ショート・ショート     









 ルーキウス王国に名高い、玄人の戦闘集団、王国近衛騎士団。いわ
ば国公認のエリートと呼べるであろう彼らの姿は、騎士団結成のその
昔から、ルーキウスに暮す少年たちにとって、憧れの花形職業の代名
詞であった。
 殊にその幹部格ともなれば国王一家の信頼も厚く、国民の敬意と
憧憬もいや増すというもので。そういった周囲の思いを受け止めるべく
彼らもまた、期待に恥じない騎士であろうと自ら研鑽を繰り返す。その
名を冠す事は、叙勲を受けた彼らにとって大きな誇りだった。
 ……なのに何故。自分達はこんな所で他所様の飼い牛の面倒なん
ぞ見ているのだろう。

 ルーキウス南部、国境沿いの河川敷。みゃあみゃあと鳴き交わす牛
の群れの只中で、セレストはこらえ切れなかった嘆息を落とした。
 答えは至って単純だ。団長命令の遠征に出たものの、肝心の任地は
国境沿いの川向こう。折からの雨で増水した河川に橋を落とされて、自
力での渡河も橋の修復も、荒れ続きの天気が邪魔をする。それでも任も
果たさず無駄飯食いは許されぬと、せめてもの存在意義『地域住民と共
に歩む王国騎士団』を守るべく、こうして地域の皆様の為に、奉仕貢献に
勤めているというわけだ。

「隊長〜…自分達、いつまでこんなことやってればい いんでしょうか」
「言うな、余計むなしくなるだけだぞ」
  国民の皆様あっての騎士職業とはいえ、こうして奉仕活動に精を出す
のも今日で二日目ともなれば、愚痴のひとつもこぼれようというものだろう。
ちなみに今回の遠征に当てられた小隊の指揮官はセレストであったから、
騎士のこの呼びかけはあながち誇称ではない。

 今日も今日とて、王国騎士の名もどこへやら、放牧先の草地から指定
の牧舎へと、先からの大雨で取り残された家畜の避難誘導にいそしむ牧
童の真似事だ。農業国を支える牧農家にとって、家畜が得がたい財貨で
あるとわかってはいても、そこいらの腕っ節自慢のあんちゃんのような扱い
を受けるのは、玄人剣士の沽券にそれなりの傷を覚えてしまう。
  ともあれ、そろそろあたりも薄暗くなってきたことだ。牛の頭数も確認し
た。今日の作業もここまでだろう。
 だが、作業終了を宣言しようとしたそのとき……

 「……何だ?」
 人垣…もとい牛垣の向こう、丁度牧舎の入り口側で、複数の驚声があ
がった。次いで、興奮したらしい牛の一頭が、どかどかと地面をけりつける
音。
 なにをして興奮させたかは知らないが、正気を逸した牛は危険だ。ひと
たび暴走させれば、人の身では容易に制御できなくなる。
 押さえろと促しかけて…だが、現場に急行して事態を目の当たりにした
セレストは、反対のことを叫んでいた。

 「離せ!刺激するな!」
 牛の背から首筋にかけて押さえていた騎士の一人が弾かれた様に振り
返るのと、興奮が極限に達した牛が大きく嘶いて彼を振り落としたのは、ほ
とんど同時だった。

 牧舎の木戸にぶつかるようにして、その巨体が外へと飛び出しかける。
その刹那―――  まるで頃合を見計らったかのような間の悪さで、牧舎に
面した私道を、一つの人影が通り過ぎた。


                       †

 結論から言ってしまえば、騒動はあっけなく収集した。 暴走せんばかりに
いきりたった牛と、件の人影があわや衝突するかと思われたその刹那には、
もう人影は数歩の距離を飛びのいていた。そのままの身のこなしと、その場に
立てかけてあった放牧用の鞭一つで、彼はいともたやすく暴れ牛をいさめて
見せたのだ。時間にして、わずか数十秒にも満たない出来事だった。

 「…ありがとう。預かりものの牛なんだ、おかげで助かった」
 そのように躾られた軍牛でなければ扱いこなせないのかと、揶揄される隙を
作ってしまったようで腹の底ではいたたまれなかった。それでも、隊を指揮する
ものとして、隊の体面を保つばかりか、ひいては市井へと余計な騒ぎを広げる
ところだった体たらくを最小限の形で未然に防いでくれた相手に、礼の一つも
述べないのはあまりにも狭量というものだろう。
 同じようにばつの悪い様子で、不承不承といった風に背後に控えている部
下の一人を、促すように肘で小突く。牛を刺激した…言い換えれば騒動の原
因を作ったその青年が思い出したように続いて礼を述べたのを見て取って、
セレストは眼前の人物に重ねて声をかけた。

 「ところで君、怪我はなかったか?」
 馬力のある牛のあれだけの暴走を、瞬時にその身一つで諌めて見せたの
だ。相応の経験の持ち主なのだろうが、それでも自ら傷つく覚悟がなければ、
ああも思いきりよく留め立てには入れないだろう。
 もし負傷させてしまったなら、それは原因を作ったこちら側の責任だ。殊民
間人へ及ぼす弊害を隊規では堅く禁じているから、相応の対処を考えなけれ
ばならない。
 そう考えて一歩を踏み出したセレストの前で、件の青年が頭を振りながら
ゆっくりと顔を上げた。
 どうやら問題ないらしいと安堵してもう一歩を踏み出し掛けて……刹那、セ
レストの中で、時流が止まる。
 そこに立っていたのは…あまりにも、自身の中の既視感を触発させる風体
をした存在だった。

 肩口に、わずか触れるか触れないかという長さに切りそろえられた、烏の濡
れ羽色の頭髪。中肉の総身を覆うのは、人の目に印象付けるには大人しすぎ
る部類に入るであろう、樺茶の短衣と淡い鳶色の下衣。
 そして…巡らせた目線と最後にかち合った、頭髪と色彩を同じくした、ひどく
勝気そうなその双眸―――
 記憶に残る人物の持つそれと、戴く色素は何一つ合致を見なかった。人の纏
う彩りというものは、それだけでその印象を決定付けるほどに重要視されるこ
とが常であったから、さほど親しくもない相手であったなら、その時点で自身の
知己とは別人であると認識がなされていたかもしれない。
 だが……他の人物はどうあれ、脳裏を過ったその名を持つ存在を、自分が見
間違えることだけはありえない。そんな出会い方をし、また余人と築きようもな
い人間関係を、構築してきた相手だった。
 ある意味では、親兄弟よりも、そして命を賭してと誓約した自らの主筋よりも、
胸の深い場所まで踏みこみあった、そんな相関だった。おいそれと追憶の中に
埋没させてしまうには、あらゆる意味合いにおいて、あまりにも『彼』は鮮烈過
ぎる。

 「はく…」
 呼びかけて、その名がルーキウスの上層部においてどれ程の禁忌と化してい
るかに思い至り、セレストは咄嗟に続く言葉を飲み下す。どう繋げたものか思い
あぐね、意味もなさない言葉を口の中で不明瞭に転がした後、一連の言動を成
り行きから見聞していた部下の不審を僅かでもそらそうと、場を取り繕う継ぎ穂
を探す。

 …と、刹那―――
 「―――このあたりの牛は、平均して気性が荒いんで すよ。不用意に、背中
  から触らない方がいい」

 先手を打つかのように、眼前の青年がゆったりとした語調でセレストに話しか
けてくる。多少意識している風もあるが、その話し方も声音も、やはりセレストの
知る青年のものと変わらなかった。
 と、こちらを見返してくる双眸の奥で、漆黒を戴く虹彩が、意味ありげな光を一
瞬煌かせる。そして…

 「なんでしたら、少し扱いをご指南いたしましょうか?―――隊長殿」
 現実と追想との差違に馴染めず内心固まってしまったセレストの前で―――
そう嘯いた追憶の残像が、綺麗に笑って見せた。


                      †

 結果として、騎士一人と牛一頭、そして隊の沽券を守った白鳳は、その日の宿
に難儀しているという訴えをあっさりと認可され、騎士団が宿舎代わりの逗留して
いる宿の一室を、礼代わりの食事つきで貸し与えられた。
 まとう色彩が変わっても、やはり人目を引くその容貌は周囲の興味を誘うのか、
奢り飯の間にも、ちらほらと 休憩中の騎士達が集まってくる。問われるままに、
立て板に水と、取ってつけたような身の上話をすらすら述べて見せる青年の姿に
―――セレストは、その日何度目かの脱力感を覚えずにはいられなかった。

 はじめて顔をあわせた時から、この人はそれは口がうまかったから…異常なし特
記事項なしと、連日決り文句のように業務日誌を記す平和慣れした部下達など、
修羅場慣れした彼にとっては、相手取るにも味気ないくらいだろう。どちらに非が
あると言われれば、それは当然その道の大家でありながら不測の事態を想定で
きない自分達近衛の方だ。その管理者である自分にも、責めを負う部分は多分
にある。だが……

 なにも、こうも向こう見ずな挑発に出なくともいいだろうにと思うのだ。
 国家に反した大罪人として、本来であれば白鳳の首には第一級の賞金がかけ
られていてもおかしくはないのだ。それを水面下でもみ消すような真似をした以上、
自分達主従も彼も、その所業を大きな声で糾弾できないことに変わりはない。
 だが……脛に傷持つ者同士、互いに弁えるべき「分」というものがあるのではな
いだろうか?
 少なくとも……こうして、本来自分を捕らえ、然るべき収容機間に引き渡すべく動
く、「捕物役」の前にその姿を現さないように振舞う程度の自衛意識は。

 それでも―――こうして蓋を開けてみれば、臨時の食客となった件の青年は、こ
れ以上ないほどに周囲の空気に馴染んでいて……

 気になる別れ方をした。だから無事を確認できたことは素直に嬉しい。嬉しいが
……
 あまりにも豪胆な彼の気性と、疑いもせず珍入者を受入れてしまう部下達の大
らかさと…そして結局はそれらを黙認してしまう自らの優柔不断さに、近衛の何た
るかを思い描いたセレストは、少しだけ泣きたくなった。



                           †

 ガタガタと風が窓を叩く音に、セレストはそれまで机上に向けられていた意識を
現実へと引き戻された。
 音のするほうへと首を巡らせてみれば、ひときわ強い風足が木枠にはめ込まれ
た硝子を壊さんばかりに繰り返し鳴らされる。
 今夜は一荒れくるかもしれないと、土地勘のある宿の主が宵の口にこぼしてい
た。ただでさえ雨続きだというのに、これで嵐にでもなったらいつまで足止めを食ら
うことになるか知れたものではない。物見遊山で遠征してきている訳ではないのだ
からと、小隊を預かる立場の焦燥が嘆息となって室内に落ちた。
 ともあれ、これ以上ひどくなるようなら夜番の者に河川付近の巡回も命じておい
たほうがいいかもしれない。 椅子の上で反り返るようにして居汚く全身を伸ばしな
がら、セレストは外に出るべく頭の後ろに回した手で椅子の背にかけてあった上着
をぞんざいに掴み取った。

 と、その刹那―――
 「……あ?」

 上着をつかんだ手に、馴染みのない感触が伝わった。
 隊務の遂行中であれば、まず身につけるどころか持ち歩きもしないであろう、装飾
品を思わせるふわふわとした手触り。
 もしやと思い上着の下から手にしたそれを引きずり出して……セレストは自らの失
態に僅か顔をしかめた。
 「……急いでいたからなぁ…」
 どうやら、互いの部屋に戻るどさくさに乗じて、同じように椅子にかけてあったこれ
を自分の上着ごと持ちだしてきてしまったらしい。
 椅子を鳴らして体重を移動させながら、眼前にかざしたそれを何とはなしに広げて
みる。
 羽毛を集めて作られたと思しき、純白のショール。
 びらりと光源の下で面積を広げたそれは、セレストもよく知る人物の持ち物だった。
 旅暮しの日常の中では、色合いからも形態からも使い勝手がいいとは呼べない
であろうそれ。一つでも手荷物を減らしたいだろう旅路を敢えて装飾品にこだわる彼
の人の美意識は、彼ではないセレストには解らなかった。
 もっとも、そんな様装が傍目にも違和感を覚えさせない外見ではあったから、やめ
ればいいのにとも思いはしなかったが。
 ともあれ、こうしてどさくさに紛れて彼の私物を持ち出してしまった以上、一言詫び
を入れて返してこなければならないだろう。
 常識的に考えれば、屋根続きであれ一度別れた相手を訪ねるには憚られる時間
帯だった。一夜の宿を提供した以上、当然再び顔を合わせることになるだろう翌朝に
なってからこういったやりとりはすべきだろうと、セレストの中の良識が訴える。

 だが……ことこの手の対人関係の機微に関して、セレストは件の相手を信用して
いなかった。
 色眼鏡で彼という存在を捉えている訳ではない。それでも、社会的常識に準えた
行動を当然に取りつづけられるほど、彼が安穏とした日々を送ってはいないことに
もまた、これまでの短いつきあいのなかで気づかないわけにはいかなかったから。
 昼行灯昼行灯と不名誉な呼称ばかりが先走ってはいても、そこは一国が抱える
公の軍事組織だ。表向きの姿はどうあれ、その与えられた権限や実行力を欠片な
りとも見知っている白鳳が、自分達近衛を侮るとは思えない。

 彼は、改めての挨拶など寄越さずに出ていくだろう。人目を避けるべく十中八九、
夜明けを待たずに。
 今を逃せば、もう彼に接触する機会は望めなかった。
 そもそもが、原因を作ったのはこちらだ。二の足を踏んでこのままうっかりと機を
逃してしまったのでは、あまりに寝覚めがわるいというものだろう。

 よし、と踏ん切りをつけるかのようにもう一度椅子を鳴らすと、セレストは眼前に
広げた横領物…もとい、拾得物を手頃な大きさにたたんだ。なにも入室を求める用
件でもなし、まだ相手が起きていてくれればそれほどの不調法は犯さずにすむだ
ろう。すでに就寝中であれば、この形のまま部屋の扉の取っ手にでもかけておけ
ばいい。
 しかし―――手に持ったそれに改めて視線を落とし、まじまじと見聞する。
 そのものの持つ形態もあいまって、それは非常に人目をひく代物だった。ルー
キウス狭しといえども、こんなものをそつなく着こなし、且つ似合ってしまう人物な
ど、彼をおいてほかにいないだろう。
 人を見かけで判断してはいけません。ましてや、視覚から人を差別化するなど
もってのほかです。
 幼い頃より、厳しく叩きこまれてきた道徳観念が、胸の内で自らの心象とせめ
ぎ合う。それでも、思わずといった風に漏れてしまった嘆息までは、押し戻すこと
ができなかった。

 なんというか、こういった代物は長閑なお国柄には非常に不釣合いで。仮に自
分などがうっかり身につけようものなら、向こう三ヶ月は笑いの種にされるだろう
もので。それをあまりに自然に着こなしてしまう彼の人というのは…

 「……派手な人だ」
 ついつい零れてしまった言葉は非常に不躾な物だったが……好き勝手を上げ
連ねられた相手方にしてみれば、その後小声で「すみません」と壁越しの隣人
に頭を下げたセレストの行動のほうこそ、本音を裏付けるなによりの証拠として
余程不躾と思ったに違いなかった。


                       †

 届けものを手に室内から足を踏み出した宿の廊下は、時間帯を物語るかの
ように、ごく僅かな薄明かりの元しんと静まり返っていた。
 小人数とはいえ、一個小隊が居留地として滞在しているのだ。それなりの喧
騒や物音など、人が生活している痕跡がなんらかの形でそこここから感じ取れ
そうなものだったが……その辺りは、平和ボケの昼行灯と陰口を叩かれようと
も、腐ってもプロの軍人稼業と言うべきか。

 時間交代制の警備番についている者と、その交代要員が控えの場代わりに
使っている階下の食堂から時折人の話し声が届いてはくるものの、不文律の規
律を大っぴらに乱す者などそうそういはしなかった。
 故に、時間帯を憚った静寂の中では、昼間なら気にも止めないであろう忍ば
せた足音が非常に響く。
 どちらかと言えば夜行性質の強そうな(と独断で決めつけるのも大概礼を逸し
た行為だが)白鳳はまだ寝入ってはいないかもしれないが、小隊を率いる自分が
これでは、隊の示しがつかない。部下の誰ぞに見咎められないうちに、用をすま
せてしまうのが賢明というものだった。

 ギシリと床を軋ませて、目的の部屋の前に立つ。相手が既に眠りについてい
るかもしれないという可能性に、入室を求めるノックの手が、束の間及び腰になっ
た。
 既に寝入ってしまったかもしれない相手をわざわざ叩き起こすことを考えれば、
黙って品物だけを残していくほうが余程角の立たないやりようだった。仮に部屋
の主が起きていて、そしてここで声をかけなかったことで明日の朝再び顔を合わ
せることなく別れ別れになってしまったとしても、柵を嫌う彼が自分を不躾だと責
めることはないだろう。ことこの手の機微に関して、自らがいえる立場にないこと
を、他ならぬ彼自身が誰よりも自覚しているであろうから。

 それでも敢えて二の足を踏んでしまうのは―――きっと、自分の中に巣食った
ある種の未練が要因だった。
 旅から旅の浮き草のような暮しを続ける白鳳と、自分の座標が交わることなど
本当に稀なことだ。今回のような偶然などそうそう起こるはずもないし、そもそも
容易には起り得ないからこその「奇遇」なのである。このまま別れた自分達がこ
の先再び同じ基軸で向き合える保証など、何一つありはしないのだ。
 一度は他人という括りに一まとめにされた矩を超えて触れ合ったこともある存
在であればこそ、その動向を完全な他人事とは思えない。一度限り一夜限りと
嘯いて見せたところで、感情がある以上判で押したように割りきり切り捨てるこ
とはできなかった。

 これは自分の中の意固地のような執着だから、おなじこだわりを相手から受け
ようとは思わない。だが、それでも尾を引く思いは、如何ともしがたくて―――

 ……やめた。
 一つ頭を振って、気持ちを切り替える。今は自分の腹の底と向きあうよりも
先に、優先させなければならないことがあった。
 無人の廊下でどれくらいの時間堂々巡りをしていたのだろうと自分の姿を振
り帰ると、俄かに面映くなってくる。踏ん切りをつけるように敢えて気安い仕草
で、セレストは手を持ち上げた。

 一度扉を叩いてみてすぐに返事があるようなら相手の顔を見て手渡す。反
応がなければこれをそのまま取っ手に残して部屋に戻る。部屋の主から深夜
の訪問を咎められたなら、不躾を詫びて一言用件を告げればいい。何一つ、
不審におもわれる点はないはずだった。 だが…


 「…っ」
 次の刹那……木製の扉が前触れもなく内側に引き開けられた動きに、まさ
に眼前のそれを叩き誰何の問答の呼び水にしようとしていたセレストは、たま
らず踏み出しかけていた一歩の距離を立て直しきれずに蹈鞴を踏んだ。

 均衡を崩した自重にそれ以上引きずられることなく、踏み出した一歩で自ら
を押し留めるにすませたのは、さすがは日常的に鍛錬を繰り返している職業
騎士ならではだろうか。それでも、眼前で瞬時に繰り広げられた光景の異常
さに、続く仕掛けへの自衛が一呼吸ほど遅れた。
 時を同じくして、総身に出し抜けの衝動が走る。

 やけに存在感のある、酷く生々しい重量を感じさせる「もの」……それが職
種柄対処に慣れた外敵―――人身の持つ、感触であり重さであるのだと気
づいた時には、既にセレストの喉元には抜き身の切っ先が突きつけられてい
た。

 「…っ」
 手練の騎士として、研鑚を繰り返してきた身を以ってしても、咄嗟にかわす
事のできなかった技の切れ。上役である団長の父や近衛隊長を前にもおいそ
れとは引けを取らない自分を相手にこんな真似ができる相手を、セレストは自
分の知己の中で一人しか知らなかった。
 確信にも似た思いが、まさかの衝動を相殺する。自分に対してこれができる
ということが、その正体を物語るなによりの証拠だった。

 「白……」
 出方を待っていたのは、相手も御同様だったのだろう。喉奥を震わせただけ
の僅かな呼び声と同時に、仕掛けられていた負荷がすっと引いた。
 わずか触れ合った体の一部から、それでも相手の鼓動が伝わってくる。け
して緩やかではないその速さが、互いの正体を知りうる以前の青年の動揺を
セレストに教えていた。

 無言で向き合っていたのは、果たしてどれほどの間であったのか。
 「……ああ。貴方ですか」
 悪びれるでもない声で、先に静寂を破ったのは白鳳の ほうだった。染め粉が
多少は抜けたのか、わずか色素の斑になった髪を掻き揚げながら、軽く息をつ
く。

 「お膝元に飛び込むような真似をして言えたことではありませんけれど。気配
  を殺して扉の前に立つのはやめてください。ひどく攻撃的な気分になる」
 ここは、非礼を承知で相手を伺うような真似をした自分のほうが詫びるべきな
のだろうか。だが、知己である前に一組織の代表として隊を預かるものとして、
セレストもまた、この遭遇をなあなあで終わらせる訳にはいかなかった。
  「…それなら、どうしてこんな所までやってきたんで すか?わざわざ、一番気
  の休まらない場所にもぐりこんでくることはなかったでしょう」
  「おや。貴方に会いたかったからだとは、考えない?」

 これだけは偽装を外したのか、記憶に残るままの、緋の色をした相貌が悪戯気
に笑いかけてくる。それでも、相手の気性を知るだけに、素直に頷く気にはなれな
かった。

果たして、白鳳はあっさりと前言を引き下げる。
 「相変わらず、ノリにかける人ですね。…宿を探して難儀していたというのは本当
  ですよ。この雨続きでしょう。私だけなら野宿でもいいが、スイが調子を崩してし
  まいましてね。一度、屋根のあるところで休ませたほうがいいと思いまして」
  「スイ君が?大丈夫なんですか?」
  「ええまあ。疲れが出ただけで、たいしたことはありません」

  言って、白鳳は再び笑った。一瞬は、その染めた髪の色が影を落として見えるか
らかとも考えたが、やはり改めて見やると、その顔色はくすんで見える。その容色
を不躾にならない程度に観察し…疲れているのは白鳳のほうなのではないかと、
セレストは思った。
  あの別れの日から今日まで、彼ら兄弟がどんな旅路をたどってきたのかはわか
らない。それでも、身を切るような彼の戦い方を一度は目の当たりにしただけに、
それが安穏としたものであるとは、どうしても思えなかった。
  疲れもするだろう。彼にとって、仮想敵まで数に入れれば、この世界は鬼千匹だ。
誰にも心を開けない世界なら、息ばかりが詰まるのも仕方がない。人である以上、
その心身には限界があるのだから。
  彼に理解の手を差し出せる人間は、この世の中にもきっといて。だけれども、凝
り固めた鎧で自らを守る彼にとって、一度は互いの深い部分までさらけ出しあった
自分が「幾分まし」な存在程度に認識されていることもまた、解ってしまうから…自
分を頼っていいとも、もっと心を開いてみろとも、セレストには口にすることができな
かった。

  そんな腹の底が伝わったのか、白鳳はすみませんと笑って見せた。
  「ご迷惑ついでにすみませんが…明日の朝早く、ここを発ちます。後の収集を、
  お願いしてもいいですか」

 挨拶もなしに居候が消えれば、それはスパイ行為を黙認するも同じことだから。
衆目の前では他人の顔をしていたとはいえ、そういった存在を一時であれ受け入
れた責任者が、知らぬ存ぜぬでは済まされない。それならばもう数刻身分を詐称
して、堂々と出て行けばいいのにとは思うがそこは訳ありな青年のことだ。色々と、
含むところがあるのだろう。
 尻拭いの手間を承知で、それでも頼むと言い切られれば、それが彼流の甘え方
であり信頼の形だと解るだけに、無下にはできなかった。
  この宿に間借りが決まったときの、彼の暢気な顔を思い出す。あの鷹揚な風貌
の下で、ほんの数刻の寝床が必要なほど彼は切迫していたのかと思うと、どうに
もやりきれなかった。
  それでも、それが彼の思い定めた道行きである以上、いつでも同じ機軸を歩め
るわけでもない自分が、無理やりにその軌跡を捻じ曲げることはできなくて。

 「白鳳さん」
  だから……返事代わりに頷いて、セレストにはせめてもう一言、付け加えること
しかできなかった。
 
 「宿を出るときは、勝手口脇の出入り口を。町を出る時は、北口を出れば人目に
  つきません。…あと、その髪の色ですが、この国を抜けるまでは黒よりも褐色
  のほうがいい。それで大分、人目を避けられます」

  体を厭えともいえない間柄だから、せめてこれだけを。そんな埒もないことしか口
にできない自分がひどくもどかしいと思ったが、相手もまたそれ以上を自分に望ん
でいないことを解ってしまうから、それ以上をセレストは続けなかった。
  緋色の相貌が、束の間もの問いたげに見開れる。
 ややしてその虹彩は、はいという応えと共に満足げに和んだ。 それまで腹の底
でどこかわだかまっていた鬱積が、その姿で綺麗にぬぐわれてしまったような心地
になったから…結局、それ以上を追求することなくセレストは白鳳を開放した。


  そのまま、朝を待つことなく、一人と一人は再び別れることとなる。
  自分目当てに接触を仕掛けたのだと嘯いた白鳳が、次の刹那には冗談だと前言
を覆した。その辺りから鬱積は始まっていたのだが、それが何故なのかも、またどん
な言葉が返ってくれば鬱屈が収まったのかも、このとき、まだセレストには言及する
ことができなかった。





 お気に召しましたらこちらを一押ししてやってください。創作の励みになります




  ずっとPCに眠っていた過去の産物です(汗 時期的には、2年近く以前になるかと(汗
  ページ制限の中で作った話で、原稿サイズになおすとA4(内寸B5)サイズの原稿
  用紙10枚分になります。削っても削っても収まらなくて、行間ギチギチに詰め込ん
  だ記憶が(笑  王Lvキャラで一つの話を作ろうと思ったら、自分の稚拙なキャパで
  は最低15ページは必要だなと思い知らされた話でした(大汗 
  話の前提としては、Lv1本作終了直後辺りだと思っていただければ。セレ白ルート
  経由のセレ白前提話ですが、まだCP成立未満といった関係です。黒い頭の白鳳さ
  んが書きたかった…らしい(笑
  当時、とある企画に参加させていただくはずだった作品ですが…もう解禁かな?と
  思いアップしてみました(おい  可否の確認不可能なため、とりあえずは期間限
  定ということで(汗  もし不都合が出てきた場合にはその旨明記の上web上から
  下ろしますので、なにとぞ御目こぼしの程を…(汗    

   たとえどんなに拙い話でも、やっぱり一度は日の目を見せたいのですよ(汗 

    王子さまLv1 SS置き場