復路をたどり、ルーキウスの城下に白鳳が足を踏み入れた頃には…あたりの景観は、
次第に露にされる陽光に照らし出され、既に白み始めていた。
もう、朝の早い職種に従事する住人などは起き出して、それぞれの一日が始まろうと
する頃だろう。ましてや城内の警備は二十四時間体勢だから、内部の人間であるという
身分を証明さえできれば、いつでも城内に入る事もできた。
巡検士として、雇い人にして身元保証人である王子に報告すべき事もあるし、それな
りの距離をたどった体も疲弊している。城内にあてがわれた私室に早々に戻ってしまっ
たほうが、休息も取りやすかった。
だが……
ひとまず城門に立つ警備兵に城内へと通してもらったものの、そこから先へと足を進め
ることが、どうにも億劫だった。
騎士団寮の棟続きだ。もうあと百歩も歩くことなく、目的地は目先にあったが……
ここを進めば、騎士団寮を通りぬけなければならない。寮には自分のもう一人の身元
保証人にして引きうけ人である近衛隊の副隊長がいた。
時間帯を考えても、顔を合わせることはまずあるまいが…万一を考えると、どうにも足
の運びが重くなる。
できることなら…今は、彼の顔をみたくない。
ゆらりと迂回すると、肩口に乗る弟が気配で察したのか一声鳴いた。宥めるように軽
く頭を撫でてやりながら、それでも諾とも否とも口にできずに回り道を歩く。
と、その足が小規模な噴水を戴く宿舎の中庭で止まった。
陽気のいい時などは、日中このあたりは非番の騎士や職務の合間を縫った関係者達
のあつまるささやかな憩いの場になるという。利用用途に合わせてか、敷地のそこここ
に道行きの邪魔にならない程度の数でベンチや庇が設置されていた。
その一つに、何とはなしに腰を下ろす。同時に足元からわきあがってくるかのような倦
怠感に、徹夜仕事が思いのほか体に堪えている事が否応無しに伝わってきた。
……否。堪えているのは、その「仕事」で思いもかけずに得てしまった情報についてか…
持ち上げた両の手の平の中にゆるゆると額を預けると、無意識に漏れた嘆息が未明
の大気を僅か白く染めた。
疲れているのだ。年甲斐もなく、むきになって無茶をしたものだから。
振り払っても振り払っても纏わりつく倦怠も焦燥も、寝不足の代償で…だから、一度休
めばこんな衝動は、すぐに忘れられるはずで…だけど…
―――マスター…マスター・ゼノバ…
数年ぶりに、耳にした名前だった。
忘れた事はない。忘れようとした事もない。
だが……腹のどこかで、忘れてしまいたいと思っていた一つの名。
自分と弟に…この気の遠くなるような旅路を強いた、それは、事態の間接的な共犯者
となった男の名前だ。
弟の解呪を果たし、彼を人の姿に戻しても……この小さな獣の姿に変えられた、弟の
失われた時間はけして元には戻らない。何を手にいれても、何を壊しても……人の身に
過ぎない存在には、けして取り戻せないものがあった。
不甲斐ない自らに対する怒りと憔悴と…様々な行き場のない負の情動が、最後にた
どりついたのが報復という後ろ暗い衝動。
どれほど償っても取り戻せないものならば…その要因となった存在全てを、この手で叩
き壊してやりたいと思った。
人知の及ばぬ、神にも等しい存在を相手どることなのだと肝に命じていても…わきあが
る情動は飲み下しようがなく…
そして……無差別とも呼べる激情の矛先は、人為的な、作為的な手だてで自分達を
あの運命の遺跡に導いた、存在の全てにをも向けられた。
彼らが…「彼」が、弟をこの姿に変えたわけではない。それがわかっていても、どうし
てもこの理不尽な衝動を止める事ができなくて……
堕ちるというなら、際限なく堕ちてしまえと、自虐にも似た思いで自らを炊きつけて、炊
きつけて……
それが、旅路をたどって五年目の春…コンプリートの一環で足を止めた、このルーキウ
スの地で……少しずつ、自分の中に巣食った衝動はその形を変えられていった。
スイの解呪を望む思いはかわらない。身勝手な自己満足だと腹の底ではわかってい
ながらも、要因の全てに報復を望む思いも。
だが……根幹を覆すことなく、それでも少しずつ少しずつ、この胸襟に生まれ育てられ
ていった、形にならない何か…
『取引をしないか?』
あの日……姦計を打ち砕かれ、国家への大逆者の名を背負ったまま国外へ逃げ出す
よりなかったこの身を捉え、闇に葬られる覚悟すら固めた自分に向かい、彼の王子が持
ちかけた言葉。
『巡検士、と言うやつだな。基本的には、国外を回って触れた、生の感触での世情をルー
キウスにもたらすのがお前の仕事だ。勿論非公式の役職だが、王家
の保護はつく。公
役で動くからには、「どんな禁足地でも」出入り自由だ』
ルーキウスの王家に対し、自分が諮った転覆劇の最後の波紋となった、モンスターの
亜種の、王家指定の保護条例。その発端はあの小さな第二王子であることを、その時自
分は始めて知らされた。自分に対する、深く考えた訳でもない報復行為であったのだと、
彼は悪びれもせずに語り……
だから……同じ語調で王子が取引を持ちかけた時、自分は察しない訳にはいかなかっ
たのだ。 それが、子供らしい矜持の塊のようである彼の、言葉にならない贖罪であった
のだと言うことを。
差し出された手を取った時点で、立場上あくまでも受身にならざるを得ないこの身の
負けだった。その刹那から、自分と彼、そして彼の従者との間には、それまでとは別種
の相関が築かれる。
性格的に考えても、それは必ずしも自分の望んだ結末ではなかったかもしれない。
それでも、彼らの差し出し手は温かくて……腹の底に蟠った自らの矜持など、それ
こそどうでもいいと思ってしまうくらいに、この身は向けられた搦め手に捉えられていた。
そして、ようやっと二月。
こんな風に、半分何かに拘束された暮らしも悪くはないかと―――変えられていく自
覚も、悪くはないかと、ようやく自分は腹を固めて……
なのに…今になって、何故……
報復しか考えることのできなかった五年前の自分に戻ることは、今となっては裏切りだ。
氷を溶かすように自分との距離を縮め続けてくれた彼らの手を振り払い、今更自分は振
り出しに戻るのか……
と、刹那―――
自分が思うよりもずっと、自らの内面を覗き込んでいたのだろうか。出し抜けに耳朶を
打った下草を踏みしだく音に、白鳳は弾かれたように顔を上げた。
視野の先に映ったのは、夜勤明けと思しき騎士姿の、年若い二人連れ。
欠伸交じりに中庭を横切ってきた彼等もまた、この時間帯に人がいるとは思わなかった
のか虚をつかれたような表情でこちらを見下ろしている。
「……あれ?あんた、ここんところ、時々見かけるよな」
先に口を開いたのは、二人ずれの更に年若い外見をした青年のほうだった。
「どこの所属?こんな目立つ奴、いたら今まですぐに解かったはずだよなぁ?」
「こ〜んな時間に、一人で何してんのぉ?」
にやにやと笑いながら、交互に揶揄するような言葉をかけてくる。
束の間身構えた白鳳も、相手の正体が解かったことでその双肩から力を抜いた。
悪目立ちする外見は今に始まったことではないので、男女問わずにこうしたちょっか
いをかけたがる輩には慣れている。そこに他意がなくとも一々相手になるほど自分も悪
食ではないし、こういったいかにも口の軽そうな存在には人間的な興味も沸かなかった。
殊更に無視を決め込むことに決めた白鳳の前で、それでも青年二人は面白そうに言
葉を重ねた。
「ここに出入りできるってことは、あんたここの新入りなんだろ?前にも詰所の近くで
見かけたことあるもんなぁ。その割りに、えらく肉付きの悪い体してるけどな〜」
「そうそう、間違っても武官じゃないよなぁ。それともアレか?誰かのお世話受けちゃっ
てたりしてな」
「ぎゃっはははは!卑猥よ〜」
平時の白鳳であれば、蛙の面に水と取り合いもしなかっただろう。実際問題として、そ
う揶揄されても仕方がないだけのことを、自分は影で続けてきた。そして、そんな自身を
世間に対し後ろめたく思ったこともない。
だが・・…眼前で与太話に興じているこの二人連れが、自分でも説明がつかないほど
に気に障った。
「……スイ。放れて」
「どうしたのお兄さん?あ、それってペット?かわゆいシュミしてるねえ」
「邪魔だよ、ぼく達」
意図した声音で突き放すと、青年二人が些か虚をつかれた様子を見せた。その様を見
遣りながら、見せつけるように口許だけで笑って見せる。
「夜番が明けたなら、早く宿舎に戻ればいい。夜更かしを自慢したいお年頃でもないだ
ろうにね」
「…っ」
「お帰り。……耳触りだと、言っているんだよ」
刹那―――あまりにも容易くのせられ、気色ばむ青年達に思わず自嘲めいた笑みが
漏れる。自分より三つ、四つ年若なのであろう彼らのこんな直情に、自分が従う事ができ
たのは果たしていつ頃までだっただろうか。
厳しい規律の元、騎士としての道を踏み外さないようにと望まれ、鍛錬を繰り返す…純
粋培養の、被保護者達……
何が気に障ったのかが……不意に、解かったような気がした。
青年の片割れが、伸ばした手で上衣の襟元をつかみ寄せる。
白鳳は、その手を敢えて振り払わなかった。
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