「こ…の…ッ」
本気を思い知らされるには充分過ぎる力で以って双肩を押さえ込まれ、それまでかろうじて
自身を優位にたたせて見せていた虚勢が、呆気なく崩れ落ちた。
何がしかの事態に対しての、戦力の一つ同士として問われる存在意義であれば、自分だと
てそうそう遅れを取りはしない。単身ハンターの裏世界を渡り歩いてきた自分には相応の自
負があり、誰が相手であれそれを軽んじた目で捉えることを周囲に許したこともなかった。
だが……やはり純然たる力比べに持ちこまれてしまえば、相応の鍛錬を自身に課したとは
言え、男としては身の軽い部類に入るであろうこの身は、どうしても不利になる。
ましてや、その道の大家とも呼ぶべき国公認の戦闘組織の、それも頭角にも立とうという男
が相手であれば。
「放しなさい!なんのつもりですか!」
掻き集めた気概で以ってねめつけても、眼前の男は顔色一つ変えずにその拘束を強めてい
く。のみならず、なんとかそれから逃れようとするあまり生じた白鳳の隙をついて、何気ない仕
草でその片足が払われた。
「……っ」
背を向けて立っていた寝台の上へと、二人揃って雪崩込むには……それだけで、充分だった。
「セレスト!」
ここにきて尚、白鳳は、これが青年のしかけた単なる脅しであるのだと、信じていたかった。
探りあうようにして互いを求め合い、自分達の間に新たな相関が築かれて二月。世間一般
の呼称に準えるなら「恋人」だの「情人」だのと呼び習わされるのであろうセレストと、いわゆ
るそういう夜を過ごしたのも一度や二度ではない。
それでも多忙を極める青年と、その監督下で別種の任を受けている自分の時間が波長を同
じくすることは珍しくて。自分はともあれ、頑ななまでに公私の別を線引きするセレストが、そ
の境界を曖昧にすることをよしとするはずもなかったから……結果として、血族よりも近い場
所に互いを招き入れながらも、自分達はどこかで中途半端に「他人」の立ち位置のままだった。
だが、そういった背景などさし置いても―――生まれなのか育ちなのか、殊この手の接触に
矍鑠とした「筋」を貫こうとするこの青年が、人としての尊厳を無視してまで自分に無体を働く
とは、白鳳には思えない。
―――否。思いたくなかった。
ここまでの信頼関係を築く為に、元来が敵対する間柄であった自分達は、どれほどの回り
道をしてきただろうか。その全てをふいにしてまでセレストが利己に走ったというのなら…ま
た、自分達はあの出会いの日からやりなおさなければならなくなる。
それだけは耐えられないと……自ら積み重ねてきた所業の程を承知の上で、それでも白鳳
は思わずにはいられなかった。
一度壊れてしまったものを、再び欠片から繋ぎ合わせて組み立てなおすことはできる。
だが…新たに作り上げられたそれが、壊れる前と寸分違わない造形を保つことは不可能だっ
た。一度でも刻まれたひびは、それをなかったことにすることなどけしてできはしないのだ。
嫌だ、と叫びにも似た情動が、胸襟を打ち据える。
何度でもやり直すことはできるのだと、追憶の日の自分にそう言い含めて相関の修復を持
ちかけたのは、他ならぬセレスト自身だった。それでも、人として当たり前の友人関係を築こ
うと口にした彼はしかし、全く同じ目線のままの自分達でいようとは言わなかった。
人は、時流と共に変化していく生き物だから…信頼も友愛も、どれほど自らの理念に近しい
場所まで昇華しようとも、それを同じ形のまま留め置くことはできない。その流動性を憂えて
自ら内にこもってしまえば、そこで「世界」は終わってしまう。だから、一度腹の底から向き合っ
た相手との関係が良くも悪くも変化していくことを、寂しいとは思っても塞き止めたいとは白鳳
は思わなかったのだ。
だが、それはいずれ確実に訪れる自然発生的な転機を想定しての覚悟であって、こうして
自ら壊し急ごうとする相手の為に、わざわざ胆に命じたものではない。
前科者とその監督者という世間向けの相関を持つ以上、自分達の立ち位置が完全には対
等になり得ないことはわかっていた。この身の存続はあくまでも断罪側である彼とその主筋
の厚意によって保証されているのだから、その手形の効力が無期限ではないことも、他の誰
でもない自分自身が胆に銘じて得心している。
だからこそ、今でさえ手探りの延長から微妙なものになりかねないお互いの相関の変化に、
どうしても自分のほうがより臆病になった。
どれほど対等であろうと望んでみても、結局のところは相関の主導はセレストにある。そして、
彼の存在意義を象徴する高潔な血筋の王子に対し、ひとたびこの身が反意を示せば、なによ
りも職務に忠実な青年が躊躇うことなく自分を処断することは想像に難くなかったから……
セレストをセレストたらしめているのは、その杓子定規なまでの為人だ。自らそうであろうと
望む彼が、守り仕える王子至上の姿勢を崩す日は、けして訪れはしないだろう。
変動することのないその優先順位に、自らを準えることはとうにやめてしまった。そもそもが
これほどまでに特異な間柄にある自分達を、世間一般が推奨するような「型」に当てはめて
考える方に無理があるのだ。
だから、そんな自分達を空しいとは思わない。だが―――
……それでも。いま、この国にこうして保護されている自分の姿に…自分は、あまりにも慣
れすぎてしまったのだ。
不変性など欠片も望めないことを重々承知しながらも…腹の底では、求めてしまう。
こんな不確かな相関が許されるのは、一年か、2年か―――あるいは半年もてば、いいほ
うなのか。
その限られた時間の、最後の最後まで、自分は与えられた立ち位置に見苦しくしがみつい
ていたかった。
その臨界を…今、その自重で自分を押さえ込んで見せた眼前の青年が、自ら呼びこもうと
している。
――――――嫌だ…!
互いの腹の底を探りあって。文字通り、心身を傷つけあって…
あの嘗胆の思いを、今になってもう一度繰り返すのは嫌だった。
「…っセレスト!!」
あらん限りの力で以って、自分を組み伏せる青年を退けようと総身で抗う。
体裁もかなぐり捨てて突き上げた拳が幾度か相手の腹部を捉えた感触があったが、それ
でも双肩と下肢を支点にして体重をかけてくる男はビクともしなかった。
「放しませんよ」
こちらを見下ろしながら紡がれた言葉は、不自然なまでに落ち着き払っている。まがりなり
にも情交に及ぼうかという状況下でのそれは、仕掛け人の狙いを白鳳に悟らせるには充分
だった。
このまま放任すれば、長年求めつづけてきた「餌」をちらつかされた自分がどう行った行動
に出るかは、自分が思う以上に傍目にも明らかであろうから。監督を任されたセレストが、主
筋の膝下で予期しうる不祥事を未然に止め立てないはずがなかった。
果たして―――互いの息がかかるほどに近づけられた監督者の容色が、剣呑な色にたわむ。
「放したら最後、貴方は貴賓棟へと押し入るでしょう?それだけは、貴方の「上司」として許
可できませんから」
殊更に含みを持たせたもの言いに、悋気の沸点が白鳳の中で一足飛びに限界を超えた。
間近に迫った情人が、こんな時でも公の顔をして見せるのがなおのこと気に触る。
「だったら!…だったら、こんな回りくどいやり方をしていないで私の腕でも足でも折っていっ
たらどうですか!歩けなければ貴賓棟までいけないし腕が使えなければ獲物も持てませ
んからね!」
挑発めいた揶揄は、それでも相手の最後の自制を信じたかった白鳳の、破れかぶれの賭
けだった。
自分にとって、積年の仇敵である人物が、この青年にとっては主命により一時的に警護す
べき相手となる。二律背反するその立ち位置を互いに譲れない以上、どちらかが煮え湯を飲
む思いを耐えるよりほか落着の術はなかった。
そして……そういった、互いの背負うものを差し引いても、セレストが彼個人の純然たる厚
意で、自分の狼藉を止め立てようとしてくれていることもまた、彼をよく知る白鳳には解かって
しまう。
国賓級の存在を相手に刃傷沙汰になど及べば、多少の王家の後ろ盾があるとはいえ、基
本的には手飼の一人に過ぎない自分などひとたまりもない。彼の性格を考えれば、むざと自
滅するような末路を自身の知己にたどらせまいと動くことは想像に難くなかった。
…解かっている。腹の底では、解かっていた。これは、自分の行く末を憂えた彼が、それで
も自滅の道行きから自分を引き戻そうとその手を伸ばしてくれた、彼なりの優しさだ。言葉で
の説得になど自分が耳を傾けられるはずもなかったのだから、彼の判断はきっと、正しい。
―――それでも。自分もまた、譲ることはできないのだ。
この催しが終わってしまったら…自分の標的は、またあの安全な巣穴へと引きこもってしま
う。そうなってからでは、今となってはあの街に立ち戻ることも叶わない無法者の自分にとって、
男は再び、遠い存在となってしまうのだ。
閉催までは、今日を入れてもあと二日を残すのみだ。警護された環境にある標的の隙を見
つけだし、そこをついて行動を起こすためには、不足の事態まで予測すればぎりぎり実行可
能な時間しか残されてはいない。今、ここで足止めを食らうわけにはいかないのだ。
譲り合うことの叶わない、互いの立ち位置は理解している。何事をさし置いても職務をまっ
とうできる鉄の意志を兼ね備え持つからこそ、元来の才覚はもとより彼は軍部の要人たりう
るのだと、そう自分は彼のことを評してきたはずだった。
だが……
「……なにを、言っているんです」
だが……そう理解しているつもりでいながら、なんと言う認識の甘さだろうか。
こんな状況に持ちこまれた今の今まで…自分は、腹のどこかでは信じていたかったのだ。
どうあっても譲れない、我のはりあいの最後の最後には―――きっと、セレストは自分の意を
汲んでくれるに違いない、と。
勝手なものだ。ここまで育て上げた互いの相関を壊したくないと望む胸襟の同じ場所で、そ
れでも利己に走る自分を理解してくれと、浅ましく叫んでいる自分がいる。
…そうだ。いつだって、差し伸べられた厚意の手を、振り払いつづけてきたのは自分のほう
で……
それでも、この男はいつでも、最後の局面ではそんな自分の在り様を信じてくれたから……
だが…だけれども……
「貴方は…近衛の系列に籍を置いた、れっきとした、王家の公僕でしょう?」
自分を見下ろしながら、できの悪い子供に言い聞かせるかのように一語一語をゆっくりと
紡ぐ青年の容色は……この数ヶ月で自分の見知った男のものでは、既になかった。
肩口を押さえ込む骨太の手に、グッと力が加えられたのがわかる。
「博覧会が終わるのは、明後日です。私の役目は、賓客の警護と同時に、その間に発
生しかねない危険要素を、事前に取り除いておくことですから」
「……っだったら……っ!」
だったら、腕でも脚でも折っていけ―――そう繰り返されかけた啖呵は、しかし伸ばされ
た手にきつく襟首をつかみあげられたことで、くぐもった呻きへとすげ替えられて果たせな
かった。
「言ったでしょう?主筋の僕としての存在を足止めるのに…他のどこにも、傷を負わせて
いい箇所なんてないんです。二日後には、近衛は通常の業務体制に戻るんですから」
「セレスト!」
「「白鳳さん」、解かりますか?…言い換えれば、たった二日なんです。そんな短い時間
に限定して、都合よく貴方の行動を規制する手立てなんて、そうそうありはしないんで
すよ」
言って……白鳳のよく知る男は、次の刹那には、公職における指揮者の顔になった。
「―――白鳳。上役として、博覧会閉催までの謹慎を命じる。謹慎が解けるまで……公
の場には、けして姿を見せるな」