王道楽土・7


 眼前で、一体何事が起こったのかを……光景の一部始終を目にしていながら、
白鳳にはにわかに理解する事ができなかった。


 人出も絶えて久しい、ホーディックの坑道。昼でも明かりの射さない、岩肌が剥
き出しとなったその空間は、ひどくこもった湿気に支配され、なんとも息苦しい心地
がした。
 その閉塞された空気が、掲げた明かりの先でゆらりと揺らぐ。
 同道した弟に注意を奪われ……また、火種を以って灯りとしていたために、その
炎の揺らめきと見間違えて、そちらに注意を払うのが一瞬遅れた。

 その刹那……
 白鳳の眼前で……大気が、爆ぜた。

 「スイ!」
 咄嗟に意識が向けられたのは、やはり背後に寄り添うように立っていた小さな弟
の安否で。何かを思うよりも先に、背後にひねった体にその身を抱きこむ様にして地
面を蹴った。
 岩肌が剥き出しになった足場の上を、勢いを殺せずに滑ったことで、ところどころ
衣類が裂け、露出した箇所から肌が血を滲ませる。身を翻し無防備にならざるを得
なかった背中の上から、かなりの量と大きさの石くれが 雨の様に降り注いだ。

 「兄さん…っ」
 腕の中で弾かれたように弟が自分の名を呼んだのが解かったが、応えている余
裕はなかった。岩肌の残骸に打ちすえられた背を痛いと感じる間もなく、弟の体を
抱き起こしながらぎっと周囲をねめつける。
 これは、例えば坑掘に用いた爆発物の残存不発弾が暴発したであるとか、そん
な偶発事故ではなかった。そもそも、それほど管理がおざなりな作業を行っていた
場所であれば、管轄の指導なりが入って完全な撤去作業が行われたであろうし、
こんな風に封鎖もせずに放置されているはずがない。
 それに……爆発の瞬間、確かに感じた、大気の揺らめき……

 ――――「何か」が、いるのだ。

 正体の見えない相手を仮想敵と想定してその出方に備えるのは、それがあらか
じめ予定された訓練であっても神経を消耗する。常に自分以外の存在も保身対象
に数えるなら、その度合はなおのこと激しくなった。
 やはり、完全な身の安全など保証されるはずもない場所に弟を連れてくるので
はなかったと、内心で臍を噛む。
  それでも今は己の迂闊さを呪うよりも先に、とにかくこの場から無事に脱しなけ
ればならなかった。

 ……どこにいる…?
 呼吸の際に生じる僅かな音差さえも癇に障り、息をつめる様にして神経を尖らせ
る。
 手にした灯りが大気を揺らがせる、かすかな音が。油が燃える、その特有の匂
いが。張り詰めた意識には、それさえも耳障りだ。
 傍目には、超常現象を目の当たりにした恐怖に凍りついているかのような態で、
白鳳はひたすらに「相手」の出方を待ち構えた。

 息詰るような静寂の中、一分がすぎ、二分がすぎ…
 そして……

 「…っ」
 そして……その終わりは、始まったときと同じように唐突に訪れた。

 ゆらりゆらりと、無人の空間で大気が揺れる。
 それは、ややして一つところに集まると、明確な輪郭を形どり始めた。
 後手に回るざるを得ず、その一部始終を見守るしかなかった白鳳が、再び呼気を
飲む。
 目の前に現れた存在に、虹彩の緋が衝動でこれ以上ないほどに見開かれた。

 そこには―――背に一枚の羽を戴いた、一体の「人外」の姿があった。






 「…ちょ…っ……ちょっと待ってください」
 長い独白が始まって、どれほどの時間が過ぎていたのだろうか。
 話の途中でそれを遮る不躾を承知の上で、セレストは語り部が息をついた一瞬
に割り込んで、その追憶から現実へと白鳳を呼び戻した。

 一枚の羽を持った人外というのは、あの冒険者ギルドの男が語っていた八翼の
一つ…つまりは、彼らと同じ一翼ということだろうか。もしもそれが事実であり、そ
の一翼との間に当時から確執が根づいていたのだとしたら…あのクーデター騒ぎ
の一件で、白鳳があれほどまでにあっさりと自分の前で返し手を見せつけたのも
得心がいくような気がした。
 ――― 一度でも彼ら「八翼」を目の当たりにしたことがあるのなら……人の身
に過ぎない自らと彼らとのあまりの差異に、二の足を踏むのも道理であると思う。

 聞きたい事は、他にもあった。
 スイを…白鳳にとってはただ一人残された身内であるあの小さな存在を、その
姿に変じた「呪」というのは、その一翼によってもたらされたものであったのか。
 地質調査が目的ではなかったという、件の依頼者は、その坑道跡で起こりうる
それらの一件を見越した上で、白鳳をその場に出向かせたのか。だとすれば、近
しい間柄であったというその男が、むざと彼を出向かせたその狙いはなんだった
のか。
 人の身の…それも単身出向いたに等しい、そんな不利な状況下で……まがり
なりにも命だけは存えて、どうやって彼は坑道を脱したのか。
 白鳳の独白を聞き進めば、それらはいずれ明白になるはずの疑念だった。それ
ならば口を差し挟むことなく彼が語り終わるのを待つべきであったのに…セレスト
には、どうしてもそれができなかった。

 それよりも…今一番、自分が彼にぶつけたかった疑問は……

 「……マスター…ゼノバ…?」

 今確かに、彼は、その名を口にした。
 話の流れから考えて、白鳳が何らかの形で報復を望む相手は、その男に間違
いない。それが為に、あれほどの暗躍を、彼は繰り返してきたのだ。
 だが……

 「……今…そう言いましたよね…まさか…」
 だが…それはあまりにも、相手が悪い。

 ―――マスター・ゼノバ。ゼノバ・モス。
 自らの生まれ育った街で、その名を知らぬものとていなかったと、白鳳は語っ
ていた。
 それはそうだろう。そのはずだ。
 何故ならその名は、同郷であったという、彼の郷里どころか……
 「まさか白鳳さん……五年位前、大陸全土に名前が知れ渡った……ルーキウス
  公認の、第一権威を持つあの……」

 ―――――ゆくゆくは、この国の王位に就けていただけるそうで……

 出し抜けに、あの騒動の最中白鳳が挑戦的に語った言葉が脳裏を過る。

 ……・そうだったのか…
 続く言葉が、喉奥で張り付いたように出てこない。それでもどうにか声を絞り出そ
うとニ、三度口を開きかけ……徒労に終わった自身に苛立ったかのように、セレスト
は持ち上げた手でその額にかかる頭髪をかきあげた。
 ……そういう、ことか……

 確かに…そこまで先を見越していたのなら、もう彼はあの一翼からちらつかされた
餌の全てに飛びついて見せるしかなかっただろう。挙句焦って自滅したともとられか
ねない彼の行動を、裏事情を知るものならば誰一人責める事はできないと、セレスト
は歯噛みするような思いで自らに言い聞かせた。

 マスター・ゼノバ。ゼノバ・モス。
 その名が一躍世間に轟くようになったのは、彼がとある偉業を成し遂げたとされる
五年程以前の事。それは、白鳳を襲った件の悲劇と、時期的にもあまりにも符号が
一致している。
 つまり、それは……

 言葉をなくしたまま自失しかける自らを叱咤するかのように、大きく首を振りながら
虚空を仰ぐ。
 時を同じくして…やりきれないといわんばかりに、室内に重い嘆息が落ちた。
 眼前の青年に…かける言葉が、見つからなかった。


 マスター・ゼノバ。それは・・…
 ルーキウスが認めた第一権威を有する生態学の大家であり…その存在意義故に、
国宝クラスの保護を王家から受ける―――言い換えれば、王家の諾意なしには手出
しの許されない、それでいながら人外相手に違法すれすれの生態実験を繰り返す、
紙一重とも囁かれてきた男の名前だった。


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