Darwinism〜岸を離れる日・7







 「……っ」

 意識を取り戻した刹那、襲いかかってきたのは、疲弊した総身を地面に引きずり落とそうと
する重力の存在だった。


 力の入らない膝がなすすべもなく崩れそうになるのを、だが、持ち上げた両手首にかかる負
荷が強引に押しとどめる。
 強制的にその場に縫い付けられたかのような自身の体勢に、白鳳は、遅ればせながら自
身の置かれた状況を知覚した。

 まず目に入ったのは、眼前に広がる、見慣れたダンジョンの景観。そして、巡らせた視線の
先に捉えた、両手首に課せられた枷の存在だった。
 

 「ノーベル学者さん」との鬩ぎ合いに敗れ、その根城である特殊研究所で無様を晒す羽目に
なった、二度目の昏倒。それからどれほどの時間が経過しているのは定かではなかったが、
景観からしてどうやらここは、「彼」の根城に面するダンジョンからの入口地点であるらしい。

 どうやら、自分はあの後、研究所から放り出された揚句、その入り口につながれてしまった
ようだった。すぐに「始末」することなくこんな場所に繋いでおくのは、自分から採取した「サン
プル」の検出が終わるまでの暫定措置で……つまるところ、必要なサンプルを取り出した自
分は「彼」の中で、用済みの存在に分類されたということなのだろう。

 敵地の入り口に晒しもののように繋がれ、検出を終えた「彼」の処分を待っているかのよう
なこの状況はひどく惨めだった。まだ研究所に捉えられたままのスイや、盗賊団の少年の安
否も気にかかる。
 だが……その焦燥を、「ノーベル学者さん」に向ける憤懣と鬱積にすり替えて、この窮地を
脱しようとする気力を、今の白鳳には、どうしても奮い立たせることができなかった。


 スイにも、件の少年にも、自分には責任がある。彼らを何としてでも「ノーベル学者さん」の
手から取り戻し、安全な場所まで連れ帰ってやらねばならなかった。それは改めて認識する
までもなく当然の使命として胸に刻まれた覚悟であり決意であったはずなのに―――どうし
たことか、気力が湧き立たない。

 「ノーベル学者さん」に対する怒りも憎しみも潰えてはいない。この身に負った様々な傷は
しかしそのどれもが予断を許さないような類のものではなく、まだまだ自分は充分に立ち動
くことができるはずだった。
 だが……



 『なんという卑小な存在だ』

 振り払っても振り払っても、脳裏によみがえる声を消し去ることができない。

 『お前に遺伝子を提供した父親の姿形をもつものにこのように嬲られて……それでもお前
  は、劣情するのか』

 父の顔で、父の声で、父の姿で、ことさらに言葉を選ぶようにして自分を嘲って見せた、あ
の人外。
 仕掛けたのは誰なのだと、罵ってやりたい。どれほど自制しようと、生物としての本能と衝
動を理性で押しとどめるには限界がある。自分が恥じ入る必要はないはずだし、仕掛けた人
外から責めを受ける謂れはない。
 だが、それでも……仕掛けられた手管に負け、自分があの人外に屈してしまったのは事
実だった。
 父の顔と姿を見、父の声を聞き、それでも凌ぎきれず、あさましくもその手管に下ってしまっ
た自分は……


 「……っ」

 胸の内から湧き上がる様々な思いに、不覚にもせり上がってきたもので自らの視野がじ
わりと滲むのを、白鳳は意志の力で押しとどめる事ができなかった。



 ―――泣くな。こんなところで感傷に負けてどうするのだ。

 ともすれば喉奥から漏れそうになる嗚咽を食いしばりながら、白鳳は、気力の萎えかけた
自らを懸命に鼓舞した。

 まだ、あの人外との勝負が完全に決したわけではない。自分はまだ、動ける。
 この拘束さえ外せれば、研究所の内部にとって返してあの人外にもう一度挑める。挑ん
で、今度こそスイと少年を取り戻すのだ。
 急がなければならない。まだ研究材料としてとらわれたままの弟達の安否は予断を許さ
ない状態だ。
 それに、いつまでもこんなところに繋がれていれば、後からやってくるだろう即席の同行
者達の目に、どんな無様を晒すことになるか……


 意図して自らをけしかけるような思考に身を委ねていた白鳳は、そこまで思い巡らせてふ
と我に返った。
 ほどなくして、疲労の色濃い容色に、自嘲めいた苦笑が浮かぶ。


 ……いまさら誰が、ここに現れるというのか。

 この研究所に乗り込むまでの経緯を、思い返すまでもない。細心の注意を払い、正確な
座標を調べ上げてから万全の備えで臨むべきだと言葉を重ねて忠告してくれた彼らを、逸っ
た自分は一人出し抜いてここにやってきたのだ。

 心底自分を案じてくれたのであろうあの主従の厚情を、自分は身勝手な焦燥で切り捨て
た。いま一人の同行者であった盗賊団の青年には、自分の不手際で浅くはない怪我を負
わせてしまっている。
 その上で一人先走ってしまった自分を、どうして彼らが案じてくれるというのだろう。


 埒もないことだ。もともと自分は、ハンターとしての長い旅暮らしの中で、殆どパーティーと
いうものを組んだことがない。
 いつでも自分の思うように行程を決め、ハンティングの手立てを講じ、それによる全ての結
果を自己責任として背負ってきた。行動の自由を選んだ故の、時に不自由で寄る辺がない
その代償を、自分は納得づくの上で支払ってきたのだ。

 だから、今になって自分の選択を悔やむ必要などないはずだった。「ノーベル学者さん」と
の対峙はもともと自分一人で乗り切るべき局面であり、始めから誰かの助力など期待して
いない。
 いつも通りだ。いつものように、自らの失策で被ったツケは自ら清算し、気持ちと態勢を立
て直せばいいだけのことだ。自分は生きていて、実験材料にされた「人質」達も今はまだ生
きている。何一つ、手遅れを嘆く要素はない。

 だというのに……この心許なさはどうしたことだ。
 奮い立たせるそばから四散していくかのような自身の気力をどうやって繋ぎとめればいい
のか、白鳳にはもはや解らなかった。

 そんな自らの心の動きに愕然となった衝動が、新たな自嘲の念を引きずりおこす。

 いつから、自分はこんなに心弱くなってしまったのだろう。
 一人で戦うこと。戦況に応じて自身の能力を使い分け、常に自分優位に事が運ぶように立
ち回ること。当てが外れて思いもかけず痛い目を見ても、その失態を自ら取り繕い状勢を立
て直すこと。
 どれもこれまで、自らに課して過たず実行してきた事ばかりだ。今になって荷が勝つなどと
いうことはないはずだ。なのに何故―――



 そんな場合ではないのだと理性ではわかっていても、脳裏をよぎったその自問を、そして自
分にそんな疑念を抱かせる要因となった知己達の顔を、白鳳は、振り払うことができなかった。



 自分にこんな寄る辺なさを覚えさせたのは、まぎれもなく彼らだ。望むと望まざるとに関わら
ず、要所要所で接触する機会のあった彼らとの「交流」が、自分を心弱くした。
 一人で立ち上がれなくなるくらいなら、他者との余計な接触など持たない方がいい。一時の
感傷に負け、これまで培ってきた矜持を失うわけにはいかないのだ。
 だから、思いのほか早く訪れた彼らとの決別は、自分にとって望ましい事態であるはずなの
だ。そのはずなのに―――


 彼らと合流したくない。だがその反面、自分を追って、彼らにここに来て欲しいと思っている自
分もいる。

 どちらが本当の自分の望みなのか……疲弊し重く淀んだ意識では、白鳳は断じることはで
きなかった。




                                         TO BE CONTINUED...



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