他に聞く者とて存在しない休憩室の一角は、固唾を飲みこむ音さえ辺りの空気を
震わせるほどの静寂に包まれていた。
咳音も憚られるような閑散とした空気を、まるで先にこわすまいとでもするかのよ
うに、セレストが息をつめるようにして押し黙る。
そのよすがに―――発端を作り出した、急ごしらえの非公認巡検士が吐き出す
呼気と共に薄く笑った。
「……セレスト、私はね…貴方が思うほど、ご立派な分別を弁えている人間じゃな
いんです」
「……白鳳さん…」
「この国の庇護を名分と隠れ蓑にできる以上、それに見合った責務と実績を求め
られるのは当然の事です。そういった「型」に、敢えて私を当てはめようとする貴
方と、坊ちゃんの御厚意の意味はわかっているつもりです」
枷があるという事は、その重さと同等の擁護を得たのと同じことだから。
他に身のよせ場を持つでもなく、淀んだ裏社会を浮き草のように渡っていく自分に
対し、彼ら主従がその持ちうる権限を最大限に行使して作り出してくれた、唯一絶対
の免罪符。後ろ盾の一つも持たずにこれまでを生きてきた自分と弟にとって、それは
これ以上ないお守りとなった。
公儀を盾に、自己責任下での行動の自由を保障された自分の後生は、ルーキウス
王家及び第二王子のカナンが健在である限り、その名の下に安泰だ。
―――名分を違えることなく、実直に生きている限りは。
だが……
「弟が、私の巻き添えとなって歪められてしまった人生をあるべき形へと戻す事…
昔も今も、それ以上の望み は私にはありません。だから、それさえ損なわれな
いならどのようにでも、私は生きていける―――そう、思っていました。……です
が……」
あの小さな、自分一人を頼みに生きる唯一の血族の存在以上に、この心身を縛る
ものはない。幾度となく悪夢に苛まれたあの呪わしい日、血を吐くようにして胸襟に刻
みつけた、他の全てを擲つ覚悟に比べたら、自らが後生に残す足跡の変化の多少な
ど、どれほどの意味があるというのだろう。
目指す終着点さえ見失わなければ、そこに至る経緯など何通りでもたどる事ができ
る。各々の道行きに設けられた分岐さえ誤らなければいいのだと、ただそれだけを、
自分は気に留めておけばいいはずだった。
―――だが…それでも……
『報復を…狙っているのではないんですか』
今の自分にこの行き様を与えた一人である目の前の青年が、かつて自分に向かっ
て言い放った言葉が耳朶によみがえる。
五年の昔から、常に自分と共にあったそんな後ろ暗い情動を知りながら、それでも
とこの男は彼の存在する世界に自分を誘った。自らの望みに固執する自分を知りなが
ら、それでもと、自分もその差し出し手を取って…
だが…ようやくなりを収めたかに見えていた憤激の記憶は、消沈したわけでも、眠っ
ていたわけでもなかった。
マスター・ゼノバ―――再び、自分と生きる世界が繋り始めた因縁の相手の名が…
この胸襟を無理矢理に荒ぶらせる。
自分の世界が、情動が……最も荒んでいたあの当時へと、還っていく……
「……セレスト。今日明日にでも、坊ちゃんに時間を割いてもらえるよう取り計らって
頂けませんか。そして、できれば貴方にも。……早急に、私の巡検士としての任と
権限を返上させていただきたいのです」
―――カナン・ルーキウスの御名に、いらない傷をつけてしまう前に…
続けられた言葉の意味するものを推し量っているかのように、わずか衝動の伺える
容色のまま、セレストは言葉もなく嘆願者を凝視している。そのよすがに、後押しする
ように白鳳は再び口を開いた。
「……お願いいたします。アーヴィング近衛副隊長殿」
「………白鳳さん…」
それはこの二月の間、巡検士とその管理者として、公に向き会う時にのみ用いられ
てきた呼称だった。
白鳳が巡検士として非公式に用られた折り、その身元を引き受けた第二王子は、
冗談めかした語調で彼に公私の別を弁えるよう通告していた。
それは彼が揶揄交じりの接触を繰り返すセレストに対し、公の一線を引けという事
で、以来公務を離れた場でも、時折戯れのように白鳳はそんな呼称を用いている。
自身の職務に何よりも誇りを抱いているセレストは、しかし一度心を砕いた「身内」
から、そんな尊称めいた呼ばわりをされる事がひどく面映いと感じるようだった。そうと
知っているからこその、それは他愛もない言葉遊びのようなもので。
だが…
「……白鳳さん…」
語勢から、それが相手の本意と悟った青年の返す言葉が、わずかその硬さを増す。
「―――白鳳さん。建前上はともあれ、叙任解任は最終的には当人の自由意思で
す。この国の騎士団は、上官を通じての王家への申し立てを認めていますから、
私がカナン王子に上訴すれば貴方はこの国との柵から解放されます。もともとが、
王子にも発端の一因があるわけですから、貴方が望むなら否とは仰られないと思
いますし……」
ただ―――言って、セレストはその深い海の色を湛える両の虹彩をすっと眇めた。
「…ただ……それは、理由の如何を問います。一端は
王家を俸する近衛の世界
に籍を置いた存在を、守秘すべき事柄の多くを抱えたまま簡単に還俗させる事は
できませんから。…貴方は、望んで近衛に籍をおかれたわけではありませんから
また事情は異なりますが…それでも、上訴を受ける以上は然るべき理由が必要
ですよ」
そこまで口にすると、青年はそれまで意図して作っていた間接的な上官としての顔
をつと改めた。
「…何故ですか、白鳳さん。王家の保護が、貴方の何にそこまで負担になっている
んです」
けして自分で自分を見放さないと誓った。何を晒しても自分が自分である事は変わ
らず、また損なわれるものなどないのだから、どのような道行きを進もうとも自身を否
定しないと誓った。そして、王室を巻き込んだクーデターの一件が完全に収束に向か
い始めた頃、黒幕の一人であった白鳳はそう誓約して王家への協力に同意したのだ。
あれは、いまからほんの二ヶ月前のことだ。…それが、今になって何故―――
かちあった視線を先に相手からそらしたのは、白鳳の方が先だった。
「………約束を…」
「白鳳さん?」
「…約束を、守れなくなってしまったからです」
言って、白鳳は再びその緋に彩られた双眸を眼前の管理人へとひたすえる。
暗い情動を感じさせる、どこか澱んだものを湛えたような虹彩にはしかし、少しも怯
えの色は浮かんでいなかった。
そして……
「―――セレスト。あなたと、そして王子殿下に…私が、裏切りを犯してしまうからです」
息詰るような沈黙の中で、互いに言葉を失っていたのは果たしてどのくらいの時間
だったのか。
どこか間延びしたように感じられていたこの密室の時間を現実の速度へと戻したの
は、休憩室前の廊下を通り過ぎていった、急ぎ足と思しき数人分の足音だった。
咄嗟に身構え、入室者があるかと無意識に呼気を殺す。
数瞬そうして待ち、足音の
全てが遠ざかって行くのを耳で確認して、どちらからともなく嘆息が漏れた。
そんな、示し合わせたかのような仕草に、再び互いの意識が互いの眼前に控える存
在へと向けられる。
今度は、セレストが膠着を打開する先手をとった。
「……裏切る?」
喉の渇きを感じたのか、恐らくは意図したものではなく呼気を飲みこみながら、鸚鵡
返しに同じ言葉を繰り返す。
「…俺と、カナン様を裏切るというのは―――どういうことですか?」
それは、あの裏世界に面した場所で繰り広げられた愁嘆場の全てを見聞した自分達
にとっては、特別な意味を持つ言葉であったから…その部位に強く反応したセレストに
向かい、敢えてそのように仕向けた白鳳は言葉もなく頷いて見せた。
どうしてと再び問うかつての断罪人のよすがに、どこか自嘲じみた色合いに歪められ
た容色が薄く笑う。
「……セレスト。貴方は以前、こういいましたよね。スイにかけられた呪いを解いて、
そしてその要因となった存在の全てに報復して……その後、望みを果たした私は
どうなってしまうのか、と。これではまるで、私のその後の人生が初めから存在しな
いみたいだ、と」
その諍いにも似たやりとりの際に容赦なく張られた頬の痛みまでよみがえってくるよ
うで……そんな自身の脆弱な感傷に、意図した笑みの口許が、わずか引きつったよう
な心地がした。
「あのとき、貴方は私のそんな生き様を捨て鉢だといい、哀れだといったけれど、だ
から報復に走るなとは言わなかった。―――――それは、今でも変わりませんか?」
「白鳳さん……」
それは、あの決別を覚悟した日に交わされた問答の、非常に意味合いの近しい言
葉の質疑者と応答者の役割を挿げ替えたものだった。あの日、向けられた言葉を挑発
と受け取った白鳳は半ば意地でそれに諾と応え、ある意味ではその意地を後悔しもし
た。
だから…敢えて同じ言葉を選んだのは、あの日の彼に対する意趣返しの意図もあっ
たのか…
―――否。同じ問答をしかけたところで、青年が意地も賭け値もなしに、同じ応えを
返すだろうことは始めからわかっていた。それでもそんな選択をしてしまうのは、結局
は自分の心が弱いためで……
果たして――
「……ええ。とめません、今でも」
白鳳の思い描いた通りの語調と語彙で、セレストが短く応えた。
「それが、貴方がこの先を生きていくのに必要なことなのであれば……俺は、貴方の
報復をとめることはできません。―――それは、本音の部分ではそんな風に身を削
るようにして生きていく貴方を見ているのは苦しいですが……でも貴方ではない俺が、
貴方が必要だと訴えるものを否定することはできませんから……」
だから、今でもとめません―――そう続けられた言の葉は、まるで陽気の話でもして
いるかのように衒いと言うものが少しもなくて…それでいて、言葉の端々から自分に向
けられた厚意を嫌が応にも汲み取れてしまうから……その語調は、脛に傷持つ白鳳の
胸襟を、尚の事ささくれ立たせた。
「……それなら…」
向ける呼掛けが、意志の止め立てを跳ね除けて意気地なく震えを帯びる。
「……それなら…そんな報復を、王家と騎士団が非公式に抱える公儀隠密がしでか
したとしたら…?」
言葉を重ねるごとに、我知らず積もらせてきた鬱屈が胸襟を焼く。
大儀を奉し、主家たる王家を奉じ、そして守るべき彼らの主筋のために行動する、厳
しい戒律に育まれた純粋培養の、聖騎士達。
……わかっている。はじめから、解かっていたことだ。
そんな風に望まれ育てられて
きた彼らと自分の立ち位置が、真に交わることなどありえはしない。そして、そんな彼
らを嫉む訳でもなければ、そうはなれなかった自らを貶める思いもありはしなかったが…
ただ……
「きつく律された日常に身を置く騎士団に籍を置いた存在が、私怨のままに報復行為
に走ったとしたら…?」
ただ……たまらなく惨めだと、そう感じるだけだ。
自分とセレストの世界は、本当の意味ではけして同じ目線に並ぶことなどないのだか
ら。
「白鳳さん……」
「貴方と、貴方の守る大切な坊ちゃんの顔に、名前に…
そんな私怨に駆られた直情
な人間が、泥を塗ったとしたら……!?」
それ以上言葉を繋げたら、この得難い思い人の前でまた不覚をさらしてしまいそうで
……荒げた呼気を持て余しながら、きつく奥歯を噛み締めてこみ上げてくるものをやり過
ごす。
自分とこの青年は、あの一件を境にして、政治、思想犯罪を犯した咎人とその断罪人
へと互いの立ち位置を変じた。今でも青年がこの身の監視者である以上、優劣は常にこ
の青年が主導を握っている。
だが……対外的な立ち位置で互いを捉えるより先に、自分達は同性だった。そして、
あまりにも遅々とした、手探り合う状況ではあれ、友人として思いを寄せた存在として、
互いを認め合いもしている。そんな相手を前に、
いつまでも醜態を晒してばかりいるの
は耐えがたかった。
自分達は同性で、同じ視点で互いを捉えた同調者で……そして、自分達は対等であ
るべき存在なのだから。
だが…だけれども……
それならば何故……自分は、こうして自分達の差異を前に、こうもささくれ立っている
のだろう…
「…だから……私には、荷が勝ちすぎる……っ」
「……白鳳さん…」
言い放つなり絶句して視線を反らせてしまった白鳳を前に、セレストは及び腰にその
名を呼ばわった。
手飼と化した自らの、報復行為を是とするか否か…繰り返し問われた言葉を窮する
までもなく、青年のいわんとしているその意味は、一つしか存在しなかった。
まるで自身を抱きしめようとしているかのように、きつく交差し胸の前で深く組まれた
両の腕。その血の気を失った指先は小刻みに震えを帯び、抱く情動を雄弁に物語
って
いた。
「…白鳳さん」
続く言葉に禁忌の思いを覚え、束の間セレストは逡巡した。
だが、今朝方から彼に感じていた違和感といい、そうであったと言う事であれば、確か
に説明がつく。
その問い掛けを続けることは―――同時に、眼前の青年の抱える荷と覚悟を、セレス
ト自身にも強いられる事でもあった。
覚悟を物語る長さの沈黙が三度室内の空気を支配しー―そして、ついに呼ばわりはな
された。
「……その「相手」を―――見つけたということ、ですか…?」
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