で、同情される自分のままいたかったとか、
  言ってみちゃう?」
 「…っ」
 「大人の事情って奴?人間ってつまんないこと気にするよねぇ。―――それともあれ?まだ『部
  外者』の気でいたりするのかなぁ?…自分一人が、お綺麗なままで?それでも欲しいものが
  手に入るとか、まさか思ってないよね?」

 だったらお手上げだなぁ―――楽しそうに重ねられる揶揄の言葉に、自ら耳を塞ぎたいような
気分で、白鳳は臍を噛んだ。
 少年に揶揄されるまでもなかった。この道行きは、自分自身が選んだもので…その為に払う代
価を省みていては、救済の日は永劫に巡りこないと肝に命じた追憶の日に、自分は躊躇と未練
の全てを、この胸襟から置き去ったのだから。
 それでも、尾を引く思いだけは、如何ともしがたくて―――

 人の身の卑小さを嘲る、少年の言葉はだから当たっている。冷徹に全てを割りきる覚悟を自ら
に強いて尚、自分は腹の底では少年の言う、都合のいい立ち位置を望んでいた。
 世界さえ、この利己のために売り渡した男のこれが本質かと……込み上げてくるものに、えづ
きたくなる。肩に止まったまま、不穏な空気に全身で警戒を露にしている小さな弟にも、最後ま
で自分に向けた差し出し手を引かなかったセレストにも、顔向けのできない思いで胸が焼けた。


 そして―――
 「……ねぇ?俺達、曖昧な答えなら要らないんだ」
 是か否か。『協力』を続けるのか、ここで『降りる』のか。…そう、少年は言外に糾弾していた。
 堕ちたる八翼のエンジェルナイトと呼ばれ、世界を恐慌に陥れた人外のなれのはて。その分か
たれたニ枚の翼が、今この眼前には立ちはだかっている。自分が一言否と返せば、彼らは人の
身に過ぎないこの身を、弟や従者の命運共々根こそぎ取り上げることで、その断罪を迫るだろう。
 自ら凌ぎきる胆力を失ってしまった賭けならば、そんな強制終了の形もありかと、どこか他人
事のような意識がちらとかすめてしまった自分が情けなかった。

 だが、それでも―――
 彼らは知っているのだろうか。…否。むしろそれと知っていたからこそ、こんな二者択一を、彼ら
は自分に強いたのか……

 あのまま、自分を説得する青年の言葉を聞きつづけていたら、あるいは自分は彼の軍配に下っ
ていたかもしれない。それほどに、自分が揺れ動いていることは否みようがなかった。
 だが……少年の言葉が、いま自分の双肩にあらたな頚城を打ち込んだ。


 「……約束を…」
 ここで自分が立場を翻せば、少なくともあの得難い青年を謀りつづけてきた自分の心は、その
自責から解放されて楽になれる。臆面もなく投降する自分に向かい、彼はきっと、あの人のいい
笑みと共に、大過なく何よりだったと言ってくれるのだろう。
 だが―――それは、束の間の安寧と引き換えに全てを終焉へと導く、諸刃の剣だ。

 ウルネリス復活の足がかりとして、暗躍の依頼を受けたフィンテーヌの解放。その一端を担う
と約束すれば、『餌』の存在とは別に、自分達に無用の手出しはしないと彼らは交換条件を呈示
していた。
 誓約通り、仮に自分がルーキウスの王へと台頭したとしても……刻一刻と迫るウルネリスの
復活を思えば、自らの架空の治世が安穏としたものではすまない事など判りきっていた。
 『強力者』に手出しはしないと告げたその口約が、紙切れほどの重さの価値も内包しないこと
も承知のうえだ。彼らの最終的な目的が、その存在を封印した人の世界に対する報復だという
なら、遅かれ早かれ、このルーキウスにも彼らの侵食の手は伸びる。
 それでも……与えられた、餌ばかりではない。喉から手が出るほどに、その束の間の時間を
こそ欲していた自分は、そんな彼らの詭弁めいた誘惑に諾と頷いて……
 
 「……約束は、果たしてもらいますよ」
 そして―――いま、自分の言葉には、あの青年と弟の、二人分の命運がかかっている。一言
雇い主の意に背く言葉を選んだが最後、自分の道ずれを余儀なくされた彼らはその命脈を閉ざ
すのだ。
 何度となく謀りながら、それでも臆面もなく向けられた厚情を享受してきた者として…そしてこ
の手でなんとしてでもその呪縛を解かねばならない小さな命の、その庇護者として―――

 ―――それだけは、選ぶことがあってはならない。

 「報酬は、この国の王位とあの青年の身柄という約束だ。事が成し得た暁には、違えることな
  く私の取り分を渡していただきます」
 言葉面だけは、我が身可愛さの卑劣漢然として…告げる言葉は、眼前の雇用主の耳にはど
のような響きで以って届いているのだろう。
 突き付けられた新たな覚悟は、知らずこの総身を戦慄かせているかもしれない。紡ぐ言葉も、
情動に掠れ、震えてはいないか―――そんなことも知覚できないくらい、白鳳は自身が極限状
態にあることを知った。

 それでも…どうでもいいと、腹の底でぼんやりとそう思う。
 眼前の男達の目に、自分の為人が自ら狙った通りに映ろうとも、そんな自分が胸襟の奥底に
押しこめたつもりの、脆弱な臆病が見透かされていようとも…そんなものは、どうでも構わない。
 自分がセレストに骨抜きにされていると受け止められても、あるいは犯した大過に怯える小物
なのだと受けとめられても、それがこの先の自身の道行きを塞ぐ訳ではない。それならば、この
人外の自身に向けられる評価など、何一つ意味を成さないものだった。

 この局面にきて、覚悟が揺らぐ己を知覚してしまったのは不覚以外のなにものでもないかもし
れない。それでも―――世界を相手に謀りぬいてでも、この賭けを凌ぐことを自らに課したその
覚悟まで、自分は忘れてしまったわけではなかった。

 「……曖昧がお嫌と言われるなら、これが私の『応え』です。……そちらは?」
 手飼いとして慣らしたこの身を、擁するのか、断じるのか―――

 殊更居丈高に嘯いて、同じ問いを相手に返す。
 果たして―――


 「……いいでしょう。こちらも約束を、違えはしませんよ」

 果たして…始めから返される応えの解っていた問いかけに、応じた男はうっそりと頷いて見せ
た。
 傍らにまとわりついたままの少年を小脇に引きよせ、踵を返した人外の背で、長く伸ばした黒
い頭髪が、ふわりと空に翻る。
 「…では、こちらへ。―――舞台は整いました。フォンテーヌがお待ち兼ねだ」

 言うが早いか、先に立って歩を進める雇用主に数歩遅れて従いながら、白鳳は先刻まであら
れもない愁嘆場が繰り広げられていたダンジョンの一角を、改めて見渡した。
 石床に転がったまま放置されていた皮の装甲と小刀に視線を止め、瞬き程の間考えあぐねて
から血糊の付着したままの刀身に手を伸ばす。
 その気配に後ろ髪を引かれたのか、少年が束の間背後を振り仰いだ。

 「兄ちゃん?」
 「これから、あの坊ちゃんと対峙するのでしょう?貴方方は素のままでもいいが、私は生憎、
  荒っぽいことはからきしですのでね。…気休め程度には、なるでしょうから」

 あからさまに反意を実行することもできる武具を携帯したところで、それで自分にどうこうされ
る程度のお前達ではないだろう―――言外の揶揄が、意図するまでもなく口許に皮肉気な笑
みを形どる。
 白鳳の思惑通り、少年は、挑発には乗らないと言わんばかりに軽く鼻を鳴らしただけで、そ
の行為を云々しようとはしなかった。
 片割れの青年に至っては、始めから興を引かれたよすがすら見せず、こちらを振り向くことす
らなく黙して石床を進んでいく。その背後に今度こそ付き従いながら―――手にしたものの汚
れを払拭した白鳳は、その無機質な表情の下、新たな戦慄が総身を走る感触に声もなく耐え
ていた。


 堕ちたる八翼のエンジェルナイト、ウルネリス―――その一部を形成するこの人外達と、もう一
翼であるというフォンテーヌに、果たしてどれほどの潜在能力があるのかはわからない。それが
神の使いの名を持つ存在である以上、只人に過ぎないこの身が太刀打ちの敵う相手ではない
ことだけは、思惟を傾けるまでもなく理解することができたが……

 それでも―――事態に対し、無謀であり貪欲であるのもまた、身のほどを知らない只人に許
された特権だった。

 この賭けが、最後にどう転がるのかは、遠見の能力を持たない自分にはわからない。いっそ
この場で拒絶の代償に断じられたほうが、自分も弟も、そして現在捕らわれ人として自由を奪
われているあの青年達にも、苦痛の限られた末路をたどる可能性が残されただけ、まだしもま
しな逃げ道であったかもしれなかった。
 だけれども―――始めから自身の身の処され方を想定しながら暗躍に走るようなある意味い
じましい真似は、到底自分には似合わない。

 『貴方さえ、一言降りると言ってくれたら……』
 息詰るような緊縛の中で聞いた、青年の泣きたいほどの厚情に溢れた声が、耳朶によみが
える。自分にとっては彼こそが、この一連の事件に対する断罪者であり、全ての宥恕の対象だっ
た。

 この身も、弟の未来も。そして自分には得難いあの思い人も、彼がその存在の全てをかけて
守りつづけてきた『世界』をも―――その全ての安寧を、自分はこの手に入れてみせる。
 強欲は、自分の専売だ。例え人知を超えた神の使いであろうとも、それを譲り渡しはしない。

 これから出向く『交渉』の場において、彼ら人外が、この思惟を傾けた存在に死の鎌を振り下
ろすことがあったなら―――



 ―――――その時は……例えそれが神でも、この手で必ず断じてやる…


 再びの静寂を取り戻した石造りのダンジョンの中を、二体の人外と手飼い、そしてその従者と
して付き従う神の名を持つ人外は、言葉もなく最深部へと歩を進めていく。

 世界の命運を賭けた途方もない大博打が―――
 ―――いま、密やかにその幕を切って落とそうとしていた。 

 

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