泥のように疲弊した精神で思考をまとめることはできず、混濁する感情を持て余した
ままその場に縫いとめられていた時間は、白鳳が思うよりもずっと長いものであったら
しい。
思考の深淵へと陥りかけた意識が、ともすれば我に返って現実へと引き戻される。
そうして知覚する景色が反転を繰り返す事にいつしか感覚が麻痺し始めた頃―――
白鳳の耳朶に、それまで聞くとはなしに耳にしてきた、この特殊研究室から間断なく発
される機械音に紛れ、これまでとは別種の物音が飛び込んできた。
固い石床を踏み鳴らす、いくつかの不揃いな足音。始めは微かに知覚する程度に過
ぎなかったそれは次第に聞き流せない程の大きさとなり、聞こえ始めたときと同じく不
揃いに白鳳の耳朶を刺激した。
大人の体重を感じさせるはっきりとした足音が二つ、それよりも今少し重量に欠ける
ような、発育途中の子供のものと思われる足音が一つ。ぼんやりとした意識でそこま
でを認識すると、白鳳は拘束された体勢から首を上げることもなく、ただその双眸を気
だるく瞬かせた。
大人が二人に、子供が一人。まさに自分が心のどこかで夢想した、都合のよすぎる
『助力』の構成員として誂え向きだ。
だが、あれだけの不義理を働いた自分にむけて、そんな自分にばかり都合のいい転
機が訪れるはずはない。どれほど疲弊し正常な判断能力に欠けた状態であれ、夢想
に過ぎずとも高望みにも程があった。
自身の短絡さを意外な形で思い知らされ、白鳳の口角が微苦笑の形に持ちあがる。
―――と、その時……
「白鳳さん!」
「白鳳!」
俯いたままだった、その視野の外から投げかけられた異口同音の呼び声。近距離か
ら耳朶を打ったそれらの声を……白鳳は、知っていた。
何事かを思い巡らす暇もなく、声のした方向へと弾かれたように顔を上げる。
眼前の風景を認識するよりも先に知覚できたのは―――頬に走った、鈍い打擲の
衝撃だった。
「……っ」
「てめぇ!!」
容赦のない力で殴りつけられた勢いを受け止めきれず、拘束された不自由な体勢か
らくずれかけた白鳳の上体が、次の瞬間には間逆の方向へと引き戻される。記憶に残
る怒声を知覚するのと同時に、強引に向き直らされた視野一杯に、因縁浅からぬ知己
の、自分をねめつける憤怒の形相が飛び込んできた。
知り合ってからそう長い時間が過ぎたわけでもないのに、自分にとって、いつしかすっ
かり馴染みの存在となってしまった、無法の世界に生きる男。
こちらから戯れのように接触を仕掛け続けた事もあり、顔を合わせる機会は数え切れ
ないほどあったというのに……記憶に残る男の顔は、いつでもこんな怒り顔ばかりだっ
た。
寄ると触るとろくでもない戯れを仕掛け、その癇に障るような事ばかり繰り返してきた
のだから、自分に向けられたその心証が日ごとに悪化していくのは当然の事だろう。
そんな、現状を省みずに埒もない事を考えている自分に、思わず自嘲めいた笑みが漏
れる。それが図らずも強張った口角を和らげ、疲弊に喉奥まで塞がれて二度と吐き出
せないかとさえ思われた声を、白鳳に取り戻させた。
「……い、たいな。怪我人…ですよ」
「うるせぇ!てめぇ、なんでこんなとこに繋がれてやがる!!」
「親分さん、怪我人相手に…っ」
後から追い付いた青年が制止の声を上げるのにも頓着することなく、白鳳を締め上げ
る男――アックスの手は緩まない。そんな男の剣幕を相変わらずだと苦笑する思いとは
別のところで、真っ先に自分に手を伸ばしたのがアックスでよかったと、白鳳は思った。
アックスを追う形で現れた一組の主従―――セレストと、そして恐らくはカナンも、男
の子モンスターのコンプリートに精を出す自分の「暗躍」に隠された理由を知っている。
一個人同士としてのしがらみはどうあれ―とくにカナンと自分の相関は、到底友好的
であるとは言い難い―、事情に通じる彼らは、こんな状況に置かれた自分を見れば、
ここに至るまでにしでかした自分の身勝手を言及する事もなく、自分にその手を差し伸
べてくれたのだろう。
長年対外勢力との交戦経験がなく、長閑な国風に馴染んだとはいえ、一国の王子と
その警護に当たる近衛騎士だ。あのルーキウスという小国を心底愛する彼らは、祖国
に害をなす存在にけして容赦をしない。だが、ひとたび己の懐へ招き入れた相手を無
碍には切り捨てられない、情の深さも彼らは併せ持っていた。
たとえ、一度はルーキウスの王位簒奪を目論み敵対した自分のような存在さえ……
排除する理由がなくなれば、再び厚情の手を伸ばす事を彼らは躊躇わない。それが彼
らに内在する強さであり、自分が彼らに叶わないことを心底思い知らされた、彼らに畏
怖を覚える一面でもあった。
だから……彼らと相対するよりも先に、自分と接触したのがアックスで良かった。もし、
このままあの主従の手によって助けだされ、先走った自分の行動に対する「代償」も払
うことなくこの窮地を免れたとしたら……そうして無条件に寄せられる厚意の手に引か
れて、当然のように彼らの側近くに戻ってしまったら、今度こそ、もう自分は一人で立ち
上がれない人間になってしまったかもしれない。
無条件に縋りつくような真似を許されず、一人空回りした暴走のツケを見逃される事
もない―――そんな風に、他者から適度に突き放された立ち位置が、きっと自分には
丁度いい。
そんな風に自身の内面に向き合っていた時間は、白鳳が知覚する以上に長いもので
あったらしい。反応を返さない白鳳が呆けていると思ったのか、アックスは苛立ったよう
にその胸元をつかみ寄せる腕に力を込めた。
「……てめぇがドジ踏んでどんなザマ晒そうが勝手だがな、今回はうちの子分の命が
かかってるんだよ!!」
息がかかるほどに近づけられた男の精悍な相貌が、かつて白鳳が幾度となく戯れを
仕掛けて彼を憤激されたどの時よりも、容赦のない怒りの表情に歪んでいる。
そして……
「勝算があるような事を抜かして一人で突っ走った挙句、とっとと返り討ちにされてこ
のザマか?あのすかした野郎がてめぇのオヤジにでも見えたのか!!」
「……っ」
それは、白鳳が最も触れられたくないと恐れていた琴線に触れる言葉だった。
あの時、ダンジョンの一角で「ノーベル学者さん」と相対した一部始終を目撃された以
上、アックスが自分の押し隠してきた過去を知ってしまったのは当然の成り行きだった。
その上、自分は自分自身の口で、「ノーベル学者さん」に父を重ねるような失言を残し
てしまっている。
かつて、ルーキウス国の王家転覆を企てるクーデターに与した際、敵対関係となった
セレストとの幾度にも及ぶぶつかり合いの過程で、自分の抱える過去の一端は、件の
青年の知るところとなった。まだ互いの立ち場すら明かしあってもいなかった時分に、
ふとした心弱さに負けて自分から洩らしてしまった、酒の席での泣き言めいた戯言が
きっかけでの露呈であり、その上で自分と関わることをやめなかった青年を、余計なお
せっかいとはねつける事はできない。
最後の最後までセレストをの関わりを断てなかったのも、クーデターが不首尾に終わ
り、一度は互いの生きる世界へと別れても、こうして事あるごとに戯れのように彼ら主
従と絡んでしまうのも―――全ては、あのルーキウスでの日々を忘れ去れない自分の
未練ゆえだ。結果としてずるずると縁を繋いでしまった以上、セレストの主人であるカナ
ンの耳目にも自分の過去が明るみになるのは致し方のない事で……それは自分の未
練が招いたツケだと、白鳳自身納得づくだ。
だが……それはあくまでも、自分の「暴走」の一端を晒してしまったというだけの事だ。
「ノーベル学者さん」との確執は、かつて自分がしでかしてきた「業」の全てを赤裸々
に物語るものであり、セレストにもカナンにも、ましてや自分を疎み抜いているだろうアッ
クスにも……彼らの前で、それを曝け出す覚悟など白鳳にはなかった。
全てを知られてしまったという動揺に追い打ちをかけるように、アックスの怒声によっ
て、この研究所で行われた顛末の一部始終が、追憶となって白鳳の脳裏によみがえっ
てくる。
父の外見をそっくり写し取ったかのような人外から受けた仕打ちを追体験させられた
ような心地となり、不覚にもこみ上げてくるもので視野が歪んだ。
そんな白鳳の衝動に気づかないはずもないだろうに、アックスは、追及の手を緩めな
かった。
「てめぇのオヤジは!こんな胡散臭い研究所に籠って、浚ってきた人間を解剖するの
か!?訳の分からねぇ光を出して人を攻撃するのか!?ああ!?」
「…っ」
「あんな得体の知れねぇ野郎が、てめぇのオヤジなのか!?どうなんだ!」
こちらの様子に全く頓着することなく、激情にまかせて締め上げてくる腕の力が苦し
い。もうこれ以上は勘弁してくれと、外聞もなく叫びたかった。
だが、自分が答えを返さない限り、アックスはけして引き下がらないだろう。先刻か
ら何度も止め立てに入ろうとしているセレストを一顧だにせずぞんざいに突き放す様子
からも、彼の確固たる意志の程が伝わってくる。
外部からの助力に頼ってこの詰問を逃れることは、出来なかった。自分の言葉で返
答できない限り、アックスはけして自分を離さない。
「……ち…がい、ますよ…」
「ああ!?」
「……そ…んな…人間…ば、なれ…した…」
締め上げられる喉の奥から絞り出した声は、懸命にかみ殺す情動の揺らぎも相まっ
て、ひどく頼りない響きとなって白鳳の耳に届いた。
府抜けた声を出すなとまた怒鳴られるかと思ったが……予想に反して、始まったとき
と同じく唐突に、喉元を締め上げていた男の腕が離れた。
「……解ってんじゃねぇか」
「…っ」
「解っていて、それでも攻撃出来ねぇなんてな……てめぇがそんな殊勝なタマかよ」
吐き捨てるように続けられたアックスの言葉には、先程までの苛烈なまでの語勢は
ない。だが、耳朶を打つその声が、それまで以上に深く重く、白鳳の胸襟を穿った。
自分に向って、アックスがここまで静かに言葉をかけた事がこれまであっただろうか。
初めて聞いた、男の起伏のない語調はかえって白鳳の衝動を煽る。いっそ、最後ま
でいつものように容赦のない罵声で罵ってくれた方がましだった。
意志の制止を振り切って決壊しようとする自らの情動を、せめて男の眼前に晒したく
なくて視線を逸らす。そうして、何とかして激情をやり過ごそうとする白鳳の耳朶を、再
び耳慣れた男の声が打った。
「……動けねぇっていうならそれでもいい。てめぇはここで勝手に萎れてろ!」
「……おや、ぶんさん…」
「俺はあのすかした野郎をぶっ殺して、子分を取り戻さなきゃならねぇんだ。これ以上
てめぇに構っている時間なんぞあるか!」
弾かれたように顔を上げた先で、アックスは忌々しそうに己の獲物を構え直し、白鳳
の前から一歩退いた。宣言通り、このまま研究所に押し入って、「ノーベル学者さん」
と対峙するつもりなのだろう。
呼びとめなければ―――と、痛切に思った。
自分の不手際で招いた事態を、自分だけ蚊帳の外に放り出されて静観する訳には
いかない。アックスが自身の扶養する存在に庇護者としての責任を感じているように、
自分にも、自分の弟と、そして巻き込まれた少年に対し果たさなければならない責任
があった。
そして……研究所で待つ、「ノーベル学者さん」に対しても、自分には……
「…ぁ……」
制止の言葉も、自らに課せられた使命に対する釈明も……今この瞬間に、告げなけ
ればならない言葉は沢山あった。この機を逃せば、自分を見限った一行は自分抜きで、
この先の対峙を決行してしまう。
止めなければ、告げなければ。
だが……なんと言えばいい?今更自分が、何を言える?
一度は何事かを紡ぎかけた唇が、しかし、結局は言葉を続ける事ができずに塞がれ
てしまう。何度か同じ事を試みたものの不首尾に終わり、白鳳は、ついに俯いて眼前
の一行から視線を背けた。
と、その刹那―――
「……白鳳さん」
「…っ」
「白鳳さん……本当にいいんですか?それで……」
今にも白鳳に背を向けて、先頭に立って研究所へと押し入ろうとしていたアックスの
足が、つと止まる。
結果として制止を促すこととなった静かな呼ばわりの声は……それまで白鳳と直接
会話する機会を与えられなかった、近衛騎士の青年から発されたものだった。
TO
BE CONTINUED...
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