誕生〜信仰告白・0〜


 ―――目覚めの悪い、夢を見た。
 もう五年も昔の…そして現在ハンターとして生計を立てている自分の、そもそもの経緯
の契機となった、追憶の日の夢。

 手放そうとしても自身の中にわだかまる大過の記憶が、けして忘却の逃げ道を自分に
許さない。
 幾度となく夢に見て、その都度胸襟を掻き毟りたくなるほどの衝動に苛まれるその過
去世の情景の中には……決まって、一つの見知った面影があった。


 五年の昔。自らの好奇を満たす、ただそれだけのために…唯一のこされた肉親である
年の離れた弟を、自分は自分の都合につきあわせて、始終留守居を預けてばかりいた。
 希少価値を有する遺跡が発掘されたと聞いては身一つで赴き、その深淵に禁呪の存
在をかぎつけては意地のように入手を試みる。その度毎に、まだ年若かった弟は一晩で
も二晩でも、奔放な自分に代わって留守居を余儀なくされたのだ。

 もちろん、幼い弟を、留守がちな自分に代わってこまめに世話してくれる人はいたけれ
ど。それでも、有限である遺産を食いつぶしてしまわないようにと、生計を口実にいつか
らか家を空けるようになってしまった自分を求める弟の淋しさが、それで完全に埋め合わ
せられるはずもなくて。
 成長期も只中の、情緒面の形成も終わっていない年頃の弟が、当時どれほどの寂寥
に耐えて自分を送り出してくれていたのか―――あの頃、自分は考えてみたこともなかっ
た。

 ある日、いつものように探索に赴こうとした自分に執拗に食い下がってくる弟の姿を見
て…それが小さな弟にとってどれほどの負荷を強いられるものであったのかを、ようやく
自分は思い知らされた。それをここまで黙って自分の好きにさせてくれていた幼い厚情
に内心恥じて……だというのに、何故そこで思いとどまる事ができなかったのか、今で
も自分にはわからない。
 弟は……それほどにかきたてられるものがある場所ならば自分も行きたいと、そういっ
て探索の同行を願ったのだ。

 当時挑んでいた遺跡は、それまでに知り得た情報を鑑みるに、それほどの危険はな
いと自分が判断を下した場所だった。それほどに行きたいと弟が願うならと、せめてこれ
まで淋しがらせてしまった埋め合わせと、そして偶然にもそれが弟の誕生日であった事
から祝いの一つにもなるかと―勿論、正式な祝いは遺跡からの帰還後に行う心積もり
でいたのだ―、自分は弟の同行を許可してしまったのだ。

 どのような状況下であれ、どれほど確かな情報があれ、物事に絶対は存在しない。
冒険者として単身遺跡を渡り歩く者の当然の心得として、自分はそれを肝に命じてあっ
たはずなのに…
 ―――魔がさしたとしか、言い表しようがない。

 そして…ただ一度のつもりで。通いなれたダンジョンの、本当にさわりの部分だけを
体感させて弟の欲求を満足させるつもりで―――そうやって出向いたその場所で、弟
は自分を襲った禁呪の犠牲となったのだ。


 事態を招き寄せた者の当然の責務として……否。そんな理由付けの必要などなかっ
た。自分の巻き添えとなった弟の解術の鍵を探すため、自分は何もかもを擲って情報
を集め、入手でき得る限りの文献を紐解いた。
 そうしてようやく手繰り寄せた手がかりは、しかし気の遠くなるほどの道のりの果て
にあった。

 事態の元凶であり、他にこの荷を分け合う相手が存在しない以上、どれほどの難儀
であれ自分が投げ出す訳にはいかない。
 そうして自らに鞭打つようにして解術の旅路をたどり……もはや、五回目の季節が
巡った。

 けして放棄を許されない旅だと肝に命じていながら……時として、酷く疲弊した心が
絶対の禁句を呟いてしまう。

 まだ、終わらないのか。
 まだ、この咎は許されないのかと。


 解術の条件を一つ一つ積み上げながら、五年の歳月を経て―――今なお、自分の
贖罪の旅は終わらない……





 「―――っ」

 半覚醒の夢遊をたゆたっていた意識が、出し抜けに現実へと引き戻される。
 総身が地表に叩きつけられたかのような錯覚に竦み上がりながら…押し開いた視
野に飛び込んできたおぼろげな光景に、白鳳はここがどこかであるのかを遅れ馳せ
ながら知覚した。

 ルーキウスに滞在する間の拠点として長期滞在を決めこんでいる、簡素な意匠を
施された宿の天井。
 早鐘を打つ鼓動は覚醒して尚収まりを見せず、心臓をわし掴まれているかのよう
な断続的な痛みが邪魔をして、寝台から起き上がる事もできない。思い出したように
背中を濡らす汗の冷たさが、酷く不快だった。

 幾分荒さを増した自らの呼気が、断続的に辺りの空気に浸透する。
 体の痛みが薄れるまで、所在無くそうして横になったまま、白鳳はねめつける様に
天井の木目を見据えていた。

 そう夢想の頻度が高いわけでもない夢を、今夜に限ってこれほどに鮮明に反芻し
てしまった理由は自分自身が承知している。
 今日は……


 と、刹那……
 寝台の傍らで、小さな影がもぞりと動いた。
 寝覚めの倦怠を振り払うべく、伸びをしているとおぼしき動きを何度か繰り返してか
ら、その影は音も立てずに白鳳のもとにやってくる。
 枕元まで歩み寄ったその影は、軽く小首をかしげる様にして怪訝そうに一声鳴いた。

 「……スイ…」
 そうだ、今日は……
 もの言わぬ姿へと変じられてしまったこの小さな弟の…今日は、あの追憶の日から
五年目の…


 夜着の胸元を掻き毟る様に掴んだままの姿を心配してか、小さな獣の鳴き声が、再
び眼前の兄を呼ぶ。
 その姿を目の当たりにして―――きつく双眸を眇めたままだった白皙の容色が、こみ
上げてくる情動にクシャリと歪んだ。

 「…スイ……スイ…っ」

 自分のあざとい好奇の、この小さな弟は犠牲になった。その因果を思えば、自分が
世界に対して根負けする事などけして許されはしない。
 この身は、この命は、既に己が単身で保有しているものではないのだ。
 …解っている。誰に言われずとも身に染みて、自分が一番肝に命じている。
 それでも……その資格が許されないことを承知して尚、この旅路はあまりにも果てが
知れなくて…


 ―――――許してくれ…!

 一人と一匹だけの、他に聞くものとていない室内で…それでもどうしても言の葉にで
きなかった嘆願は―――自分一人を頼みとする弟と、自分にこの旅路を強いる世界と、
果たしてどちらに向けられたものだったのか……

 気遣わしげに身を摺り寄せてくる小さな弟の体を、逆に縋りつくかのように抱き寄せ
ながら…咳音すらも憚られるほどの静寂の中、白鳳は声もなく総身を震わせていた。






 かろんかろんと、軽快な鈴音が店内に響き渡った。
 来客を告げる合図となっている、入り口脇にしつらえられたその鈴の音に、バーテン
を務める若い男が丁寧な歓待の言葉で入店を促す。
 バーテンに軽く目で挨拶を返しながら屋内に足を踏み入れた騎士風の外観をした青年
は、意図するでもなく店内の様子を一瞥した。

 ―――と、その視線が店の一角でつと釘付けになった。

 男にしては肉の薄い総身を包む、赤を基調とした民族衣装。常であればその肩口を覆
うべく纏っているはずのショールは脇の椅子にかけられ、しかしその対極を為す色彩から
すぐに彼の存在の所有であると窺い知れる。
 頭髪の色は非常に純度の高い白銀で、これまたその纏う長衣と対を為しており、こちら
に背を向けているその半身が振り返れば、やはりむけられたその面には、対となる緋の
双眸が収められているはずであった。

 そんな目立つ色彩を総身に纏った知己を、青年―――セレストは、自身の四半世紀近
い半生の中で、一人しか知らない。

 「―――白鳳さん」

 見知った顔に驚いたのは、先客もご同様だったのだろう。弾かれたように背後を振り向
いたカウンター席に座る青年もまた、自身を呼ばわった声の主を確かめて、その双眸を
大円に見開いた。

 「……セレスト」
 いつになく掠れた声で呼ばわりはなされ……その懐から顔を覗かせた小さな獣の姿を
した不可解な生き物が、その呼び声に応えるかのように、小さく一声鳴いた。





 「―――偶然でしたね。驚きました」

 知己同士の再会と呼ぶには、些か間の抜けた接触を果たした後―――結局、セレスト
は勧められるままに白鳳の隣に腰を下ろしていた。
 元々は、騎士団の仲間との飲み会会場に指定されて足を運んだ店である。この店が
かつて白鳳と酒をたしなんだ場所であったことは覚えていても、そこに再び今夜、件の相手
が来店している事など、先見の力をもたないセレストが予測しえたはずもない。
 以前この店で交わされた会話や為された行為はまだ双方の記憶に新しく、ことに終辞
受動に徹さざるを得なかったセレストにとっては、いまだ警戒の念も色濃いものがあった。
 それならば何故他人の振りで無視を押しとおしてしまわなかったのか…自問するまでも
なく、セレストにも自身の行動が不可解だった。

 強いて理由を作るなら―――一人でカウンター席に腰かけていた青年のよすがが、いつ
になく希薄に感じたからだろうか。
 自分の知る白鳳は、いつでも傲慢なまでの自負に溢れていた存在だったから…彼の抱
える宿業を、この店で聞かされたあの夜でさえ、彼の生き方にはどこかで泰然としたもの
を感じていたから…だから、その差異がひどく異質なものとして映ったのかもしれなかった。


 「今夜は、どなたかと待ち合わせでも?」
 「ああ、ええ。職場の仲間との飲み会に誘われましてね。そう頻繁に騒いでいるわけで
  もないのですが、こうしてたまに」
 そうしたら、なんだかんだで自分以外全員遅刻で……どこか気恥ずかしそうに乾いた笑
いを漏らしながら、待ちぼうけの現状を説明する。
 そんなセレストのよすがに、白鳳は揶揄するでもなく、常の様に含みを持った言いまわ
しでその反応を楽しむでもなく、静かにそうですかと相槌を打つだけだった。その違和感
に、再びセレストの不信が募る。

 「あの…今日は、お一人で飲みたい気分だったのでは…?」

 一人で飲む気分ではないのだと言われて、白鳳にこの酒場へと誘われた記憶は今だ
脳裏に新しい。それは逆を返せば平時の彼が一人酒を好む酒癖があるということで、な
らば一人の時間を楽しんでいる彼の興に自分が、水を差しているのと同義だった。それ
は自分としてもありがたいことではなく、なによりいつにない青年の姿は、それだけでも
自分の調子を狂わせる。
 対して―――白鳳は、やはりその掴み所のない笑みを浮かべたまま、杯を傾けるだ
けだった。

 「そうですね……むしろ、一人でもいいから飲みたい気分だった、というべきかもしれま
  せん」
 「白鳳さん?」

 言葉を重ねるほどに募っていく違和感に、それまで内心に留まっていた不信の念が、
我知らずセレストの眉宇を顰めさせる。
 こんな白鳳を見たのは、初めてだった。―――否。たしか一度だけ、目にした事がある。

 あれは…そうだ。自分と主の少年が、ギルドの依頼を受けて国外れの温泉地まで出
向いた折の事だ。
 何くれとなく自分達にちょかいをかけてくるハンターの存在に業を煮やした主が、ささ
やかな意趣返しのつもりで彼の狙うモンスターの亜種に対し、天然記念保護令を公布・
施行させてしまった時―――後にそれを知った彼と顔を合わせた時、彼は束の間、こ
んなよすがをしてみせた。

 やはり…何かがあったのだ。
 知らずに画策した事とはいえ、主が半ば遊び半分に推し進めた温泉きゃんきゃんの保
護が、白鳳を少なからず追い詰めてしまったのは事実だった。彼の挙動の真相を知るも
のとして、要因の一端を担う自分が見てみぬ振りを決めこむのはあまりにも不心得という
ものだろう。

 ―――そして…それよりも何よりも実際のところ、そんな風に自身の言動に言い訳を
探してしまうくらいには、自分は白鳳に対して控えめな好意を覚えてもいたのだ。


 「白鳳さん…なにか、あったんですか?」
 及び腰に水を抜ければ、返って来るのはやはり、どこか捉えどころのない所得顔ばか
りで…
 心底困惑した態を見せるセレストに、それでも白鳳は、ようやく体ごと向き直ってみせ
た。
 「…いえ、どうということでは。……弟が、今日誕生日でしたものでね。この子と酒を酌み
  交わす訳にもいかないので、こうして」

 次の刹那―――辺りの空気に浸透した、えもいわれぬ沈黙。

 「それは……おめでとうございます」
 知覚するよりも先に喉を突いた言葉の気まずさを、突きつけられたのは自分と彼の、ど
ちらが先だっただろうか。

 青年の持つ緋の色をした虹彩が刹那の間見開かれ、次いでそれをとりなすかのように
ニ、三度瞬かされる。
 それでも、一端眼前の小動物へと流したその視線を再び戻した時には、白鳳の端正な
容色を束の間翳らせた情動のようなものは、綺麗に払拭されてしまっていた。

 「白鳳さん、あの…」
 「貴方なら―――まずはそう言ってくれるのだろうと思いましたよ」

 自身の失言を取り成そうとする及び腰の呼掛けが、こちらを揶揄する訳でもない青年の
穏やかな応えの声に打ち消される。
 ありがとうございますと付け足された言の葉は…それでもやはり、酷く所在なさそうな響き
で以って、セレストの耳朶を震わせた。

 「五年です、今日で」
 「白鳳さん…」
 「…この子がこの姿に変えられてから、五年目の誕生日がきてしまいました」
 いつのまにか、時間ばかりが過ぎてしまって―――


 それは、吐露とも呼び表せないほどに訥々とした響きで以って紡がれた独白だった。事
情の断片を知り得た者でも、そのあまりの無機質な声音を耳にして、事態の重大さを把
握するのは難儀な事であったかもしれない。
 それでも―――一度でも、その内面に触れた経緯を持つものならば。冷徹に事実のみ
を物語るその言葉には、我知らず背筋を冷やすだけの底知れない衝動があった。

 今日で五年と、白鳳は言っていた。よもや、彼の弟が件の呪術にまき込まれた日が五
年前の今日、きしくもその生誕の日だったなどとは考えたくもなかったし、またそんな救い
のない仮説を―それが埒もない空言であれ―眼前の青年にぶつけるだけの勇気は、セ
レストにもありはしなかったが……
 いずれにしても、青年の語る因果関係が、言葉ほどに気安いものではない事だけは明
らかだった。


 成長期にある子供にとって、その節目ともなる記念日の存在は大人が考えるよりもずっ
と、重大で得難いものだった。
 過ごした過去の一日一日が、その発育の程を周囲に知らしめる稚い子供の魂。成育を
終えてしまった大人と比べ、彼らの歩む毎日は、一日だとて同じ姿を見せることがなかっ
た。
 だからこそ、その健やかな成長に対する感謝の念をこめて、巡る記念日の一つ一つを大
人達は祝う。成長期の子供を抱える家庭にとって、誕生日とはむしろ、そんな彼らを守り
育てた保護者の立場にいる大人達が、その大過ない発育を喜び謝辞の思いを交わし合
うための日であるのかもしれなかった。

 二親は既に常世の住人であるのだと、以前眼前の青年が口にしていたことを思い出す。
 早くに両親を失ってしまった白鳳にとって、その血を分けあって生まれた弟の存在が、最
後にのこされた身内であるのだと言うことも。
 それならば―――彼は兄としてだけではなく、ただ一人の保護者という立場でスイに接し
てきたということになる。


 「…白鳳さん」
 一瞬言いよどんだ内心の動揺を表すかのように、手にしたグラスのなかでかろりと氷塊
が弾ける。
 これ以上は、部外の存在が口を差し挟むべきではない話題であるのかもしれなかった。
第三者の立場で接するよりない以上、自分がどのような言葉を探したところで眼前の兄弟
が背負う宿業を僅かばかりであれ解消してやることはできない。むしろ自身は部外者であ
るのだという無意識下の気楽さがどこかに滲み出るであろう安易な言葉は、逃れることの
できない業を担いつづける白鳳の傷を抉る結果となるかもしれなかった。

 だが、それでも……
 始めから他人の立ち位置を選び取って口を噤んでしまう自己弁護よりは、自らに事態に
対する影響力がない事を承知の上で、それでも意味を成さない戯言を繰り返す欺瞞をこそ、
自分は選んでしまうから……

 「スイ君は…今日でいくつに…?」

 刹那―――隣で同じようにグラスを傾ける青年の相貌に、僅かばかりの不信の色が浮
かんだ。言葉に含まれた意味を測りかねているかのように緋の双眸がニ、三度瞬かされ、
ややしてそれが、ゆるりと浮かび上がってきた微苦笑へと溶ける。

 「―――今日で、十五に」

 言って、ごく自然な仕種でその視線が反らされた。その動きを自然追うこととなったセレス
トの目線もまた、カウンターの上でつまみのチーズの欠片を無心に齧っている小さな生き物
の上へと注がれる。
 向けられた視線を感じ取ったのか、小首をかしげるようにしてこちらを振り返った話題の主
が、小さく一声鳴いた。


 くるくるとよく動く、感情豊かな大きな双眸も、軽量であるが故に、常にそこここを飛び跳ね
て移動しているように見えるその仕種も、愛玩動物として捉えれば傍目にも可愛らしかった。
庇護者の言いつけに逆らうことのない聞き分けの良さも、その姿をより可憐に見せている要
因の一つであるだろう。
 だが…それは、スイを見たままの外観で判じた場合の話だ。この小さな、さながらげっ歯
類を思わせる小動物の姿をした生き物が、実は齢十五を数える少年の、被った呪術のなれ
の果ての姿であると聞かされて、可憐だのなんだのと気楽に誉めそやせる者はいないだろ
う。
 実際に、その正体を聞かされた時に自身も晒してしまった動揺を思い返しながら、セレスト
は喉元までこみあげてきた嘆息を、辛うじて飲み下した。

 事態に全く因果関係を持たない部外の存在だとて、突き付けられる気まずさを否めないの
だ。当事者であり、のみならず自らがその元凶であるのだと自嘲気味に語っていた白鳳の
目に、この小さな弟の姿はどれほどの自責の念を以って映っているのだろう。


 現世の住人である以上、誰の上にも等しく訪れる様々な記念日の中で―――誕生日とい
うものは、その生の節目を飾る、最も重んじられるべき意味合いを込められた祝日であると
言えた。
 その誕生の歴史を祝い、この世界に現存する、その尊い奇跡に深い謝意を捧げる日。
 共に生きる身内が存在する者ならば、まずは身内の。血縁の途絶えた者ならば、近しい
つきあいを交わす誰かの。―――そして、もしも誰一人近しい存在を持たない者であれば、
その孤独の分だけの強さを秘めた、自らの声で以って。
 その誕生を、現存することを、声高に歓待するその思いが…人の歩みを、果てもしれない
明日へと押しだし盛り立てしてきたのだ。

 それならば―――自らにすら祝われる事を忘れてしまった魂は、何をよすがにして現世を
渡るというのだろう…

 自分の強欲の、犠牲になったのだと言っていた。解術の手立てはあっても、それを完遂
するまでにかかる時間は、果てがないのだとも。
 そう語った白鳳が、自身の犯した大過の証であるかのように突き付けられる、一切の発
育を見せない弟の姿に、気安い言葉で祝福を願うことはおそらくなかっただろう。それは、
弟のみならず、彼にそんな因果を強いてしまった自らに対してもきっと同じ事で…
 巡る節目の日を、互いだけを唯一の拠所として生きる彼らはそのたびに、どれほどの思
いを飲み下しながら凌いできたのだろうか―――


 つと……胸襟をせりあがってくるもので、鼻尖の奥が鈍く痛んだ。
 解っている。これは態のいい感傷だった。自らが実害を被る事はないと、傍目にも解るほ
どの距離を互いに保っている『他人』の立ち位置にいるからこそ、自分はこんな傲慢な同
情を、相手に覚える事もできるのだ。
 それでも…
 
 「―――白鳳さん」
 相手に対し、自らの精神的優位を知覚して始めて、人は自分以外の存在に同情もし、そ
うする事で自身の置かれた立ち位置を幸甚であるのだと認識する。その繰り返しが結果と
して作り上げる、人としての『優しさ』を、欺瞞と呼ぶ声があることを、だから穿った度合は
どうあれ、あながち間違いではないのだとセレストも思う。
 ―――それでも、現世に生まれ出でた以上、誰しもその存在を祝福されたいと願う事は
自然な心の動きだった。そうして、せめてその節目の折々なりともと福音を望む魂を、自ら
頑なに否定しつづけなければならないのだとしたら、それは現存する生物として、あまりに
も不憫すぎたから……

 「…スイ君に、触ってもいいですか?」
 「セレスト?」

 否とも諾とも、応えは返らなかった。それでも伸ばした手に小動物の姿をした少年が怯
えを見せるよすがもなく、その保護者からの止め立てもなかったことを暗黙の了解と判じ
て、両の手の上に乗せた存在を、自らの目の高さにまで持ち上げる。
 その動きに幾分緊張の色を覗かせた小さな存在の、手にした軽さに胸を突かれる思い
を味わいながら…セレストは、それでも腹の底からの願いを込めた所得顔を形づくった。

 「…そうか、もう十五か。それじゃ、カナン様より一つ年下だ。それにしては、君はとて
  も聞き分けがいいんだね。君の理解があって、お兄さんもきっと助かっているだろう。
  ―――保護者として、少し羨ましいよ」
 「…っ」

 意図した言葉に傍らの青年が息を呑んだ気配にも、敢えて気付かない振りをする。自
らの行為が第三者の領分を超えたどれほどの傲慢かを知って尚、セレストは続く言葉を
飲み下そうとはしなかった。
 「君はきっと、とても聡明で健全な心を持っているんだろう。そして、とてもお兄さんの
  事が大切なんだろうね。君を見ていると、それがよくわかる。―――本当の君は、ど
  んな姿をしているのかな。一目、見てみたい気がするよ」

 痛いほどに肌に突き刺さる青年の視線に、自分の紡ぐ一言一言がどれほどの衝動を
誘発させるものであるのかを否応なく知覚させられる。
 それでも―――自分がこの兄弟に本当に伝えたい言葉は、きっと青年の胸襟を深く
抉ったであろう吐露の、その先にこそあったから……

 でもそれよりも―――言って、続く言葉のもつ意味の重さに、無意識の内に自らの呼
気を嚥下する。

 「……『誕生日、おめでとう』。この先の一年が、君にとって真に祝福されたものであ
  ることを祈るよ」


 例え、その姿がこの少年の本質を歪めた虚像であっても。節目節目を経る毎に、外観
の成育を見せる事のない人外の身が、その庇護者の目にどれほどの痛手を以って映
ろうとも。
 命は等しく唯一絶対のもので、他の何を以ってしても代えなど効かなくて。―――そ
して、その存続を、等しく祝福されるべきものだから。

 だから……部外の自分にその資格がないと腹の底では解っていても―――否。解っ
ているからこそ、自らの及び腰で言葉を呑みこんでしまいたくはないと、セレストは思っ
た。

 ここに、とある呪術の影響を受けて少年期の発育を奪われてしまった存在がいて。そ
して自らの勇み足がその元凶となったのだと、自虐を引きずる縁者がいて。
 双方共に互いを思うあまりに、その存在を枷として、享受して然るべき幸甚の全てか
ら我が身を遠ざけているのだとしたら…これほどに、切なくやるせない相関は他にない
から。
 だから―――どの道埒を為さない戯言なら、その相関に他人の立ち位置でしか携わ
れない存在であるからこそ、厚顔を承知で吐き出さずにはいられなかった。


 刹那―――
 隣り合って腰を下ろしたカウンターの、肘先が触れ合うほどの近距離で…青年の手に
したグラスが耳障りな音を立てて卓上に戻されるのを、セレストは気付かない振りをした。

 白銀の髪の陰に隠されて、俯いたその端正な容色に浮かぶ情動の程はわからない。
それでも…それが互いの領域を侵犯した自分の不躾に対する憤激であれなんであれ、
年に一度というこんな日に、含むものを抱えて静かに笑っていられるよりは、余程その方
が建設的で健康的であるように思えた。
 「……ねぇ、白鳳さん」
 もう一息後押しをしてしまいたくて、僅か緊張を思わせる紅い長衣の背中に向けて、止め
とばかりに呼びかける。

 「…お花見に、いきましょうか。近い内に、きっと」
 「……セレスト?」
 「もう、花の時期は逃してしまっているきらいもありますが…要は、気分ですから。昼日
  中に、陽の光の下で。満開に咲き誇った―いや、もう花も散って新緑繁れる、と言う
  やつかもですが、まあ気分として。その、満開の花の下で。酒を飲んだり弁当を食べ
  たり騒いだりしながら、みんなで花を愛でるんです。―――きっと楽しいですよ」

 紡ぐ言葉につられるようにして、のろのろとこちらに向き直った白皙の容貌が、恐らくは、
先刻までのものとは種を違えた情動に僅か強張りを見せているのが解る。相手のそんな
よすがに、セレストは後押しをするかのように頷いて見せた。
 ややして―――額に落ちかかる銀糸の頭髪をかき上げるたなごころの下で、対を為す
緋の虹彩が、失笑の色に和む。
 

 「昼日中に、陽の光の下で…ですか。なんとも貴方向きな趣向ですね。いかにも健全
  路線で」
 本当に、貴方らしい―――

 言って、髪をかきあげた手で額を押さえたまま…堪え切れないという様に喉を震わせな
がら、白鳳は長い事偲び笑ってみせた。
 含むものを思わせる意図した所得顔を見なれた目には、別人かと見まごうほどに快活
な、衒いのない笑み。そうして相好を崩したそのよすがは確かに腹の底からのものであっ
たにもかかわらず、断続的に喉を震わせる忍び笑いがまるで嗚咽のように耳朶を打って
……セレストの目には、眼前で笑う人物が逆に泣いているかのように映った。


 「白鳳さん、俺は……」
 自分でも何を訴えたいのかわからずに、それでもこのまま相手を笑わせてはいけない
ような気がして、眼前の青年に呼びかける。
 と、刹那―――店の入り口で、再びかろんかろんと、来客を告げる鈴が鳴った。

 はたして、それはセレストが当初待ち合わせしていた同僚達の来店を教えるもので…
かといってこの状況では席を立つに立てず、僅か狼狽の色を見せた青年の背を、逆に
同席していた白銀の髪の先客が叩いて見せる。
 「ほら、お仲間の御到着ですよ?はやくお行きなさい」
 「白鳳さん、あの…」
 「お付き合い頂いて、ありがとうございました。おかげで、一人酒を煽らなくてすみま
  したよ」

 言って―――今度こそ、白鳳は屈託を感じさせない笑みを、その口許にはいて見せた。
 「ありがとう。次の機会には是非、貴方の言う健全な昼のお花見にも誘ってください」


 それは、水をさしむけたセレストの求めていた答とは幾分違えたものだったけれど…
それでも返された相手の風貌には胸襟を撫で下ろさせる何かがあったから、セレストは
結局、それ以上を口にする事ができなかった。
 折悪しく、探し人に気付いた後発の同僚の一人が、声高にこちらを呼ばわる声が店
内の空気を震わせる。


 「セレスト、もういい加減にお仲間のところへいかないと」
 「あ、はい。…白鳳さん?」

 仲間の呼び声に引きずられる様にして、半ば席から腰を浮かせながら…それでも中
途半端な酒の相席に後ろ髪を引かれるよすがで、セレストは傍らに座る青年の姿をも
う一度振り返った。
 言外の問いかけを視線にのせて遣してきた相手に、これが最後と同じ言葉を繰り返
す。
 「…あの……本当に、お花見やりましょうね。騎士団の詰所に来て頂ければいつで
  も連絡がつきますし…もし差し支えなかったら、貴方の泊まっている宿の連絡先も
  残しておいて頂ければ、こちらからでも…」
 素人感覚で判じても、念押しの言葉としてはひどくありきたりで耳を引かず…のみな
らず下手な誘い文句にもなっていない言葉だった。時期を焦ったとはいえ、自身のあ
まりに芸のない言いように、セレストは軽い自己嫌悪に苛まれる。
 だが、それでも……

 「―――はい。必ず…」
 精算もそこそこに、あたふたと席を離れて行く青年に向かい、白鳳は衒いなく―――
心底衒いなく笑んで見せながら、一言諾と応えた。

 そのよすがに安堵したように、騎士然とした青年の長身が、出迎えにきた仲間達の
人垣に連れ去られて店の二階へと消える。



 その後姿が完全に階上へと消えるのと時を同じくして―――見計らうかのように、そ
の白皙の容貌から嫣然と浮かべられていた笑みが滑り落ちる。
 音を立てて…という表現がこれほどそぐわしい形容もないであろうと思えるほど瞬時
に、無機的な鉄面皮に戻った白鳳は、再びカウンターに向き直るとまだ杯の半分以上を
みたしていた酒を大きく一口煽った。
 音を立てて卓上に叩きつけたその側面をきつく握り締めながら…あいた弓手で、ほつ
れ落ち額にかかった銀糸を乱暴にかきあげる。
 悪酔いをしたのかと、酔漢になれたバーテンが咄嗟に様子を伺ったほど、押し殺した
荒々しい吐息がその総身をとりまく空気に浸透した。

 気遣わしそうに前肢を使って体に触れてくる弟にも、こみ上げてくるものをしのぐ事に
必死で答える事ができない。
 ややして…半顔を覆った掌の隙間を伝い、溢れ出した情動の証が卓の上に無秩序な
文様を作り出した。


 『誕生日、おめでとう』

 あの酒の席で…弟を手に乗せた青年が、いとも容易くその生誕の日を祝した言葉が
耳朶を打ちすえる。
 自らの大過の記憶に喘ぎ、こうして人外の外見に変じてしまった弟の姿をその象徴と
してしか捉えられない自分には…五年の昔から今日のこの時まで、罪の証として慄き
つづけてきた節目の日を、言葉にして祝った事など一度として記憶になかった。
 ただ、すまないと…あの大過の日の責を詫び、発育を見せない弟の姿に詫び…ひた
すらに許しを請う事でしか、自分はその生誕の日に彼と向きあう事ができなかったのだ。

 それを、あの男が…
 邂逅を果たしてから、個としての会話を交わした機会は、果たしてどのくらいのもの
だっただろう。きっと指おり数えた方が早いであろう、そんな付き合いに過ぎないはず
のあの青年が―――この五年間というもの、どうしても自分が口にする事のできなかっ
た言葉を容易く弟に贈ってみせた。

 すまない、許してくれと…そんな風にしか謝辞を表す事ができない自分が喘ぐ、この
世界には―――あれほどに優しくみたされる言葉も、存在していたのだ。


 自分が背負う柵が、彼には無縁であったというだけの事だ。
 ただ、それだけの差異であるはずなのに…


 ただそれだけのことが……何故これほどに、この胸襟に響くのか…

 

 青年に対する純然たる謝意と、自分にはなしえない厚情を容易く差し出すその器量
に対する嫉妬と、そしてもはや引き戻る事の叶わない賭けに踏み出してしまった自身
の意気地のなさに対する叱責と…様々な情動がない交ぜになって、いっそ気が触れ
てしまいそうだった。

 だが…それでも、自分はもう踏み出してしまった。あの得難い、こうもこの胸襟を穿
つ厚情を惜しげもなく差し出してくれた青年を、人身御供として切り捨てる事で、自分
達兄弟の息災を選ぶ卑劣漢の道を。
 神の名を冠した、八翼との誓約は絶対だ。違えたが最後、その裁きの鎌は一転し
て庇護を約束されていた自分達の上へと振り下ろされる。
 その非道さこそが人外の証であり……一蓮托生の道を選んだ以上、自らもそれに
準じる覚悟を肝に銘じなければ、人の身に過ぎないこの生など塵芥のごとく吹き消さ
れてしまうだけだ。


 ―――強く、あらねば…
 自らの命運と、弟の将来と…どちらにもしがみつこうとするならば、その強欲に見
合った代償を払わなければならない。
 たとえ、それが世界でも…
 たとえ、それがこの半生に唯一無二と思い定めた、得難い思い人の命であったと
しても…


 自分は、凌いでみせる。それこそが自身の大過の代価であるというのなら、自分
はきっと、最後までこの賭けを凌いでみせる。
 もう何一つ失うものなどないと、五年の昔につき付けられた驚愕と絶望を、この身
はけして、忘れてはいないのだから―――

 これは……あの大過の日の自分と向き合った、自分自身に課せられた戦いなの
だから―――


 見苦しく嗚咽を晒す不様だけは自分に許せなくて、きつく噛み締めた歯をそれでも
足りずにぎりと食いしばりながら、胸襟の奥底から沸き上がる情動が後から後から
弾ける衝動に、白鳳は声もなく耐えていた。

 それでも、押し寄せる悔恨は怒涛のように尽きる事がなく―――
 そんな自身の甘えを内心で叱咤しながら…それでも腹のどこかで、この賭けの終
局が自分の都合のいい方向へ転がってくれはしないかと…そんな風に画策めいた
思い打ち消しけれない自らの浅ましさが、どうしようもなく厭わしいと白鳳は思った。


 そして、このおよそ五日の後―――それまで水面下で不穏な暗躍が続けられて
いた、ルーキウス王家に対するクーデター騒動はついにその全貌を露にし…一件
の黒幕に手飼としてその身柄を庇護されていた白鳳は、王家側の主用人物であ
るセレストと、その主人であるカナンと全面的に敵対する事となる。
 自身の命運をもかけた白鳳の賭けが凶兆を示すか吉兆を表すのかは―――こ
の時点で判じられるものは、神ではない人界の住人達のなかには誰一人として
存在し得なかった……

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