どこかで、水のはねる音が断続的に石床を叩いてる。
耳朶を打つ、さほどこの場から離れてはいないであろうその水音を、うつらうつらと沈みかける
意識の片隅で聞くとはなしに聞いていた青年は、そこにそれまでとは別種の物音がかすかに混
じり始めたことに気づき、ぼんやりと目を開けた。
石床を規則正しく叩く硬質なそれが、人の足音であることは耳をそばだてるまでもなく察しが
ついた。コツコツと確実に近づいてくる足音の主の目的が自分であることも、周囲に巡らされた
無人の石牢を見やれば容易に予測できる。
果たして、数分と間を置くことなく、足音は眼前の格子の前で止まった。
互いの体勢差から、自然と足元から見上げる形となった訪問者の面差しは、青年の良く知る
人物の持つそれで。しかし押し黙ったままこちらを見下ろしてくるその風貌は、見知った「彼」の
雰囲気とはかけ離れたものだった。
共に一言も発することなく、格子を挟んで向かい合ったまま重苦しい沈黙が周囲の空気に浸
透する。
石床に跳ね返っては反響する水音を、そうしてどれほどの時間聞いていたのだろうか。
先に静寂を破ったのは、牢内に拘束された青年のほうだった。
「―――助けてください」
わずか掠れた青年の呼びかけに、格子の前に佇む来訪者の眉間がピクリとゆがむ。
「助けてください。私は、ここで拘留されるわけにはいかないんです」
痛切な声音で繰り返す青年は、傍目にも解るほどに大層端正な造作をしていた。さながら白
磁を思わせる、透けるような肌にはえもいわれぬ艶があり、緋の色を頂いた両の虹彩とあい
まって、見るものの目に白子めいた印象を与えている。そんな容色を持つ青年が、その柳眉
を潜めた悲壮な表情で懇願するさまは、見るものの目に婀娜めいた思いを抱かせるに十分な
ものであったが……しかし、来訪者はほだされた様子もなく、その場に黙然と立ちはだかるば
かりだった。
相手の沈黙を拒絶と受け取った青年が、焦れたように身を乗り出すと両の手で牢内から格
子を掴む。
そして……
「助けてください!私が戻れなくなったら、家族の身の安全が……家には、十五を頭に一人
の弟と常勤十人の従者がアイテッ」
刹那―――切々と嘆願を続ける青年のどこか棒読みな悲鳴と、小気味いい打蹲の音が、
同時に牢内の静寂を打ち破った。
そして、人為的なものを思わせる不自然さで、再び静まり返る牢内。
「……それで?納得のいく説明は、してもらえるんでしょうね?白鳳さん」
「………ひどいセレスト。投獄されたヒロイン。格子を挟んで敵味方に分かれた恋人達の
再会…といったら、これがお約束の展開じゃないですか」
いまだ発散しきれない悋気をくすぶらせながら、それでも口調だけは丁寧に、セレストと呼
ばれた青年は事の次第を追求する。対して、格子の隙間から容赦なく張られた頭頂部を撫
でさすりながら恨めしそうな顔をする囚人――白鳳は、まったく悪びれた様子もなかった。
尾をひかんばかりに、来訪者の盛大な嘆息が落ちる。
「白鳳さん……あなたね、自分の罪状を正しく把握してるんですか?」
「はあ…まあそれなりには」
反省のかけらも見当たらないような気の抜けた応えに、セレストは再び深く嘆息した。や
はり拳で殴っておけばよかったとしみじみ後悔しながら、それでもここで相手に乗せられた
ら終わりだと自らに言い聞かせ、憤然と囚人に向き直る。
「…あなたの事情は私もカナン様も承知しています。要因の一旦はこちらにもありますか
らね。ですからこの国にいる間、あなたが「それなりの」ことに及ぶまでは不干渉を貫こ
うと、我々も腹をくくっていた訳ですよ?それがどうして、入国早々こんなところに引っ張
られてきてるんですかあなたは。
……それも、よりにもよって……」
「「風俗営業法違反」?」
「解ってるならそこでしゃあしゃあと構えてないでください!」
怒髪天を突く、とばかりに牢内に轟いた怒号は、しかしその覇気を維持できず尻下がり
の嘆息へと取って代わる。あいも変わらず暢気に構えたままの青年を前に、セレストはガ
クリと床に膝をついた。
とにかくここにいたるまでの経緯を説明しろと、脱力する自らを叱咤しつつ、地を這うような
不景気な声音で先を促す。
反して、いたって平静な語調を崩さない囚人がつらつらと語ったところによれば―――要
約するに、事情というのはこういうことだった。
今日も今日とて、ルーキウスの南に位置する隣国の穀倉地帯を通過がてら、生業のハン
ター業に精を出していた白鳳青年。とあるレア男の子モンスター捕獲のためにしかけた罠
のポイントを連日もう少し、もう少しと移動させていたところ、いつの間にか(このあたりにか
なり白々とした響きをセレストは感じたのだが、敢えて追求は避けることにした)ルーキウス
との国境付近まで北上していたという。日が落ちる時分でもあり、どうせなら見知った土地
で休眠しようと彼は軽い気持ちで国境を越えた。
さて。農業国として対外に知られ、その長閑さ故にお勧めお昼寝スポットにまでノミネート
されてしまう程の暢気な国風ではあるが、人が生活を営む土地である以上、ルーキウスに
も様々な「裏の顔」が存在する。白鳳が越境して一夜の宿を求めたのも、そういった裏社会
の一つ―――有体に言う、歓楽街だった。
国土の面積と気風に比例して、それはひどく小規模な施設群ではあったけれど……宵を
迎えたその「街」は、まずまずの賑わいを見せていたという。元来その手の胡乱気な空気に
抵抗のない白鳳は、しかし体の疲れもあって純粋に「眠る」為の宿を必要としていた。
手近なところで、所謂連れ込み宿の役割を果たしている酒場併営の宿にでも止まって体
を休めようかと考えていたところで―――迷える子羊に、神託は下された。(白鳳氏の供述
より一部引用)
何のことはない。つまり、そこで彼は見つけたわけだ。彼の体内に寄生する「悪い虫」を刺
激するに足る、規定値以上の存在(性別限定)を。
白鳳の好き心をくすぐった件のお相手は、中背の総身に黒灰色のスーツの上下をまとった、
知的な雰囲気のロマンスグレーであったらしい。「包容力のありそうな素敵なおじ様v」とは
その人物の特徴を説明した際の白鳳の談だが…その夢心地の声音よりも何よりも、どう聞
いても壮年の域を出ようかという世代であろうその相手の風体に、彼の守備範囲の予測を
超える広さを突きつけられたことにこそ、セレストは密かに衝撃を覚えていた。
ともあれ、人の縁とは一期一会だ。疲弊に体が多少の悲鳴を上げようが、勝負をかける
には少しばかり身なりがくたびれていようが、そんなものは大した障害にはならない。
この際「夜のお付き合い」方面はともかく、この自分的眼福とも言うべき初老の紳士と
お近づきがてらのんびりと食事などを楽しめたら、荒みがちな旅の合間のどれほどの潤い
になるだろう……と、表向きの動機を結論付け、勿論下心もそれなりに、自分好みの「お
じ様」をゲットするべく、白鳳は意気揚々と実力行使を試みた。
相手は初老と呼ばれる世代に片足を踏み入れようかという年恰好であったから、下手に
小細工を弄するよりもむしろ古典的な手口のほうが効果は高い。そう判断した仕掛け人は、
スーツ姿から地元民か、あるいは商用でこの界隈に出入りしているお馴染みであろうと当
たりをつけた老紳士の背に、装った困惑顔で声を掛けた。
基本的に、社名を背負う機会の多いビジネスマン…有体にサラリーマンと呼ばれる人種の
殆どは、体裁という物に弱いのが常であった。人目を意識する日常になれきった彼らは例え
職場を離れ終業時刻を向かえた後であっても、いつ仕事上の利害が発生するかわからない
という強迫観念から、余程のことがない限り、彼らにとっての「他人」を無碍には扱わない。
その人物がいつどこで、自分の社会的な立場に影響を及ぼすことになるとも知れないからだ。
ましてや、自らの職籍が容易く割れかねない地元や勤務地、出張地近辺などでは、彼らの
抱くそういった観念はますます強くなる。
これらの要素から、自分が目をつけた標的の捕獲成功率をそれなりの高さに見積もった白
鳳は、振り向いた老紳士に向かい心許なげな―それでいてどこか嫣然としたものを思わせる―
容色で以って、さらに一歩を踏み出した。
ひと時の長閑な夕べ。久方ぶりに縁者や従者以外の、ほどよく後腐れのない程度に距離
の開いた一見という存在と、他愛もない世間話などを交わしながら頂く夕餉。うまくしたなら
振る舞い飯。更に欲を言うなら、団欒後に大人向けのおまけつき―――
モラルの定義について言及されれば「ああ、軽く湯掻いてからタレを絡めて白胡麻で和え
ると美味しいですよね。私も大好きです」とでもにこやかに返しそうな自称モラリストは、とき
めきの予感に胸弾ませながら、適当な場所を上げてそこまでの道を尋ねるという、大変古典
的な手段で老紳士へのアプローチを開始した。
古典こそ王道。古典こそが常道。先人の残した知恵は、いつの世でもどのような社会でも、
かように偉大なものなのである。ああ神様、素晴らしい御教えと、日々の糧をありがとう―――
警戒するでもなく、肩を並べて広げた地図を覗き込んだ紳士の親切顔を盗み見ながら、思
案顔の口元にさりげなく添えた手の下で、わが意を得たりとほくそえむ。このとき、白鳳は自ら
の完全勝利を確信し、腹の底で快哉を叫んでいた。
だが。強きを挫き弱きを助く天の神様は、意外なところでよく見える目と適所に思し召す慈悲
とを持った、実に公明正大な存在であった。偉大なる先人の遺産である格言を借りるなら、それ
を因果応報という。
そこならよく知っている場所だから、案内がてらご一緒しよう、と持ちかけた老紳士の人の良い
笑顔を前に、ありがとうございますとこちらも笑顔で頭を下げる。並んできびすを返し、二人は目的
地(偽称)への抜け道という名目で、猥雑な活気に溢れた花街へと入っていった。
急ぐ用ではありませんからとさりげなく水を向ければ、それではのんびりといこうか、秋の夜長を
言葉遊びで楽しむのも悪くない、と穏やかな応えが返ってくる。…これだ。この鷹揚さはそんじょ
そこいらのあんちゃん世代ではどうしてどうして、自然に滲ませられるものではない。重ねた齢に
応じた人間味の深さが、えもいわれぬ魅力となって自分の興味を掻き立てるのだ。しかも相手
は、いかにも郷里?に愛する妻と娘(だか息子だか)がまっていそうなバリバリのノン気。後腐れ
のない一夜のお相手として、実に申し分ないではないか。
場所は花街のど真ん中。いたるところに、おあつらえ向きの酒場兼連れ込み宿が林立している。
この紳士の品格を考慮して宿のランクを絞るにしても、これはもう仕掛け時だと言われたも同然だ。
胸躍る官能の一夜に飛び込むべく、白鳳は自らにエールを送る。そのままさり気ない仕草で隣を
歩く相手の腕を取ろうと手をのばし―――かけて、しかし仕掛け人の動きは止まった。自身の仕掛
けるそれよりも先に、逆側の肩の上に、年相応に節くれ立った手のひらが置かれたのだ。
老紳士の年恰好とその体裁を考えれば、初対面の相手と肩を組んで往来を歩くことなど、まず
ありえない。泥酔している状態で、女性を相手にそんな不埒に走ることがないとは言えないだろう
が、少なくとも同性の、しかも息子ほどに年代の離れている相手であれば、なおのことだ。
確定するまでは無碍にするのももったいないと、小市民根性で肩に置かれた疑惑の手はその
ままに、よもやの思いで眉宇を寄せる。
胸を張れた趣味ではないからこそ、「眷属」の発するサインには敏感だった。傍目にはおおらか
な気風の紳士が若年者に対して示した、多少気の早い親愛表現ととれなくもないが、長年独自
の界隈の水に馴染んだ白鳳の鼻は誤魔化せない。
因果と笑われようが、ないものねだりと謗られようが、こればかりは根付いた性癖であるから今
更改めようがない。手近な獲物で満足できないなら素直に諦めろと外野は言い捨てるだろうが、
それこそ論外というものだ。
ともあれ、宗旨替えできない以上、無駄な粉をかけたところで仕方がない。だからといってこれ
があくまでも疑惑の域を出ないまま終わるなら、据え膳を逃すなどこの身の沽券にかかわること
だ。
さて、ではこの状況をどうしたものか―――傍から見れば実に馬鹿ばかしいことこの上ない命
題を前に、白鳳はついつい長考に陥りかけた。そして……
そんな仕掛け人の困惑に収拾をつけたのは…否。止めを刺したのは、やはり疑惑の発端となっ
た老紳士の一言だった。
「……見かけない顔だ。どこの派の子だね?」
「…はい?」
「それとも君は―――どこかの店の、新顔なのかな」
―――
to be continued……